0-4 敗北の転機

、青学、全国大会に出場することになったんだ』

 周助から電話があったのは、中学テニス部の全国大会が開催される一週間程前のことだった。関東大会で立海が青春学園に負けたということは柳や弟の新が教えてくれていたし、だから当然、青学が全国大会に出場するということは分かっていた。おめでとうの言葉と共にその旨を伝えれば、そっか、と少し嬉しそうに言う周助の吐息が受話器越しに聞こえてくる。

『それでさ、全国、に試合を見に来て欲しいんだけど』

 最初聞いたときは、ああまたいつものか、と思った。周助はテニス部に入ってから頻繁に自分の試合を見に来るよう誘ってきて、それも毎度断ってきているのだからいい加減諦めて欲しかったのだけど、まあ飽きもせず私に声を掛けてきたようだった。私は最初から誰かの試合の応援をしに行くつもりは更々なかった。地区予選ならまあ、東京の学校だけでそこに立海は入ってこないとは言っても、関東大会とかになれば確実にそこには立海が食い込んでくる。そしてそうなれば私は周助そっちのけで立海、そして幸村君を応援したくなってしまうだろう。いつも家に帰るのが早いために放課後の練習まで残って応援出来ない分、余計に。だからといって彼を全力で応援したらきっとテニス部の迷惑となってしまう。そこは学校という閉鎖された空間では無いのだし、誰が見ているのかも分からないのだ。それに私が幸村君に好意を持っているというのは周助の知らないことだから、他の大会は見に来て関東以降見に行かないというのでは明らかにおかしい。だったら最初から行かない方が良いと、そう思ってのことだった。だから今回も断る気は満々だったものの、直ぐに用件を終わらすのも流石に可哀想かなと思って別の方へと話を逸らす。

「そういえば、今年は何かすごい1年生が入ったんだってね」
『うん。あ、何も青学を応援しに来てって言ってる訳じゃないよ。勿論僕のことは応援して欲しいけど、は立海生なんだから立海を応援しに来れば良いんじゃないかな。何度も僕が誘ったのに、は一回も試合見に来なかったんだし、全国大会位見に来てよ。何なら、決勝だけでも良い』
「決勝だけでも良いって……決勝まで残るって宣言しているようなものだよ。まあ今から随分な自信」

 話を逸らす作戦は私が口を挟む間もなく軌道修正されてしまった。そして彼のそのあまりの自信に内心呆れ返りながら、気付けばカレンダーの方へ目をやっていた。母の見舞いの日ではあったが、近頃は体調も良い。断るつもりが既にそんなことを考え始めている事実に気付いて思わず顔を顰める。

『それ程今年の青学は凄いってこと。だから、ちゃんと決勝見に来てね』
「いやそれは、って切った!」

 行かない、と慌てて言う前に、電話はあっさりと切られてしまった。普段ならどうでもいいことまでぺちゃくちゃ長々と話してくるのにこういう時だけ察しが良いというか。
 正直周助には悪いけれど、私は幸村君が居る限り、立海の優勝は変わらないものだと確信していた。幸村君はあの後手術を経て、部活に復帰した。幸村君が復帰した以上、幸村君が負けるというビジョンがどう頑張っても思い浮かばない。どうしよう、かけ直してちゃんと断るべきかと思って、そこではたと思いついた。これはもしかすると、区切りなのかも知れない。私が「テニス」をする幸村君に憧れを抱く所から脱却する、区切り。テニスを諦めきれなかった結果私が幸村君を応援することとなったのなら、私はちゃんとテニスのことを諦めるために、この依存にも似た憧憬を終わらせなければならない。ならば。幸村君なら私が応援なんてしなくともずっと頂に立ち続けてくれると最後に確認したら、それで終わりにしよう。彼らが立海三連覇を遂げた暁には、私はもう、幸村君に関わるのをやめようと。

