0-5 返らぬ水を嘆き続ける

 私の決意は、私の思ってもみないタイミングで決行されることとなった。端的に言えば、早まったということである。

 はじめは、そう、一般的な感覚から言えば些細なことだったのだと思う。挨拶に、挨拶を返される、客観的に見れば些細なことだ。ただ、そうされるまでに一般的とは言い難い年月が横たわっていただけの話。彼にどんな心境の変化があったのかは知れない。思い返せばその前日、全く心の準備も服装の支度もしてない時幸村君に会ってしまって頭が真っ白になったが、まさかその程度のことで変わってしまうとは思わなかった。それは確実に私の油断であり、過信であった。
 何度も言うけれど、私は幸村君が好きだった、でもだからといって好きになって欲しい訳ではなかった。それは決して、自分は幸村君に好きになってもらえる人物なのだとかそういう幸せな脳内を持っていたのではなくて、そして幸村君だけに好かれたくないと思っている訳でもまたなかった。誰にしたって、そうだ。好かれるのが、怖かった。そしてその恐怖の対象は私が好意を持つ相手の幸村君であっただけに、顕著だったのだろうと思う。好きであれば好きである程に。私は、好きになってもらうことが――愛されることが、怖い。
 報われない母を見ていて培われた感情。我ながら笑える恋愛観だと思う。私は怖いんだ。愛した先に、愛された先に、いつか見返りが来なくなってしまうことが。だからこそ、それならば初めから好かれない方が良いと、愛されない方が良いと思ってしまう。予防線を張らないと安心出来なくなってしまう。けれどその予防線を踏み越えられた先を私は予想していなかった。必死になって、苦心して幸村君に対して幾重にも張ってきた予防線を、幸村君はあたかも赤子の手を捻るように次々と踏みつぶしてこっちに向かってきた。挨拶だけかと思えば、会った時にこにこしながら話し掛けてくるようになったし。最初に彼が話し掛けてきた日から、文化祭までずっと気が気じゃなかった。

「こんな所にいたんか、サンは」
「……仁王君?」

 あの文化祭の日。クラスの出し物も無事に終了させて、クラスメイト達が喜々としてキャンプファイヤーへ殺到するのを見送りながら、私はそっと教室を後にした。行事物としてはまだ球技大会が残っていたけれど、一大イベントである文化祭を経て、学級委員を務めてきた身としては肩の荷が一つ下りた心地だった。キャンプファイヤーにはクラスの女の子達からも誘われたし、最後なんだから記念に、とも言われてはいたけれど、何やかんや言って断ってしまった。悪いとは思ったけれど、キャンプファイヤーに近づいた日にはダンスに巻き込まれてしまうこと必至だ。一口にダンスと言っても、あそこで行われているのは大半がフォークダンス、もっと具体的に言えばオクラホマミキサだ。代わる代わるに違う人と踊ってゆくのだけど、あんなリスクの高いものの輪に入るなんて私には出来なかった。ただクラスメイトだけで集まってやるのだとか、そういうのであれば構わない。けれどあれは、誰と当たるか分からないというリスクがある。最悪のことを考えたとして、もしも幸村君と当たってしまったら、どうする? 幸村君に声をかけられただけで挙動不審なのに、これ以上彼と接触する機会なんて欲しくない。だから、其処に参加するという選択肢は真っ先に排除している。中学1年の頃からずっとだ。私はこと幸村君については特に、いつだって先回りして逃げ道ばかり考えている。

「どうしたの、屋上になんて来て。キャンプファイヤーの方行かなくて良いの?」
「それはそのままそっくりお返しするぜよ。何でいつもは人の輪に居るサンが、こーんな所で黄昏れてるんじゃ」

 夕暮れ時の屋上は、まだ夏だからと言って昼間程熱い訳ではない。半袖でいれば、僅かではあるけれど寒いと感じる。体の良い逃げ場所として屋上を選んだのに、私の背後から不意に話し掛けてきたのは思いもよらず、仁王君だった。彼とは中学2年の時にもこの屋上で話したことがある。あれ以来、偶にあった時一言、二言話す位だが、同じクラスになったことがないにしては中々良好な関係を築けていたのではと思っていた。

「黄昏れてる訳じゃないけど。仁王君は、あれでしょ、女の子から逃げてきた」
「まあそんな所じゃのう。文化祭中何処に行くにも喧しくてかなわんかった」
「わあ、これがイケメンの発言だね。私に刺されないようにね」
「何じゃそれ……イケメンに何か恨みでもあるんか」

 イケメンという生き物そのものには恨みはないけれど、大半の人にイケメン、或いは美少年と称される幼馴染みを持つ身としては、イケメンというと大抵周助の顔が浮かぶ。勿論サエもイケメンなんだけど、あれはどちらかと言えば男前だ。だけど周助は、あれは駄目だ。中身が残念過ぎていただけない。あれの所為でイケメンはどことなく残念なイメージが抜けないから、周助はある意味で罪な男だと思う。あれで外面は(二重の意味で)いいものだから救いようがない。

