6 その選んだ先にあったとしても

 翌日、朝練が休みの日だった幸村は普段通りに登校した。しかし幸村の様子はいつもと違っていた。それは本人にしか分からない小さな違いだが、それは次に起こったいつも通りの、いつも通りだが僅かに異なったやりとりによって露呈することとなる。

「おはよう幸村君!」

 いつもの様に、下駄箱で上履きに履き替えた幸村にかかる彼女の声。今日もまた一日が始まることを告げる時計の中の鳥のような存在。それが今までの、幸村にとってのだった。決まったことしか口にせず、返事を必要としない、可愛い鳥。見る分には綺麗だけど、手元に置かなくてもいい、何もせずとも鳴いてくれるのだから。けれど昨日幸村が見たのは人と向き合って言葉を交わす、鳥ではない、その人だ。それを見た瞬間から、彼女は時計の中の鳥ではあり得なくなってしまった。
 だから彼女が言葉を続けようとしたそのタイミングで、幸村はすかさず間に入ったのだ。それは他の人であればあまりにも当然のこと、普通のこと。しかし彼ら2人の間ではそれまで当然ではなかった出来事。

「おはよう、さん」
「あ……うん、今日も一日頑張ってね!」

 動揺。狼狽えたように僅か揺れ動いた瞳を幸村は見逃さなかった。ただ挨拶に挨拶で返しただけ、それだけのことだが、幸村には彼女が一瞬バランスを崩したのが見えた。
 何事も早急に進めてはならない。その時はまだ挨拶を返すだけで、走り去ってゆく彼女をどうこうしようとは思わなかった。引き留めてもっと話をしてみても、良かったんだけど。笑みを深めながら幸村は歩き出す。彼女と会った後に彼女について考えるなんて、そうだもう随分と久しぶりのことだ。確か最後は彼女に違和感を覚えて、あの時はすぐ気にしなくなってしまったけれど、今回はそういう訳にはいかない。違和感では、済まないのだから。



 ぎしぎしと音を立て、生まれ始める綻びはその綻びを生んでいる本人がやめない限り広がってゆく。挨拶をして、挨拶を返して。笑顔には笑顔を返すようになって。困惑の色を宿しながらもいつも通りに彼へ声を掛けていた彼女だったが、それに終止符が打たれたのは、文化祭での出来事だった。
 噂とは本人達が思っている以上に早く広がってゆくもので、その中心人物が有名であれば有名である程顕著だ。幸村がに話しかけるようになったという話は、瞬く間に学校中に広がってゆき、一部の人間を混乱の渦に落とした。そしてその渦の中にはもまた、確かに巻き込まれていたのである。それでもまだ、自身は持ち前の明るさと口八丁で切り抜けていたものを、幸村の方が曖昧な態度でいるものだからファンクラブだけでなくテニス部内でも波紋が広がっていた。
 あの日からというもの、幸村は積極的に後輩である新に話しかけたり、について柳に聞くようになったり、本人にも会えば一言かけるようになったりと誰の目から見ても意欲的にに接するようになった。幸村は他の人間と比べて、圧倒的に動き出すのが遅すぎた。だから、やるのならば徹底的に知ろうと思った。何故彼女が自分を応援するのか。声をかけてくるのに、彼女自身は幸村からの見返りを求めないのか。一度落ちだした杯は気付いた途端加速が止まらない。
 が幸村に話しかけられる度に及び腰になっていることを、幸村は勿論気付いていた。しかし彼女から明確な拒絶がなかったから、長い間に柳が感じ取っていた穏やかな拒絶の先へと踏み込んでしまう。



