5 たとえどんな結末が

 幸村精市にとってとは、決して口には出さなかったが、それでもある種「特別」な存在だった。そして彼自身気付いてはいなかったが、心に根付いている存在だった。彼女の「奇行」と呼ばれていたあれが始まった当初はまあ随分目立つので気恥ずかしい気持ちで一杯だったし、テニス部で話題に出された日には腹が立って仕方がなかった。思えばあの頃が一番彼女という存在を意識していたように思う。その後直ぐに、彼女よりもっとすごい女生徒達から追われるようになったから、彼女の存在が如何に小規模なものかということを知った。そして、それに気付いてからは全然気にならなくなった。最初はあんなに、視界に入る度に恥ずかしかったのに不思議だ。いつの間にか彼女は彼の日常の一部になってしまった。
 事実、彼女に挨拶されてから授業に始まるというのが習慣と化してからは、何らかの都合で彼女に会えない朝があればどことなく調子が出なかった。また、彼がを「迷惑」と感じるようなことはなかった。彼女面をしてくるわけでもない。何か物を寄越してくることもない。「邪魔」ではない。彼女を視界に入れれば必ず彼女は幸村を見ていたし、それさえ確認すれば幸村は満足していた。彼女が自分に笑顔を向けていることに、慣れてしまっていた。
 だから中学の時、入院している間は何かが失われてしまったような心地がしていた。毎日笑顔で自分を応援してくれる存在というのは知らない内に支えとなっていたらしい。みんな度々見舞いに来てくれたけれど、それも辛くて仕方なかった。自分はテニスが出来ないのに、彼らは今日も日の下で自由に、健康な体でテニスをしているんだ。それが出来ない自分が悔しくて歯痒くて、辛かった。それが勝手なことだと分かっていても、彼らのことが憎たらしかった。こんな醜い感情を持っていること自体見苦しいし、どうにかしたいと思ってもそれはどうにもならなくて。自分に向かうあの他に何もない笑顔の持ち主も、見舞いには来ないし。たまってゆく淀を、どうしようと思っていた矢先のこと。目が覚めたら、ベッドの脇に小さなスケッチブックと、カッターで削られた鉛筆があった。誰の忘れ物だろう、寝る前にはなかったのに、と思って中身を確認して、目を見開いた。特にそこまで上手いとは思わないけれど、ざっくりしたタッチで花瓶に生けられた花が描かれていた。絵の下に「ご自由に使ってください」と書き残されたそれは、どう考えても自分に向けられた物なのだろうと思った。随分急いだような走り書き。女が書いたのか男が書いたのか筆跡からは判断できない。でもテニス部員の物ではないだろうなとは思った。ああこれはまるで、柳の言っていた謎の人物みたいだ。名乗らないでテニス部のために言葉を残してゆく。この場合は、テニス部ではなく幸村本人にだし、言葉というより絵なのだが。

「誰なんだろうね」

 絵を眺めながら零した独り言に応える人はいない。けれど相手は知らなくても良い気がした。きっと相手がそれを望んでいる。名前を残すことなく置き去りにされたスケッチブックが何より、そう言っているように思えた。
 それから、スケッチブックに絵を描く間は、幾分気が紛れるようになった。一応、真田や柳が来たときにスケッチブックのことを話して、誰か忘れていったりしていないかを確認した所、そういう話は出ていないとのことだった。真田は不審物だと怪しんでいたけれど、ご自由に、とのことで素直に使わせてもらえばいいと柳も言ったことだし、その通り素直に使うことにした。柳は「ご自由に使ってください」と書かれた筆跡を見て何か考え込んでいたけれど、結局そこには言及しなかった。
 そのスケッチブックは結局誰がくれた物だか分からないままに退院が決まってしまった。だから今も、そのスケッチブックは幸村の部屋に大事に置かれている。彼の入院生活を支えた、大切な物の一つとして。


 リハビリに耐えつつなんとか退院して、やっと来ることが出来た学校。幸村がその日退院して学校に来ることは知らされていたのか、登校途中にも色んな人に退院おめでとうと声を掛けられて、その度にありがとうと返していた。途中、幸村が登校しているのを見かけたらしい赤也が喜色を浮かべて彼に走り寄ってきたので、登校早々騒がしいなあと思いながら昇降口に辿り着く。赤也とは学年が違うからそこで別れて、下駄箱に靴を突っ込んで持参してきた上履きを床に落とす。それに足を入れ終えてさて方向転換して教室へ向かおうとした時、「幸村君」と自分を呼ぶ、入院前は毎日の様に耳にしていた声が聞こえた。それが随分懐かしい声に思えたけれど、条件反射にも近い形で彼女、に声を掛けられることは予想していたから驚くことはなかった。振り向いた先にもやっぱり、予想通りの、あのツインテールがあった。

