3 探ることが出来ないから

 何の因果か、柳とは入学してから高校最後の学年まで、ずっとクラスが一緒であった。それと同時に、彼女は決して幸村と同じクラスになることはなかったし、他の主要なテニス部員とも、同じになったことがあるのはジャッカルや真田の二人だけで他と一緒になることはなかった。立海は生徒数が多い学校であるからそれもやむないことではあるが、柳にしてもにしてもずっと同じクラスというのはお互いだけで、中学3年間は兎も角結果的に6年間一緒になるというのは各クラスの成績のバランスのことを考えても不思議なことだった。普通成績優秀者というのは各クラスの平均点などを考慮して分散されてもいいようなものだ。そして柳とは常に学年1位と2位をキープし続けている。必然、そんな二人が同じクラスに居るのだから定期考査の際のクラス平均は高いものとなる筈で。均してしまえば微々たるものではあるが、それでも二人の居るクラスは学年でもトップの平均を叩き出していると陰で囁かれている。
 普段から物静かな柳と騒々しい印象が強いとでは話す機会もないのではと思われがちだが、彼らは意外にも馬が合った。そもそもは幸村への挨拶の時に元気よく声を出しているだけで、その他校内、教室内ではほかの生徒と何ら変わらず、寧ろどちらかと言えば大声で騒ぐこともなく静かな部類に入る。それに彼らは学年主席と次席であることも関係しているのだろうか、互いの話している内容が少し突っ込んだものでも理解し合える仲なのだ。
 柳が一番最初に記憶している彼女は矢張り静かで冷静な印象が強いし、が幸村へアピールをするようになってからも、その印象は変わることが無かった。彼女を表面的にしか知らない生徒であれば、彼女はいつもにこにこと微笑んでいて元気がいいという印象を抱くが、柳にとってはそんなも彼女の側面の一つでしかない。確かに彼女が人好きのする笑みを浮かべているのはいつものことだ。しかし彼女は幸村以外にああいった態度を取ることはないし、学級委員長という役職柄、様々な人間と積極的に話をすることもそして話を纏めることも出来る人間だが、それがあそこまで一方通行で相手の返答を求めないということはまずない。こればっかりは誰よりも長い間彼女を見てきた柳も、見るたびに異質だな、と感じていた。異質だと分かっていたし、彼女にも直接そう言ったこともあるが、その時の彼女の反応は「それはそうだろうね」と全面的に認めるだけでそれ以上踏み込ませてはくれない。だから今はもう、そういうものなのだと思うことにしている。

「今日は精市と会えなかっただろう」
「大正解。代わりに真田君には会ったよ。真田君はいつもしゃきっとしていていいね。幸村君、今日は早めに来ると思ったけど、どうかしたのかな」
「今日は花壇の方を見てから行くと言っていたからな」
「成る程、相変わらず幸村君はまめだねえ」

 2人の会話は朝、大体が幸村の話題から始まる。今日は幸村に会えたか、会えなかったか。会えなければ他に誰と会ったか。が朝の報告会と冗談交じりに名付けたこの時間も進路によってはこれが最後の1年となるのかもしれない。そう思うと少し名残惜しい気もする。卒業まであと半年余り。この報告会が始まって、5年と数ヶ月。長いのか短いのか。この先長く生きていくのであればきっと、こんなものはほんの僅かな時間でしかないと思うのだろうが、今まで生きてきた時間からすれば矢張り5年というのは長いという認識になる。
 とそんな長い時間を共有し、彼女について結構なデータも持っている柳だが、未だに確信が持てない部分というものが多々ある。その一つが、時折柳の鞄に入っているメモについてだ。不定期に、数ヶ月に一度というペースで入っているそのメモに書いてあるものというのが、大体がテニス部の練習に関する新しいメニューの提案なのである。それが途轍もない走り書きなのだが、最低限字のバランスはしっかりしているために下手という訳でもない。しかしそれを誰が入れたのかというのが分からない。最初柳は、それを入れているのはなのではないかと真っ先に思った。幸村に対してとは違い、表立ってテニス部を応援することのないだが、立海が勝ちを進めれば非常に嬉しそうにしていたし、どちらかと言えばさり気ない応援を好んでいたことからも、もしかしたらがテニス部の様子を見てそっと提案しているのではないか。柳の鞄に入れられるような人物と考えても、同じクラスの人間と考えるのが妥当かと思う。しかしそれだけで確信するには証拠が少なかった。まず、柳の鞄にが何かをしているという目撃証言がない。移動教室などの合間を縫って入れられていることもあり、このままだと他のクラスの人間が入れているという可能性すら浮かぶ。そして何より、筆跡が、のものと断言できない。それもの字というのが女子らしく丸々と可愛らしいものであり、その走り書きとは似ても似つかないのだ。その提案は大体が理にかなっているので度々取り入れているし、このメモの件についてはテニス部レギュラー陣も知らされているため、長年柳でも特定できない謎の人物としてレギュラー内では密かに有名だったりする。幸村も、これを入れてるのが誰だか分かれば是非お礼を言いたいねと口にしているが、未だそれはなされないままだ。しかしそんな風に興味の尽きない彼女だから、柳はと良好な友人関係を続けることが出来ているのもまた、確かなことだった。

