0-3 欠けた葛藤

 自分でももう随分前のことだと思うけれど、あの瞬間の光景、感じたこと、空気でさえ私は全て昨日のことのように思い返すことが出来る。あの瞬間に全てが終わって、そして次が始まった。その位の衝撃を、私は受けた。

 最初に幸村君を見たのは、丁度入学式だった。一目見たときは女の子かと思うくらい可愛い顔立ちをしていて、でも男子の制服を身につけていたからそこでやっと彼が男なのだと気付いたものだ。丁度花開き花びらのはらはらと舞う桜の中を、彼は友人なのだろうか他に2人の男子生徒と共に歩いていた。後にその2人が真田弦一郎、柳蓮二その人だったのだろうと気付くことになるのだけど、何せその時の私は彼だけを注視していたからよく覚えていないのだ。しかしその時はまだ、世の中にはこんなに可愛らしい男子がいるものなのかと思う程度の話だった。だから私が彼に惹き寄せられたのはその時ではなくて、部活動見学が始まった辺りのこと。
 私は家に帰ってやることが多かったから、テニスは小学校まででクラブも辞めて、中学は帰宅部に徹しようと決めていた。それでも、テニスは好きだったから、入れはしないけれど最初で最後だからと一度そっと様子を見に行ったことがある。我ながらなんて未練がましく女々しいことだと思ったけれど、東京に住んでいる幼馴染みの周助が入学した青春学園でテニス部に入ると一々言ってきたから、多分その辺りも関係していたのだと思う。私はもうやらないと言っているのに態々テニス部に入るとか宣言してきた所、私に喧嘩を売っているとしか思えないのだけど、まあそういう所も長らく幼馴染みをしていると最早耐性がついてくるから一々反応しても仕方がないと思っている。
 そうして新1年生が入り乱れている様々な部活の間を縫って辿り着いた立海のテニスコート、流石全国常連校で強豪とだけあって他の部活と比べてもかなり優遇されているのが見て取れた。まじまじと見ていたら女テニの先輩に声を掛けられそうになったから急いで逃げ出して、そして辿り着いたのが男子の方のコートだった。まあどうせだし男子の方を見ていっても……と思ってコートを囲むフェンス越しに練習する風景を眺めて、そこで見たことのある顔がラケットを持ってコートに入っているのを見つける。しかも他に大勢見学者が居る中で、コートに入っている新1年生は3人。あの、入学式で見掛けた3人だ。あれ、と思った。まだ部活見学の段階で早々に打たせるのだろうか。それにしては彼ら3人以外はどうやら外周へ走らされているらしい。するとあそこに居る3人は経験者なのだろうか。そう思いながら、何となく彼らから見えにくい位置へと移動した。
 ぱこんぱこんと断続的に聞こえる練習の音は、つい最近まで身近に感じていたのに、もう私はあそこに立てないと自覚した途端酷く遠く感じた。いや、本当は本当に立てないのではないけれど、テニスは諦めなければならないものだと自分に強く言い聞かせていたから余計にそう感じたのだろう。いいなあ。諦めようと言い聞かせながらも、そう思うのだけはやめられなかった。私もあの場所に立ってボールを追いかけることが出来たら楽しいだろうな。はあ、と溜息を吐いたところで、幸村君が最初に試合をするらしく準備をしているのが見えた。あんなに可愛い顔でどんな風にテニスをするのだろうか。いや、この際可愛い顔は関係なかったのだけど。そんな風に重いながら彼の姿を目で追う。
 どうやらサーブは彼から行うらしい。上げられたボールが回転する様子をぼんやりと眺めながら、それがスイートスポットに吸い込まれてゆく所を見届けて、そうして。