「退院おめでとう」

 いつもと違う、というか、それは多分、彼女が初めて幸村に話し掛けた時くらい抑えた声だった。遠くから元気に声を掛けるそれでなくて、ただ目の前の人物だけに届けることを目的とした声量。本当に嬉しそうな笑顔。その笑顔が目に入った瞬間に、ああ、自分はやっとここに帰ってきたのだと心の底から思うことが出来た。変な話だけど、彼女が変わらずに自分を見てくれたことに、安心したのだ。入院している間はずっと彼女の顔を見なかったから、思わず目を細めてしまう。ああ、眩しい。眩しいけど、それを見たら、ああ自分は大丈夫だと思った。リハビリは続けていかなければならなくて、正直全国までに自分の体の調子が間に合うか分からなかったけれど、理由なく大丈夫だと、思えたのだ。それにありがとう、と返そうとして、けれど次の瞬間には彼女は踵を返して走り去ってしまう。だから開きかけの口から漏れたのは、ただ彼の吸い、吐くだけの息。彼女が視界から消えた頃に、やっと音が戻ってきて、そこで幸村は今自分が放心していたことに気付いた。そんな自分をごまかすように、廊下を走ってゆく所を真田が見てなくて良かったと場違いなことを考えて、自分も教室へ急ぐ。
 変だ。そう思う。考えれば、いつものことだった筈だ。彼女が一方的に自分に話し掛けて、けれど幸村からの返事は待たないままに去って行ってしまうことは。そんなこと分かっていて、分かっていたのに、それでも、彼女はありがとうも言わせてはくれないのだ。言わせてはくれない? 教室に入って多くのクラスメイトに一斉におめでとうと言われ、それに笑みで返してはいたが、幸村の心は晴れなかった。言わせてくれない、じゃなくて、もしかすると彼女は言われたくないのではないか。この時初めて、幸村は彼女へ違和感を覚えたのだった。
 しかしその違和感も、翌日また非常に良く通る声で元気に挨拶を投げてくるようになった彼女の姿を横目に、慌ただしく動いてゆく全国大会への練習の中で、次第に薄れてゆくこととなる。

 だから幸村が彼女に興味を持ったのは多分、偶然の産物でしかない。

 高校3年の初夏、暑さの残る日曜日。部活の終わった、夕暮れ時の帰り道。何人か、レギュラー陣が各々目を掛けているらしい後輩も一緒に、方向が同じ者同士で分かれて話をしていた。幸村は特にそういった後輩も赤也位だったから真田と話をしていたのだが、柳は最近よく話し掛けている1年の後輩と会話をしているようだった。確か彼は新という名前で、中学の時もテニス部に所属していたから見覚えがある。柳は随分彼に目を掛けているようだから、最近赤也が少し不機嫌なことに柳は気付いているのかな。まあ柳もその内直ぐに気付いて赤也のフォローに回るだろうというのは分かっているから特に口出しをしようとは思わなかった。
 幸村達は先頭を歩いていたため、後方にいた柳達のことは、見えなかった。だから驚いて振り向いたのは、いきなり背後から柳の声と、聞き覚えはあるのに聞いたことのない、切羽詰まったように叫ぶ声が聞こえたからだ。

「新!」
!」

 振り返った先には、新の腕を掴んで彼を凝視している、。今まで彼女の印象というのは、自分が見た彼女でしかなくて、底抜けに明るい顔でただ「応援」をしてくれる、ツインテールの女子、とそんなものでしかない。そんな彼女の、今まで見ることの出来なかった表情を見たのはそのときだった。笑顔じゃない。――笑顔が、ない。
 自分たちの脇をすれすれで通り抜けていったトラックのことよりも、幸村の目を奪ったのは必死な顔をした彼女だった。彼女は新の腕を掴んだまま、真面目な顔で彼を覗き込む。新の方も顔が青くなっているようで、さっきから一言も発せていない。どうやら交差点で曲がろうとした際に、少し車道側に出ていた新がトラックに引っかけられるか轢かれかけたようだった。それをどこかからか走ってきたが引っ張って難を逃れたと、そういうことらしい。

「危ないでしょ……何してんの」

 彼女の言葉に被って、あっぶねーだろい、何今の車、とトラックが走り去った方を見つめながら呟く丸井の声は、聞こえても何を言っているか耳に入らない。が幸村と同じ場所にいて幸村に声を掛けてこないと言うこともはじめての経験だが、彼女が幸村を視界に入れないままでいるというのも今までになかったことで、心がざわついた。幸村ではなく新に声をかける彼女を見て芽生えたそれは、恐らく、焦燥感。

「その荷物、は買い物の帰りか」

 新と彼女の間のぴりりとしていた雰囲気を破ったのは、柳の自然な言葉だった。見れば確かに、彼女の両手には買い物袋を提がっている。それに休日だからか、ツインテールではなく、今日はポニーテールだし、服装もパーカーに七分丈のジーパンだしと、非常にラフだ。何だか何もかもが新鮮で、彼女じゃないみたいで、でも彼女は確かにだ。彼女は柳の方を見ると、本当に今その存在に気付いたらしくかなりぎょっとした顔をしてから「え、うん」と頷く。そんな彼女を見かねてか、新は自分を掴んでいた手を逆に掴むとぐるり、と幸村達に向き直った。