 幸村達にとっては高校生活最後の海原祭も盛況に終わり、残すところも夕刻からの後夜祭のみとなった。高校生活最後ということもあり、後夜祭名物のダンスに男子も女子も各々目当ての生徒を誘おうと奔走する者の姿が見える中で、幸村は女子生徒達の誘いを断りながらの姿を探していた。
 クラスの学級委員だと聞いたし、もしかするとまだ片付けを続けているのかもしれない。後夜祭には大体の生徒が出るのだが、例年は大体が出ずに教室に残っていると柳に教えてもらったから、今年もその確率が高いのだろう。柳達のクラスには文化祭中にもお邪魔したが、その時にはシフトが違ったようで彼女は居なかった。この時幸村は柳に彼女がいつ頃入っているのかと聞いたのだが、そこは企業秘密だと躱されてしまっている。
 しかし教室を覗き込んでもそこは電気が消された上人一人いなくて、片付け途中のまま放置され横に寄せられた机の類や、通学鞄が散乱しているといった、どこの教室を見ても同じようなそれが広がっているだけ。外のキャンプファイヤーの明かりが気休め程度に教室内を照らしてはいるが、何度見ても彼女はそこにいない。もしかして、誰かに誘われてもういってしまったのだろうか。そう思うと顔を顰めたくなる。はあ、と溜息を吐いて、仕方ない、遅くなったけど自分も其方に向かおうかと振り返って歩き出そうとすると、屋上へと続いている階段から仁王が降りてくるのが見えた。大方彼も女子生徒に追いかけ回されるのが面倒で早々に屋上に逃げ込んだのだろう。ぱこ、ぱこ、と踵の踏み潰された上履きが音を立てながら降りてきた仁王の方も幸村に気が付いたようで、すっと手を上げた。

「よー幸村、を探しとるんか?」
「ああ、仁王。やっぱり分かっちゃうかな」
「まあ最近のお前さんの様子を見とればのう」

 何で幸村がここに居るかなんてお見通しじゃ、とウインクまでして見せた仁王だが、相手が幸村であるために反応は鈍いどころかマイナスに作用し、うわっと嫌そうな顔をする。その反応に若干傷ついたらしい仁王はピヨ、とか細く呟いた。それから気を取り直すようにズボンのポケットに手を突っ込むと、ちらり、と隙のない目で幸村を見つめる。知りたいんか? がどこにおるか、と矢鱈勿体ぶった口調で言ってきた仁王を急になんだよと思いつつ、聞かないとまたプリピヨプピーナと煩いんだろうなと考えた幸村は、どのみちの居場所も分からないことだしと続きを待つことにする。

は屋上におる。俺は行かん方がええと思うが……まあ、幸村の好きにしんしゃい」
「そうなんだ。その情報、ありがたくいただいてくよ」

 仁王からの言葉を受けて、考える間もなく幸村はその脇を通り過ぎていった。含むような仁王の物言いが気にならなかった訳ではないが、それよりも幸村の頭はどう彼女を誘うかということにシフトしていたのである。階段を上がってゆく幸村の後ろ姿を見送ってから、仁王は小さく息をつく。そしてつい、と先程まで彼女と話していた場所の方を見やりつつ、表情の読めない顔で、悪いのう、、と小さく口にした。

 仁王の言葉通り屋上へ足を踏み入れると、まず暗くなった空が幸村を出迎えた。遠くに見える夕陽も殆ど沈みきって、あとは夜の訪れを待つだけとなっている。明るさに慣れきっていた瞳が暗さに慣れるまでに、幸村は辺りに視線を走らせて、そして、殆ど探すまでもなく見つけた。フェンス越しに喧噪の方を眺めている、彼女の後ろ姿を。
 音を立てないように彼女の背後に近寄ってみたが、が幸村の気配に気が付いた様子はない。笑顔がこっちを向かないことが腹立たしくて、気付けば幸村は口を開いていた。

「何を見ているんだい?」

 何を見ているか、なんて、その視線の先を追えば直ぐに分かることだ。そしてその先にはキャンプファイヤーしかないのだから、恐らく彼女がそれを見ているだろうということは言うまでもないのに。それでも彼女が此方を見るきっかけとなるならば何でも良かった。そして幸村の思惑通り、は物凄い勢いで幸村の方を向いた。闇を映した黒い瞳が此方を向いて、息を吸って、吐いた。幸村君、と呼ぶ声が震える。それから続く言葉が思いつかなかったのか、幸村の問いには答えず、ずっと彼の顔を凝視する。そんなに自分の登場が予想外だったのだろうかと思いつつ、これは絶好の機会ではないかと考える。今まで彼女に話しかけられたとしてもそれは必ず周囲に誰かが居るときで、こんな風に彼女と一対一で向き合えたのは初めてだ。

さん、中学の頃からずっと応援してくれたよね。でも今まで話せなかったし……お礼が言いたかったんだ」
「そ、それは私が勝手にやっていたことだから、幸村君に感謝されるようなことじゃないよ」