 さて今回珍しくと席が前後となった柳は、が何かプリントを手にしながら席に着くのを見つけてすかさず声を上げる。

「その手に持っている資料が球技大会に関するものである確率は」
「そうーさっき担任に渡されたんだ。今年もテニスとバレーとサッカーとバスケ、あと大縄っていうのは変わらないみたい。毎年海原祭の大体二週間後に球技大会でその一週間後は定期テストって、色々近くて準備大変なのに、これどうにかならないのかな」

 球技大会もたまにはバドミントンとか入れてもおもしろいと思うんだけどね、あれも一応羽球って球技に分類されるんだし。と上半身を捻って柳の方に向き直りつつ、ぺらぺらとプリントをめくりながら唇を尖らせたに、柳はそうだなと相槌を打った。球技大会は運営委員が決まってしまえば後はそちらに任せればいいため、学級委員長であるが球技大会に関わるのは今回の委員決め位だろうか。しかし海原祭、立海独自の文化祭はそうもいかない。文化祭も運営委員は存在するが、それは文化祭そのものを円滑に進めていくためのものというのが主で、具体的にクラスの出し物などの準備調整をしてゆくのは恐らく学級委員が主体となるだろう。それに人を纏めるのに慣れている彼女が進めた方が話も早い。だからこそ、準備が大変、というの言葉は中々真に迫っていた。

「大変でもきっちり当日までには準備が終わってしまうから変わっていないのだろう。は今年は何に出るんだ? 去年はバレーだったが」
「そうだねー、何にしようかな。一通り選んでるし。柳は今年もテニスかな?」

 茶化すように口角を上げるに、柳もまたくっと微笑んだ。球技大会はそれぞれ、部に所属している者は各クラス2人までしか出られない規則となっている。今年はレギュラー外のテニス部員が同じクラスに数人居るが、球技大会は毎年レギュラーから優先的に入っていくからまず柳は間違いなく入るだろう。

「そうだな、そうなるだろう。そう言うは意地でもテニスを選んだことがないだろう。お前は何をやっても出来るのだから、テニスだって本来出来るはずだ」
「えっやだ柳、意地の悪いこと言わないで」

 苦笑しながら顔を上げたにすまないと口にしつつ、それでも今柳が言ったことは彼の本心だった。部活動こそ何もしていないが、元々運動神経は良い方なのか、体力テストだって運動部に混じってかなりの好成績を残すし、こうした球技大会だって足手まといになることはない。足を組んで机の上に頬杖をついたは、はい、と柳に学級での話し合いに使うその「球技大会」のペラ紙二枚の資料を渡した。流れで受け取ってしまった柳は、が此方を見つめているのを感じつつ資料に目を通し始める。

「確かに私、テニス出来ない訳じゃないよ」
「……ああ」

 HRが始まるまでのざわざわと落ち着きの無い教室内。ともすれば聞き逃してしまいそうな小さな声音でこぼれ落ちてきたそれを、柳は耳敏く聞き取った。他の人間であればこんな小さな呟きを逐一拾われるとは思わないかもしれない。実際柳以外の人間にその言葉を聞き届けた者も居ない。それでもが今相手にしているのは柳蓮二その人であり、そしても拾われるだろうと思って口にしていたのだろう。拾われたことに驚きの色はない。

「で、幸村君が居るからやりたくないって訳でも、実はなくってさ。あーうん、まあ、それが理由の一つでは確かにあるんだけど」
は小学生の時に、テニスの大会で優勝経験があるようだったな」
「えっそれはちょっと怖いよ柳そういう情報どこから仕入れてくるの? 私立海に来て一言もそんなこと口にしてないんだけど」

 本気で驚いたように目を見開いたは思わずプリントに目を走らせる柳を覗き込む。かつてテニスをしていたことをあくまでも言わないつもりだったのか。脳内のデータへと新たに情報を書き込みつつ、柳はすっと顔を上げた。そうなのか。気分を害したらすまない。そう言いつつ彼の顔に浮かぶのは悪びれた様子のない表情だ。