 そう、あの中学三年の、全国大会で。今の私が生まれた幸村君のテニスを見届けて、終わらせようと思っていたのに。



 大会最終日決勝戦の日、結局周助に断りの電話を入れることも出来ずに、かといって決勝に進んだよと報告してきた彼に対して応援に行くからとも言えず、結局誰に何も言わないまま会場に足を運ぶこととなった。私があの日其処に居たことは新にすら告げていなかったから、私が会場に居ることを予想出来たのは電話をかけてきた当人である周助だけだったろう。けれど誰に気付かれるのも嫌で、私は出来る限りの変装をして、そして立海生や周助と接触しないように細心の注意を払いながら観客席へと腰を下ろす。すごい熱気だった。満席ではなかったけれど、中学生の全国大会にこれだけの人数が来たのだと思えば十二分に人が入っていた。所々取材に来たらしい記者の姿が見える。出来るだけ目立たないためには人の中に紛れていなければならない。まだ始まる気配のないコートを眺め、被ってきたキャペリンの鍔を極限まで下ろす。長い髪はまとめて帽子の中にしまっているし、マスクもしているし、多少不審者に見られても仕方の無い格好だとは自覚しているけれどだからこそ一目で看過されてしまうことはまずないだろう。
 久方ぶりに間近でテニスの試合を見られるということもあって、諦めるために来たというのに、私の心はいたく高揚していた。丸々試合を見る機会なんて殆どなかったから仕方ないと言い聞かせてはいたものの、自分はそれほどまでにテニスが好きだったのだなあと再確認することにはなった。
 最後だから、最後だからと言い聞かせて始まった試合を見つめる。その試合は、テニスから離れていた私には想像すら出来なかった数々の技が繰り出されていて、その度に奥歯を噛んだ。登り詰めた人たちのテニスとはこういうことを言うのだろうか。もしも私が続けていたら彼らとテニスが出来ただろうか。いや――どのみち性別の壁が立ちふさがるから、無理だっただろう。自嘲する。こんなものはない物強請りだ。どうせやらないのだからそんなことを考えたって仕方がないのに。
 けれど来なければ良かったとは思わなかった。何より、今まで見ることが出来なかった他の立海レギュラーの試合を見ることが出来たというのは、同級生としてかなり刺激的だった。試合内容そのものもあるけれど、それよりも、テニスをしている彼らというものをしっかり見たのが初めてだったのだ。あれを見てしまったら、確かにこれは、ファンもつくだろうなあと思わず納得してしまった。真田君は相変わらず熱いけれど練習量に裏打ちされたパワーやテクニックは流石だし、柳と切原君……切原君は怖かったし。立海が2勝先取した時にはもしかしてこのまま幸村君までまわらないまま立海が優勝してしまうんじゃないかとある意味で冷や汗が流れたが、その後周助が仁王君を押さえ込んでから流れが変わった。風を読む男だとか隣の人が言っていたのを聞いてやっと、周助は末恐ろしい選手に成長したらしいことを理解した。別に周助を甘く見ていた訳ではないけれど、自分で見に来いと自信を持って言うだけのことはある。だからといって手放しに周助を褒めるのは何か癪だった。
 その後も、ジャッカル君と丸井君のダブルスが負けて、立海と青学は2対2。ここまでで周助の言っていた凄い1年生である「越前君」の姿は見えなかったけれど、もしかして彼は幸村君と当たるのだろうか。ぬるい風が汗ばんだ肌を撫でてゆくのを感じながら、突然コートに乱入してきた他校生らしい赤い髪の少年と幸村君がテニスをするのを見つめながら私は喉に手をやる。ここに至っても私は幸村君の勝利を露程も疑っていなかった。あの日ぶりにしかと目にした彼のテニスは、当時よりも精度を増していたし更に強者としての風格を備えていた。確かに、赤い髪の少年のテニスも凄まじかった。精密なテニスではなく荒削りではあると感じたものの、彼の身体能力の高さを感じたし、きっと彼はこれからまだまだ強くなるだろうことを予感させる。それでも、結果的に頂から全てを見下ろすことが出来る幸村君だ。彼は肩にジャージを羽織ったままに勝利をもぎ取った。これを見て震えずにはいられない。畏れ? 違う。歓喜にも似ているそれ。彼のテニスを一目見た時と変わらないあの衝動が私を襲っていた。強い者が勝つその当たり前を体現した姿。誰にも文句を言わせない絶対的な強さ。何て何て何て素晴らしいんだろう。

 それなのに――負けた。幸村君が負けた。あの「越前君」という1年生に。

「幸村君が、負けた」

 喧噪の中声に出すと、途端に全身が鉛のように重くなるのを感じた。私は目の前で起こっていることの訳が分からなかった。何で幸村君が負けたんだろう。どこに幸村君の負ける要素があったんだろう。途中まで、確実に幸村君が勝っていた。柳の言っていた彼の持ち前のテニスである、相手をイップスに陥らせるそれも確実に効いていたのに。
 でも負けは負けなのだ。それだけはどうあっても覆らない。胴上げされる越前君を眺めるコート内に留まったままの幸村君の横顔は、いつになく無表情だった。幸村君は、というか幸村君達は常勝を掲げていた。それは立海生であれば殆どが知っていることだ。他の何をおいても彼は勝たなければならなかった筈なのだ。それが、勝てなかった。
 勝利した青学サイドとは対照的に、立海はどこまでも静かだった。幸村君は越前君と握手をする時は少しだけいつもの余裕にも似た表情を取り戻していたけれど、それも終わって仕舞えば、後私が見えたのはレギュラー達の所へ帰って行く幸村君の背中だけだ。私もまた重い腰を上げて会場を去った。何でだろう、うまくいかない。何が上手くいかないって、思えば最初から何一つうまくいってないんだ、私はきっと。すっぱり諦めきれなかったテニスを、彼がテニスをする姿を見て諦めきれなくなって、でも彼が勝つ姿を見届けたら今度こそ諦めようと決意したのに、予想外の結果になってしまった。うまくいかない。このまま行くとずっとテニスを諦めきれないままなんじゃないか。ぐらぐらと足下が揺れる。地震かと思ったらそうじゃなくて、ただ私がバランスを取れていないだけだった。諦めきれないことを考えたら、怖くて仕方がなかった、から。

 結局それからずっと、高校3年になっても、惰性で彼から目を離せなくなっている自分がいた。彼が負けても尚、好きだけど好きになって欲しくないという想いが変わることのないままで、この感情が何処へ向かえば良いのか私にはてんで見当がつかない。彼が越前君に負けたからといって、失望なんてしなかった。それは最初さえ彼のテニスへの憧れがそのまま好意に繋がっていたのだろうけど、彼について考え続けていた2年と少しは、幸村君への憧れだけでは済まなくさせていた。そもそも、負けたからといって彼のテニスに魅せられた事実は変わらない。いっそ負けてその事実に失望出来たら良かったのに、なんて醜いことまで考えて、顔を覆う。終わらせられなかった。終わらせなきゃ諦めなきゃと考えていて、出来ない、それが現実だ。終わらせたいのに終わらせられないなんてまるで中毒みたいだ。自分でもそう思う。私は幸村君に甘えているだけだ。往生際が悪い。きっかけがなければ諦められないなんて馬鹿じゃないか。後できっとこの惰性を悔やむことになると、そう分かっているのに、私は。
 だけどそれも、卒業までにはちゃんと終わらせなければならないと、それだけは分かっていた。綺麗な形で終わらせたい。いつかそんなこともあったと穏やかな気持ちで思い出せる様な、私だけの記憶として。そう、思っていた。

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