4 願うより他にない

「だからさあ、幸村君が迷惑だと思っているのが分かんないの? 本当は分かっているんでしょ? 分かっててまだやっていんの? 他の人にも言われてるんでしょ、さん先生に気に入られてるからって何でもして良い訳ないんだよ!」

 眠い、怠い、煩い、面倒。そんな感情が溢れてきたときに、仁王雅治はそっと教室を後にする。彼が人から距離を置いて訪れる場所はまちまちだ。鍵のかかっている筈の屋上だったり、じめじめ湿っぽい校舎裏だったり、人の居ない部室だったり、王道で保健室だったり。毎度同じ場所に居るのではない。夏場は涼しさを求めて彷徨い、冬場は暖かさを求めて時を選ばず居場所を探し回る。勿論本来許されるべき行動ではなく、度々見つかっては真田に説教を食らっている。中学時代は義務教育と言うこともあって出席など気にせずサボることが出来ていたが、流石に高校になるとそうも言ってはいられない。出席日数が足りなくなればあっさり留年してしまい、後輩が同級生となってしまう――それはつまり、散々からかってきた一つ年下の後輩である切原赤也と同級生となってしまうのだ。それだけはなんとしても避けなければならなかった。
 そんな彼が屋上に来ると思い出すこと。あれは中学2年の夏、昼休みの出来事だった。熱い日差しが照るつける屋上に自ら赴いたことを後悔しつつ、その日も屋上の水道タンクの陰で一限からサボタージュに勤しんでいたのだが。彼の平穏を破って聞こえてきたのが、そんな、女子生徒の怒声。この暑い中ようテンション上げたままでいられる、と思いながら、その言葉の中に我らが誇るテニス部員の名前があったものだから、思わず聞き耳を立ててしまった。どうも女子生徒は声を荒らげている三人と、その対象となっているもう一人が居るらしい。そしてその対象となっているであろう人物は立海の中でもテニス部に匹敵する有名人であったから、他人に疎い仁王であっても名前から直ぐに誰であるかを思い出すことが出来た。
 さてさて、その穏やかではなさそうな場面だが、彼はヒーロー然として助けに行くつもりは毛頭なかった。そもそも、仁王はという人物をあまり好ましく思っていなかったのである。何だか行動すべてが嘘くさい。仁王自身、この頃からコート上の詐欺師と囁かれるようになってきた身としては、偽る事なんて日常茶飯事であることだ。嘘くさい言動なんてまさしく彼の行っていること。それでも仁王は何となくという人物を好ましく思うことが出来なかった。今となってはそれがただの同族嫌悪に過ぎないということは明白なのだが、その当時はただただ見ていて苛々してくる、とそんな具合であり、彼女が悪い意味で言い寄られていてもそれに割って入るだなんて面倒で厄介なだけのことを進んで行う義理もない。だから仁王は音を殺して成り行きだけを見守ることにしたのだ。
 どうも聞く限り、彼女を取り囲んでいる3人は、1年の頃から続いている彼女の幸村に対する行動について文句を言うために呼び出したようだ。取り囲んでいる内一人には仁王も見覚えがある。確か彼女はファンクラブの中心を担い、積極的に差し入れや諸大会での応援に駆けつけている女生徒だったか。幸村は人気だから色んな人間から好かれる。大人しめの人間にも、派手めな人間にも、そして、という人間にも。だからこそ幸村にアタックしてゆくというのは至難の業だと風の噂で聞いたことがある。幸村が好きだと知られ下手な行動に出れば過激な人間から直ぐに潰されてしまうらしい。だから彼女がこうして呼び出されるのはきっとこの限りだけではない。それ程彼女の行動は目に余るものなのだ。誰もが見ている場所で堂々と行うから、余計に。
 さて当の本人はそれをどう切り抜けてゆくのか。仁王は彼女のことは好きではないが、それについては興味を持った。今仁王がいる位置からは、取り囲んでいる女生徒しか見えず、彼女の顔は見ることが出来ない。どんな表情をしているかも分からない。困惑しているのだろうか、怒っているのだろうか、怖がっているのだろうか、それともいつものようにあけらかんと笑っているのだろうか。その顔が見られないことが些か残念に思いながら、さてがどう出るか。自分でも気付かないうちに仁王は固唾を飲んでいた。何か言ったらどうなの。ずっと言われるがままで言い返さない彼女に痺れを切らしたのか、彼女達は苛立ったように言葉を急かした。そして彼女はそれを待っていたかのように、ややあって声を発する。

「幸村君が迷惑に思ってるってそれ、本人から聞いたの? 幸村君が、私の存在が迷惑だって、そういう風に言っていたの?」

 それは仁王の想像するどれとも違って、非常に落ち着いたものだった。感情のままに言い返すことも、怯えて声もない様子でも、茶化す様子でもない。ただ、落ち着いているが故に相手を圧倒しようとする何かを感じさせられた。その為、先ほどまでいきり立っていた3人はぐっと言葉を詰まらせたようで一瞬怯む。