 苦しくなった。

 目に入ったその光景に突然苦しくなった。息苦しいとか、胸が苦しいとか、そういうのではない。それもまた併発しそうではあるのだけど、ただ、苦しくて仕方がなかった。苦しくなって、それで何故か悲しくもないのに涙が出そうになって、堪えて、そうしたら今度は喉元が痛くて仕方なかった。必死になって片手で首を掴んだ。この気持ちは涙にして流してはなるまいと、そう思った。苦しいままでいなければならないと直感的に悟った。だって見たことがなかったのだ、あんな風に、まるでテニスの全てを支配しているかのような人を!
 何故私はあそこに立って彼とテニスが出来ないんだろう! どうしてテニスをやめると決めた今になってあんなに強い人を見つけてしまったのだろう! 無意識にフェンスを掴んで彼がテニスをする様に食い入っていた。しかし私のような状態になっていたのは何も私だけじゃなく、他のテニス部の先輩達も彼のテニスに魅入っていた。ああ苦しい。悔しい。辛い。痛い。最終的に試合をしていた相手がテニスを続行できなくなる所まで見届けて息を吐いた。そこでやっと息をつめていたことに気付く。何だこれは。苦しさの後に今度は湧き上がってくるものがあった。どくどくと心臓が脈打って頬が紅潮してゆく。素晴らしい。素晴らしい! なんだこれは、なんて素晴らしい! 思わず口元を手で覆った。そうしなければ素晴らしいと喝采してしまいそうだった。同級生にまだまだまだまだこんなにも強い人が居るだなんて。きっと彼は上に立つ人だ、あの綺麗な顔を崩すことないまま頂に座る人なのだ。そう予感せずにはいられなかった。彼は誰だ。彼はどういう人なんだ。
 その後は急いで家に帰らなければならなかったことを思い出して直ぐに帰ったけれど、彼のことは家事をしていても勉強をしていても寝る寸前ですら頭から離れなくて困った。一晩明けてもどうにもならなかったから、これはもう何もしないままではいられないと思った。彼は綺麗な顔立ちをしているから、きっと直ぐに有名になるだろうと思っていたけれど、その予想は的中した。幸村精市。色んな人の話にアンテナを立てていて知った、それが彼の名前だった。しかし彼が有名になったのはまず顔ではなく、彼を含めた3人が1年でありながらテニス部でレギュラーの座を勝ち取ったからだったけれど、彼のテニスを見た後では納得せざるを得なかった。
 幸村精市、幸村精市、幸村君。忘れないよう家に帰ってそう唱えていたら、弟にそれは誰だと問われた。テニスがすっごくうまい人だよ、と返せば、ちゃんより? とむっとした口調で返される。どうやら弟は私が一番テニスが強いものだと思っているらしく、私がテニスに関して弱気な発言をするのを嫌っていたから、私が彼を褒めそやしたのが面白くなかったのだろう。もう私はテニスをしないのに。逆に母はどんな子なの、と興味津々に聞いてきた。私が男の子の話をすると言えば、大体が周助かサエといった幼馴染みだったから新鮮だったのだろう。私は嬉々として彼について何かを語ろうとして、そこで私はテニスをしている彼しか知らないということに気がついた。私にとってテニスをしている彼が全てだったから、私には如何に彼のテニスが素晴らしいかということしか語れない。これではまずいかな、と母に問えば、じゃあ幸村君の他の側面を見てみれば良いんじゃない? と提案してくれた。
 成る程その通りだと思い、私は翌日から意識して幸村君を目で追うようになっていた。そうしてあの日からずっと彼を追い続けて、彼が植物を愛していること、妹が居ること、私と同じクラスの柳君と仲が良いこと、他の人には優しいけれど真田君には何やら若干当たりがきついこと。そんなことが見えてきた。そして些細なことを知る度に嬉しくなって、どんどん彼への好意が募ってゆくのを感じていた。どうにかして私の抱いた彼への素晴らしいと感じるそれを伝えなければならないと思った。心の底から、彼を応援したいと思った。ああこれは恋なのかもしれない。そう思うのに時間はかからなかった。しかし、よくよく考えたときに私は今恋をしているのだろうかと迷いが生じた。私は幸村君を応援したいと思っているし、彼の人柄を知ってもっと好きになれたけれど、だからといって彼と付き合いたいとか、彼に愛されたいとか、そういったことは全く思わなかったのである。彼を好きなのは確か。彼のテニスを好きなのも確か。でも私を好きになっては欲しくない。好きにならないで欲しい。それが恋なのだろうか。これが恋だと言えるのか。結論も出ない。
 それでも応援したいという気持ちだけは紛れもなく本物で、そこに恋という感情があろうがなかろうが、それは些細なものだと思った。だから純粋に私は彼を応援しようと思った。ここだけは変わらないものだから。彼を素晴らしいと思い、応援したいと思ったのは間違いじゃない筈で。幸村君を心の底から応援している人間が居ることを伝え続けるのは、悪いことじゃないはずだから。けれど実際どうやって応援するのが良い? どうすれば応援出来る? 応援の方法なんてそれこそピンキリだ。私は幸村君と個人的に交友関係を持ちたいわけではなかったし、寧ろ私は彼に関わってきて欲しくなかった。彼の方から私に関わらないようにするためには嫌われるのが一番手っ取り早いけれど、私は彼を応援したいだけで嫌な思いをさせたいのではない。そこで、自分は彼にとっての空気のような存在になれれば良いのでは、と思った。空気ならば彼は私のことをどうとも思わない。これは名案だと思い、上手くいくかどうかは一か八かながらも、私は私なりのやり方で彼を「応援」すると決めた。人によっては、そんなに関わりたくないのなら直接応援の言葉をかけるなんてリスクのあることをせずに心の中だけで応援すればいい、と言う人も勿論いるだろう。けれど私はどうあっても、貴方は素晴らしいのだと、貴方が素晴らしいと思ったから頑張って欲しいのだと、そういうことを伝えていたかった。自己満足だとは分かっていても、やめようとは思わなかった。その方法も幸をなしたのか、私が幸村君に毎朝声をかけても彼が私の方を見ることはなかった。その事実はひどく、私を安心させた。