「あのっ、先輩、俺達家あっちなんでお先に失礼します! お疲れ様でした」

 そしてぺこりとお辞儀をすると、未だ動揺の中にいるらしいを引きずる様に早足に連行してゆく。他の部員達は慌ただしさにぽかんと見送る中、柳だけが「ああ、また明日」と普通に返事をしていた。
 
「へえ、ってあの『』の弟だったんだな」

 しかし何の躊躇いもなくそう口にしたジャッカルが、先程までとはまた別の意味で一瞬その場の空気を凍らせた。誰もがそろりと幸村の方を伺う気配があったものの、幸村は特に怒った様子もなく、だからといって楽しそうでもなく、凪いだ表情で二人が消えていった方を見ていた。そこで機嫌が悪くなった訳ではなさそうだと判断した柳が、流石にこのままでは「まずいことを言った」と焦っているジャッカルが可哀想だからと話を続ける。

「どちらも学校で接点を持とうとしないからな」
「柳先輩、知ってたんスか? そういやあの先輩とずっとクラス同じなんでしたっけ」
「ああ。、姉の方と弟の話をしたことがあったからな。意外と仲は良いらしい」
「そうなのか、何かどっちも互いの話してる所聞いたことないから新鮮だな」

 すかさず赤也が柳の言葉に食いつけば、そこでどうやら幸村の前での話をしても良いらしいと気付いた他の部員達はほっとしたように緊張を解く。ジャッカルも冷や汗を流しながらも柳に相槌を打っていた。自然と再び歩き始めた彼らは、次第に達の話題からは遠ざかってゆく。空気が動き出したことによって幸村自身余裕を取り戻したのか、やっと彼らの会話に混じるようになった。しかし幸村の脳裏には、先程のの表情が焼き付いて離れない。そして、覚えた焦燥感もあくまで意識の外に追いやろうと努力しているだけで決してなくなった訳でなく、奥底で燻っている。

「しかしもうすぐ海原祭か。あと2週間で準備を終わらせねばならん」
「中三の時はテニス部が中心となって合同の文化祭やったけど、やっぱあれが一番大がかりだったよね。あれ以来やろうって案出ないけど」

 ぽつりと難しそうな顔で呟いた真田に、さらりと返す幸村の内側で起きた小さな変化に気付く者はまだ誰一人として存在しない。幸村自身よく分かっていないのだからそれも無理のないことなのだが、正直幸村は真田の口にした海原祭にはあまり興味はなかった。どうせ部活の方が忙しくなるんだし、あの中3の時のような特殊なケースでない限り準備なんて参加できても最終日位のものだ。

「準備もそうだが各地から集まるというのが大変だからな。あれはあれで良い経験になったが」
「今年の文化祭は、柳のクラスは何をするんだい」

 ――これを幸村が聞かなければ、もしかしたら全ては動き出さなかったのかもしれない。しかしそうとは気付くことなく、気付ける筈もなく、結果何気ないこの問いかけが、と幸村精市の関係を変えてゆくこととなる。

「俺のクラスか。今年は喫茶店だな。洋風の内装でワッフルを売ると言っていた。その辺りは学級委員のが詳しいと思うぞ」
「結局はずっと学級委員だったんだな」
「そういやジャッカルはと同じクラスになったことがあったとか言ってたのう」

 彼らの言葉を聞いていてやっと、幸村は彼女について何も知らないのが自分だけなのだということに気がついた。彼女がずっと柳と同じクラスだということも、彼女とが姉弟だということも、彼女が学級委員だということも。それらは恐らく、彼女を構成する基本的な情報なのだろうが、そんな基本的な情報すら幸村を素通りしていた。これだけ顔を合わせていたから分かっているような気になっていたけれど、その実幸村は彼女について何も知らない。その事実は幸村を愕然とさせた。そもそも、幸村はについて深く知ろうと思ったことがなかった。そんなこと意識したことがなかった。
 ――意識してない? 違う。意識しなくなっていた。意識できなかった。彼らと別れて一人家への帰り道を急ぎながら、そう自己を振り返る。ならば何故、自分は意識できなかったのか? 意識できなくなったのは一体いつからか? 最早彼女を恥ずかしいとは思わない。迷惑とも思わない。それならば、彼女をもっと認識しても良いものを。誰よりも先に、誰よりも自分に声を掛けてくれる人物。今まで知ろうと思わなかったその理由は。

 彼のプレイスタイルは、相手がイップスに陥って最終的に五感を奪われた状態になってしまう。それは、視覚だったり、聴覚だったり、触覚だったり、どこから始まるかは分からない。しかしその時幸村ははたと思い至ったのである。
 ああ、奪われていたのは自分の方だったのだ、と。

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