「貴女達、確かD組佐々木さんと、B組の遠藤さん、同じく和久さんだね。3人ともテニス部のファンクラブで佐々木さんがその会長なんだったかな。私のやっていることと、貴女達がしていることも、本質的には変わりないと思うんだけど、そこの所はどう思ってるの? だって、応援だよ? 私は朝挨拶と一緒に、頑張って欲しい気持ちを伝えてるだけで、それは放課後貴女達がテニスコートを囲んで応援していることと何も変わらないんじゃないかな。別に私は幸村君の行動を制限したりとか、引き留めたりしてないよ」

 突然口を挟む隙もなくつらつらと言葉を並べ始めたに足を引きかけていた3人だったが、これには仁王もぎょっとした。まず相手の三人の素性を完璧に理解しているというのが怖い。こういうのは全く知らない人間に絡まれるってのが筋じゃないんか、ああでももしかすると彼女たちは知り合いなのかもしれない、すると知り合いにこう言われるのも心にくるなあと考えてみたものの、彼女が立海中全ての生徒の顔と名前を一致させてると知るのはまた後の話である。

「それに私、先生に好かれてるのを見越してやっているのでもないよ。で、幸村君は迷惑だって言ってた?」

 気付けば完全に彼女のペースに呑まれてしまった3人は、本人が言ってる訳じゃないけど、常識的に考えてそうでしょ、と最初に比べれば明らかに勢いのない口調でそう反論する。しかしそこから、そうだよ幸村君は優しいから本人にそんなこと言わない、と反論の糸口を見つけたとばかりにまた言い募ろうとした3人だったが、それもまた彼女はばっさり斬り捨てた。

「でも割と貴女達には関係ないことだよね。もし私のしている行動を貴女達が責めるって言うのなら、それは貴女達の応援についても私が口出ししても良いってことだよね? それに貴女達の言うことが正しいなら、貴女達の行動だって幸村君は迷惑に思っているかもしれないってことになるんだけど」

 口が良く回る。仁王は彼女たちを覗き見るのをやめてひょいと肩を竦めた。彼女はいつでも明るくて他人にこうも圧力をかける人間ではないと見ていたが、これは評価を改めるべきか。どの道女は恐ろしいというのが今回の一件で出た仁王の結論である。
 どうせこの先には進まないだろう、と興味の失せた仁王はぼんやりと空を見上げて、流れる雲を目で追う。その間に彼女たちは立ち去ったようで、屋上には静けさが戻ってきていた。さあやっと行ったか、とひょいと顔をタンク脇から出してみれば、意外や意外、まだそこには件のが残っているではないか。此方に背を向けたまま、腰に両手を当ててフェンス越しに校庭を見ているようだ。そこで彼が彼女に声をかけようという気になったのは、彼お得意の気紛れでしかなかったが、彼女を一方的に毛嫌いしていた彼が態々彼女に話し掛けようという気になったのには紛れもなく先ほどの出来事が関連していた。

「おーサンは怖い怖い」

 ふるり、ツインテールを揺らしながら振り返った彼女の顔は、仁王が常日頃見掛けるそれだった。彼女は突然声を掛けてきた仁王に少しだけ驚いたように目を見開いたが、直ぐに何だ、と息を吐きながら笑う。

「仁王君、居たんだ」

 仁王と彼女とは矢張り初対面であるはずだが、仁王も仁王でその特徴的な頭髪から立海内では有名だったので、彼女がさらりと彼の名前を呼んだことに違和感はない。

「ああいうの、よくあるんか?」
「まあ、うーん、たまに。前はもうちょっと丁寧に返してたんだけど、最近やっぱりはっきり言い返さないとしつこいなって思ってた所」
「……そーか」

 どちらも、話し始めれば打ち解けられる性分なのか、彼女は特に警戒する気配もなく仁王にさらりと言ってのけた。初対面の相手にそんなしつこいとか言ってもいいものなんかと仁王ですら思ったが、彼女が良いと判断したのなら仁王が自ら口出しする必要もないだろう。寧ろ初対面だから話しやすいということもあるのかもしれない。だから彼の口から出てきたのは、彼女の顔を見ていて思ったそのままのことだった。

「しかしの笑った顔は、嘘くさいのう。しかもそれを向けられる幸村のことは考えないと来た。本当に、勝手な奴じゃ」
「何をするとしたって、そもそも一人で勝手にするものだと思うんだけど、違うかなあ」