 中学2年の冬。幸村君が病に倒れたと聞いたときは血の気が引いた。一体何の冗談かと思った。ギランバレー症候群に酷似した、病気。柳からそう教えてもらった時に私はどんな顔をしていたのだろう。少なくとも笑顔ではいられなかった。きっと柳に詳しく聞けばもっと詳しい病状を教えてくれたのだろう、淡々とした風のままに。そんな彼がすぐに想像出来て、だからこそ私は彼の口から幸村君について尋ねてはいけないような気がしていた。それは、柳のことを思ってのことでもあり、自分のためでもあった。仮に柳の口から「もしかしたら幸村はテニスが出来なくなるかもしれない」なんて言葉が飛び出てきた日には、私はきっと崩れ落ちてしまっただろう。そして柳もきっと、口に出して言うことで幸村君がそうなってしまう確率は決して低くないということを大いに自覚してしまっただろう。柳は物事を客観視してから言葉にすることが出来る人だから尚更に。だから、言わせてはならなかった。それがどんな現実であったとしても、言葉になってはならない。そう思ったから、詳しくは尋ねなかった。後で彼の病気について近所の図書館やインターネットでそっと調べて、その詳細を目にした時に、最初に彼のテニスを見たときのような苦しさを覚え喉元を押さえつけた。彼の病気が治るかどうか。手術をすれば治る可能性はある。それでも、以前のようにはテニスが出来ない――のかも、しれない。

 彼からあのテニスが奪われてはならない。そんなこと、あってはならないのに。

 幸村君が入院して、テニス部が立海三連覇を目指し常勝を掲げるようになってからは、立海テニス部の空気もどこかおどろおどろしいものへと変わっていった。幸村君が帰ってくるまで負けてはならないと、そう誓ったらしい彼らはいつもの余裕さを見せてはいたものの、ピリピリと神経質だった。幸村君へのお見舞いは、はじめは多くの人が行っていたらしいけれど、カレンダーが捲れるにつれてそれも少なくなりいつしかテニス部だけとなっていった、らしい。柳は私を慮ってか折を見て幸村君の様子を教えてくれた。幸村君が学校に来なくなってからまず私が周囲の人に言われたのは、「幸村君に話し掛けるさんがいないと、何か変な感じだね」といったようなものだ。そう言われてやっと、はあ、あの程度のことがそんなにも浸透するものかと寧ろ感心したものだった。だから柳が私にあれこれ教えてくれたのもきっと、幸村君がいなくなって私が寂しい思いをしているのだろうと思ってのことだろう。
 それと同時に、あれだけ幸村君関連で騒がしかったファンクラブの人たちも、幸村君の姿が見えなくなるのに従ってめっきり私に突っかかってこなくなった。まあ、こんなものなのかもしれない。テニス部のファンとしてコート脇から今日も可愛らしく声を上げる彼女たちを横目に、私が向かう先は、母の入院先。母の病が発覚したのは私が3年に進級してからで幸村君が倒れたのよりも後になるけれど、母がいるのは奇しくも幸村君の入院先と同じ、金井総合病院だった。
 病院は気が滅入る。前を通った病室からすすり泣く声が聞こえた日には余計に。見舞いに行く私がそうなのだから、きっと入院している患者なんてもっとなんだろう。私が母の所に行くのは大体学校が終わった後で、夕暮れの西日が差し込む室内なんか物悲しくなって見ていられなかった。母の病気は随分と進行していて、あと生きられて数ヶ月、とそんなことを医者からは告げられていた。けれどその頃テストやら家やらお金のことやらと色んなことが怒濤の勢いで過ぎてゆくものだから、いざその宣告を受けたときも、何だかどっと疲れてしまっただけで、悲しい以上の衝撃は襲ってこなかった。ああいうのがキャパオーバーというのだろうと今になっては思う。幸村君が病に倒れた時の方が衝撃だったのではないだろうか。とんだ親不孝者だと自覚しながらも、あの頃はまだ母が病に伏す前だったし、それが事実だった。