 笑顔でぶんぶんと勢いよく首を振りながらも、の視線は幸村の顔から段々と下がってゆく。今彼女の正面は幸村に塞がれているし、背後はフェンスで阻まれている。彼女が逃げ出すとすれば横からだが、朝や休み時間の様に時間に余裕がないということはなく、それを口実に抜け出すことは出来ないだろう。幸村もそれは分かっていたから、尚更こうやってゆっくり話が出来るチャンスを逃す訳にはいかなかった。これを逃せば、次はいつ二人きりで話すことが出来るチャンスが訪れるか分からない。このままずっと話をしていてもいいと思いはしたが、それでも今回彼がを探していたのは彼女をダンスに誘うためだ。誰かを誘うということが含む意味を幸村が分かっていない筈もないが、もし仮に彼女を誘うことで更なる噂が広まったとしてもそれは構わないと思った。その程度には幸村は彼女の存在を気に入っていたし、彼女が他の誰かに誘われるよりはずっとましなのだ。

さんは、後夜祭、誰かに誘われたりしてるのかい?」
「さっき仁王君に誘われたけど、断った所で。仁王君も冗談だったし」

 しかしそんな彼の思いは、彼女の口から出た言葉によって少しずつ歪んでゆく。仁王は彼女を誘うためにここに来たのか。彼もまた、彼女を探して此処に至ったのだろうか、偶然ではなく意図的に。そう、と相鎚を打ちつつ幸村は目を細める。仮に彼女を誘う人間がいたとしても、それは仁王だとは思わなかった。今まで誰も彼女の話をしなかったからと言って油断しすぎたのかもしれない。そうだ、彼女に興味を持っている人間は幸村だけでなくとも多く存在するに決まっているのだ。それを自覚した途端別のことにも思い至って、恐ろしくなった。何も彼女が視界に入れているのは幸村だけではないのだ。幸村だけであることなんてあり得ない。自分の知らない彼女がいて、その彼女は、幸村が知らないものを視界に入れている。そんな当然のこと。けれど彼女に興味を示すようになってからその当然が分からなくなってきた。だって彼にとっての当然は、出会った彼女がいつだって彼のことを見ていることなのだ。しかしそれは彼にとってだけの当然であって、他の人間にとっての当然ではなく、また、彼女自身の当然ではまた、ないのかもしれない。何故なら今彼女は成り行きで彼を視界には入れているが、それは彼の顔を真正面からではなく、現に彼女の目線は幸村の胸元辺りを彷徨っている。何でこっちを見ないのか。いつだって君は俺のことを見ていたのに。ほら今ここには君と俺の二人だけなのに何で。……何で?
 奥底で渦巻きはじめた感情は以前にも抱いたものだ。あの時横に寄せて置いたもの。そうだ焦燥感。焦っている。ああ今自分は焦っているのか、彼女が自分を見ないから。心の中の冷静な部分でそう思いながら、気付けば幸村はの手を取っていた。それがいやに自然な動作であったから、自身拒む間もなく、するりと手を持ち上げられる。それと同時に、驚いた彼女の瞳が幸村とかち合い、開かれる。ああ、それでいいんだよ。にっこりと笑みを浮かべる幸村は、例えば今目の前に居るのが以外の他の生徒であれば卒倒していたかもしれない。そんな美しさがあった。けれどは違った。幸村はその時は彼女が自分を見ていたことに満足しきっていたから気付くのが遅れた。彼女はその時、笑ってなどいなかったのだ。

さん、後夜祭、俺と踊ってくれないかな? 冗談とかじゃなくて」

 そう言って、彼女の反応を見て、やっと気がついたのである。自分が致命的な間違いを犯したことに。何故彼女が踏み入ってこないのかその片鱗さえ掴む前に、彼女の領域へと踏み込んでしまったことに。
彼女は幸村がこれまでに一度だって見たことのない、絶望と、その言葉がよく似合う、まるでこの世の終わりを見ているような顔をしていた。そして彼女の口がゆっくりと動き出す。

「ごめんなさい、無理です」

 幸村にはその言葉が最初理解出来なくて、よくよく咀嚼しようとしている間に彼女は幸村の脇をすり抜けていった。最後に目の端でちらついた彼女の長い髪、つまりポニーテールがなくなったのはその翌日のことである。彼女はあれ程長かった髪の毛をばっさりと切り、ショートカットにして登校してきた。
 その日から、は幸村を見なくなった。

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