「うんまあ、事実は事実だし、別に疚しいことでもないから良いんだけどさ」
「そう言うと思ったからな」
「見越してたの? もー柳は本当油断ならないというか何というか」

 呆れたとばかりに首を左右に振ったは、読み終わったらしい柳から返されたプリントを受け取るとそれを机の中から出したファイルに突っ込んだ。そのまま宿題で配布されたプリントを忘れず持ってきたかを確認し始めたの横顔を眺めながら、柳は少しだけ迷った後、確率的には無難だからと思いそっと口を開く。

「確か、うちのテニス部の新は、の弟だったな」
「ああうん、そうだね。何かずっと触れてこなかったから本気で知らないのかなとか思ってた。何だ知ってたんだ」

 は柳の方は見ず、ファイルの中身を物色しながら受け答えをする。どうやら柳の投げかけた話題に気分を害すると言った様子はないようだ。良好な友人関係のままでいたい柳としては、彼女の至極個人的な領域に入り込んで嫌な気分にさせるような真似は出来るだけしたくない。だから今の反応に内心ほっと息をしたが、そんな素振りはおくびにも出さずに柳は続けた。

「お前達が学校で話しているところを見たことがなかったから、触れて良いものかと思っていたところだ」
「そうだったんだ。なんかごめんね。別に仲が悪いって訳じゃないんだけど、私が新の姉だって知られると新が何かと大変かなあって思って」

 弟のことを語ったときに一瞬寂しそうな顔をしただったが、それもすぐに苦笑に変わる。きっと彼女の言う大変というのは、彼女の行動が何かしら弟の同級生に作用するのではないかという危惧を指しているのだろう。流石に同級生は時と共に慣れたものでも、二年も年が離れていれば目新しく映る。それに立海は中学からの持ち上がりが多いとはいっても、外部生が高校から入るのだから、きっと弟のことを考えて彼女は何年になっても気が抜けなかった。だから、彼女たちは学校では接触しなかったのか。
 後輩としての新はに似て品行方正だし、成績も良い。しかし性格はがどちらかといえば明るい方に位置するのに対して、新は内向きで寡黙だ。黙々と練習している姿が印象的で、その練習の成果もきちんと出ている。中学時代、赤也達レギュラー陣が卒業して抜けていった後には彼もレギュラーとして大会にも出ていた位だ。高校に入ってからもテニスを続けている彼とは中学の時のこともあって比較的話すようになったが、彼の口からものことが出てきた覚えがない。尤も、の話をうっかりしてしまうような部員はテニス部内に存在していないので、それは当然と言えば当然なのだが。
 ちらり、時計を確認するとそろそろHRが始まる時間なのだが、まだ担任が来る気配はない。そもそもここの担任は時間より遅れてやってくるのが常だ。ファイルの中身を確認し終わったのか、柳同様時計を見ていたの頭の二つの房が揺れる。

「長くなったな」

 そう言えば、ん? と柳の方を振り返る。そして柳は自分の髪を指して言っているのだということを理解して、ああそうだね、と指で毛先を弄りながら首を傾げた。

「でも柳も1年の頃髪の毛長かったよね? ばっさりいったときは衝撃的だったよ」
「そう言うは随分と髪の毛が短かったな。今はかなり伸びたようだが」

 が学級委員長として初めてクラスメイト達の前に立ったときのことを思い出す。まだ、彼女が幸村の前に現れる前の出来事だ。何か決意したように凜とした眼差しに、誰かに助けを求めることなくただ1人でもクラスを動かしてゆこうとする度胸と、ませているとも取れる落ち着いた物言い。あの時の彼女は今ほど、笑顔はなかった。――けれどあの時から柳の中に彼女は座り続けている。今でもあの時の印象がそのままの印象だ。そんな彼女の笑顔が増えたのは、彼女が幸村に関わりだしてから。だから彼女の髪の長さは、と幸村の関係の長さとなる。見る度にそう思ってしまう自分が、結局彼女に嫌われるのが恐ろしくて必要以上に踏み込んでいけない自分が、柳は時折、愚かだと自嘲したくなる。そんな柳の気持ちを勿論知ることのないは、柳とは視線を合わせないまま、指先に絡ませていた髪を解くと今度はそれを掴んだ。

「でもまあそろそろ切らなきゃいけないかなあ」
「切るのか?」
「卒業までにはね」

 あの時と同じようにどこか決意の色を滲ませて、にっと笑ったに違和感を覚えたものの、柳はやはり、その穏やかに張り巡らされた拒絶の意を感じてしまえば、そこから先に踏み込むことが出来ないのであった。

inserted by FC2 system