 彼の言葉へ、ふ、と笑みを浮かべた少女に、仁王はゆっくりと瞬きした。普段幸村に向けるモノとはまた毛色の異なる笑みだ。いつもの、あの、何もかもを全身全霊で投げつけるような笑顔ではない。いつものあの笑みを例えるのであれば、どうだろう。向日葵? そんなまさか、曼珠沙華のようだと仁王は思う。一見毒々しく見える花、けれど意識しなければそう大した物でもない。しかし、よくよく見れば繊細で、ただ咲くためだけに地面からすくと立ち尽くして存在を主張する、そんなものだ。それが今の笑みは、まるで水芭蕉のようだ。しかも薄く向こう側の影が透けて見えてしまいそうな位に危うい。
 まさか全面に悪意を滲ませた言葉にそんな発想からの返事が来るとは思っていなかった仁王は、些かばつが悪そうに顔をしかめた。返ってくるならさっきの女子達に言っていたようなものだと思っていたのだ。仁王の表情をどう受け取ったのか、は慌てたように言葉を続ける。

「あ、ごめんね仁王君。気を悪くしたら謝るんだけど」
「いや、ええ。続けんしゃい」

 挟まれた謝罪に、仁王は頭を振る。流れ的には勝手に話を進められるものと思っていた。そこで、ああ、彼女のこと知っていても実際には初対面だったと思い出す。仁王との距離感を測りかねているのだろうか。どちらも自分から相手に近寄ろうとしない辺り、今の二人の間に横たわっているこの実際の距離が、そのまま二人の心の距離を表しているようにも思えた。

「そうだなあ。例えばだけど、誰かを好きになるのだって結局自分の勝手でしょう。本当は相手なんか全く関係のないことなんだし。だから、きっと好意の伝え方だって勝手で良いと思うんだよねって思って」

 何か、色々みんな、美化しすぎって言うのかなあ、と顎に手を当てて考え始めた彼女に、仁王は二つ瞬きをして、はあ、成る程なあ、と頷いた。その考えは一理あると思ったのだ。確かに誰かが誰かを好きになるのは至極勝手なことだ。相手によっては、勝手に好きになられるなんてたまったものじゃないし、逆に非常に嬉しい場合だってある。恋愛は確かに勝手だ。勝手なんだから、彼女がどんな風に幸村に接してゆくのかですら、勝手なことに含まれる。けれどそこで仁王は疑問を抱いた。

「勝手にしてるから、お前さんは幸村に告白せんのか?」

 彼女が幸村に対して所謂「告白」ということをしたという話は聞いたことがない。もしも彼女が幸村を好きなのだとすれば、もう告白していてもおかしくはないんじゃないか。しかし勝手なのだから告白しなくたっていいのだが、彼女ならきちんと告白して仮にフラれたとしても、まだアタックを続けるのだろうし。そんな疑問からくる問いかけに対して、「告白って、何で?」と彼女は心底訳が分からないといった体で首を傾げる。

「告白ってそれ、胸の内に秘めた本当に大事なことを明るみに出すことでしょ。私の場合それは当てはまらないって。だってほら、私が幸村君に好意を向けていることは周知の事実じゃない?」

 おどけたようにそう言う彼女は気付けばけらけらと笑っていて、先ほどまでの危うさは跡形もなくなっている。それをじっと眺めながら、仁王は気怠そうに立ち上がった。はと言えばフェンスに背中を預けてそんな仁王の様子を見守るだけだ。あつい。立ち上がった拍子に汗が首筋を流れ落ちていったのを感じながら、仁王はこのクソ暑い直射日光の中立ち続けている彼女に目を細める。暑くないのか。いや暑いだろう。風も吹かない、照り返すコンクリートなんて最悪。そうだ、よく見れば彼女の顔にもじわりと汗が滲んでいる。暑いんだから日陰でもどこでも入れば良いのに。まるで自分から厳しい状況に身を置きたがってるようだ。そう思いながら手の甲で額に浮かんだ汗を拭って、適当にズボンで拭った。

「でも、お前さんのそれを本気と取ってない奴もいるじゃろ」

 大抵は、彼女の行動は純粋な応援だけでなく、彼女が幸村のことが好きだからやっていることだと思っている。そして彼女本人も、そうであるとついさっき肯定したようなものだ。しかし中にはそう思っていない人間も居る、何を隠そうついさっきまでの仁王だって、そうなんじゃないかと思っていた。恋慕の情が強ければ好きな相手の前では赤面したりどもったりするものじゃないのか。そう思っていたから、にこにこ笑っている彼女の嘘っぽい笑みが恋から来るものだとは思えなかった。

「そうかな。そうかもね」

 特に何かを思った風でもなく、彼女は平然とした顔のまま寄りかかっていたフェンスから離れた。――そろそろ、昼休みが終わる。

「お前さん、本当に幸村が好きなんか?」
「うん、好きだよ。仁王君は、好きじゃない人を応援しようって気になるの?」
「いや、違う。言い方を間違えた。お前さん、もしかして幸村に好きになって欲しくないんか?」

 仁王の言葉に、はただ、ひっそりと笑みを深めただけだった。

 あれから仁王がに抱く感情は変化した。彼女との会話を経た後には嫌悪感なんて跡形も無く消え去ってしまっていた。それが彼女の話術なのか、人柄のなせる技なのか、判断はつかない。ただ、好きになって欲しくないのか、という問いに返ってきた複雑そうな笑みを、仁王はずっと忘れられないままでいる。

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