 そういう経緯もあって、私は幸村君の病室の前を通るチャンスが結構あった。母のことについては学校の担任しか知らなかったし、柳がそのことを知っていたかどうかは分からなかったけれど、柳が幸村君の話をするときにその話題になったことがなかったから、全く知らなかったのか、それとも気付いてはいたけれど口にしなかっただけか、或いは泳がされていたか。というのは、実は私は、テニス部が来ていない、そして幸村君が寝ているタイミングを見計らってそっと彼の様子を見に行っていたから。でも様子を見るだけで、自分に出来ることが、見当たらなかった。正直そっと病室を覗き込んでから何もせずに去って行く姿は傍目から見ればただの不審者以外の何物でもなかっただろう。そうは言っても彼と関係を築きたくないのに彼をお見舞いするというのがあまりにも矛盾に過ぎて、表立って行くことは出来なかったのだ。
 彼の病室には窓際に吊された千羽鶴が二つ。彼のクラスメイトと部員からだろうか。きっと部活はマネージャーか誰かが言い出してみんなで折ったのだろう。クラスにしたって担任か、或いははクラスの女子が言い出したのかもしれない。どのみち、私はどうあってもそこには加われないだけだ。私はテニス部員じゃない。同じクラスになったこともない。彼と私の関係性なんて、私が彼の応援をやめてしまえば直ぐに、何にもなくなってしまう。そう、仕向けたのは私だし、それを望んだのは私だ。それなのに、何も出来ない自分がもどかしかった。何か幸村君に出来ることがあればしたかった。食べ物は置いていっても怪しんで食べてくれないかもしれない。じゃあ彼の好きな花でもと思うけれど、切り花は植物を育てることを大事にする幸村君が好きじゃなさそうだし、かといって根付いた植物はあげられない。となると、後は彼の好きな絵に関連するもので、何か。考えに考えて、私は結局、スケッチブックと鉛筆を購入した。そしてそこに、母の部屋に生けてある花を軽くスケッチしたものを描いて、その下にご自由に使ってください、と走り書きを残した。押し付けがましいかと思ったけれど、それをやっぱり彼が寝ているタイミングで脇の机に置いてそっと病室を後にした。彼が寝ているのは分かっていたけれど、二人っきりで、しかも結構な至近距離で彼を見ると心穏やかではいられない。廊下を歩いている間もやってしまったと後悔にも似た気持ちでいっぱいだった。あんなことをしても良かったのだろうか。結局その後あのスケッチブックがどうなったかを知るのが怖くて、その後は一度も彼の部屋を訪れることは出来なかった。

 それでも、病室で垣間見た幸村君の細くなった体を幾度となく思い出して考えずにはいられなかった――もしも彼から「テニス」が失われてしまった日には、私はどうなってしまうか。それは私にもよく分からなかった。今までのように、彼を好きでいられるのだろうか。手放しで全てを応援できる? それを考えると心が重かった。
 否、本当は分かっていた、私が彼に、自分が出来ない分の「テニス」を託しているということは。私はもう「テニス」から離れてしまったから、自分が出来ない分私が素晴らしいと感じるテニスをしてみせた幸村君に憧れを抱いて、そして彼にどこか自分を重ねている。彼は私ではないのだと分かってはいても。だから彼を応援し続けることで自分を満たしたかったのだ。途中でそれに気付いてしまってから、私はどこか後ろ暗い思いを抱えることとなった。これでは純粋な応援とは言えないのではないか。この葛藤はその後もずっと私について回ることとなった。

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