サンが此処におる理由、当ててみせようかのう」
「え、いいよ別に」
「まあまあ。ずばり、幸村から逃げるため、じゃろ」

 沈黙した私に目を細めると、仁王君は隣にやってきてしゃがみ込み、私と同じようにフェンス越しに校庭を眺めた。何か不良みたいなスタイルだ。元々仁王君は髪の毛を染めているし、高校に入ってから、恐らく出席数の関係で幾分改善されたけれどサボりの常習犯でもある。だから不良みたい、というよりまあどちらかと言えば不良寄りだけれどそこは立海テニス部レギュラーだからか、喧嘩をしただとかそういう話は聞かない。
 仁王君は不意に顔を動かして、屈んだ体勢のまま私を見上げてきた。ずっと仁王君の一挙一動を見守っていた為にあっさりと目が合う。上目遣い、仁王君が好きな人ならば、これを可愛いとか格好いいとか思うのだろうか。でも可愛いと言うよりは、仁王君は目力があるから、正直怖い。それでもじっと見つめてくるので此方も目を逸らせないでいると、見つめてくるままに仁王君が口を開いた。

「最近は前程に笑わんの、お前さん」

 一瞬、何を言われているのかよく分からなかった。ちゃんと言葉は聞こえていたけれど、理解するのにいつもの倍近くの時間がかかってしまう。その時どんな顔をしていたのだろうか、眉間に皺を寄せてちゃ折角の顔が台無しナリ、とか言ってきたので、コロ助かよと一瞬自分の表情のことなど忘れて内心突っ込みを入れてしまった。

「そんなこと」
「あるナリ」

 なんとかした返事も、仁王君によって一刀両断されてしまう。そんなに酷い顔をしていただろうかと思わず頬に手をやれば、仁王君はにやりと笑った。カマをかけたのだろうか。食えない。食えないとは思うけれど、私はそんな仁王君を嫌いではなかった。不思議な人だと思う。幸村君とは違う方面からある意味一足飛びに距離を詰めてくる、というかジョブを繰り出してくる仁王君が何で苦手じゃないかと考えると、それは初対面の時の彼の態度が大いに関係しているのではないかと思う。彼は初対面の時、私に対して一切好意など抱いていなかった。私の行動が、幸村君へと苦心していた行動が嘘くさいものだと一蹴してみせた仁王君に、私は素直に感服した。それと同時に多分、安心したのだろう。この人なら、少し踏み込んだところまで話しても良いと。私を嘘くさいと嫌悪してくれる人だから。一方で、もし私が幸村君のテニスを見ることがなかったら、彼のような人を、もしかしたら好きになっていたかもしれないとも思う。あくまでも可能性の話ではあるけれど。ああでも、彼が私に話し掛けてきたきっかけも幸村君に関係することだったから、矢張り私は幸村君抜きでは仁王君とこうして話すこともなかったのかもしれない。
 興味をなくしたのかぷいと視線を逸らした仁王君に倣って、私もまた、キャンプファイヤーの方へと視線を落とした。沈黙。私は沈黙を好む性質ではあるけれど、世の中沈黙が好きという人がそう多い訳でもない。しかし仁王君の様子を見る限りでは、好きかどうかは分からないけれど、特に嫌そうでも居心地が悪そうでもないから気にする必要はなさそうだ。それでも私がこの沈黙を破ったのは、私自身がこの沈黙に耐えきれなかったからかもしれない。弱音を吐いて縋ってしまいそうで。

「仁王君、ちょっと変なこと言っても良いかな」
「なんじゃ」
「私今自分が何処に向かいたいのか分からないんだよねえ……」

 言ってから、仁王君にはきっと私がどんな理由からこの発言をしたのか分かってしまうのだろうな、と思った。思い返せば、私は幸村君に好きになって欲しくないのだと明確に気付かせてくれたのは彼の発言があったからだ。それまでは、幸村君に関わって欲しくないと思っていただけで、それが好きになって欲しくないと明確な言葉として頭の中にあったのではなかった。私が分からないことを見抜いた彼ならば、きっとこれが、今何かと声をかけてくる幸村君への態度をどうするか分からないでいる私の気持ちからくるものだと、察してしまうのだろう。そう思うと、こんなこと言わなければ良かったのにという後悔が這い上がってくる。その感情を誤魔化すために前髪を手で梳いた。何をやっているんだろう。幸村君以外なら、幸村君に関わらないクラスのこととか、勉強とか、そういうことなら幾らだって上手くいくのに。上手くやれてきたのに。ファンクラブとの兼ね合いも、先生達との信頼も、交友関係も。幸村君のことだって、彼が私を見ないようにするための予防線の効力は上手く発揮されていた筈なのに。

「上手くいかないことを、上手くいくようにするためには、どうしたらいいんだろ」

 そんなの仁王君に聞いたって分かりっこないに決まってるけど。
 仁王君の方を見やるも、彼は頬杖をついていて此方を見る様子はなかった。相変わらず、ヤンキースタイルなことには変わりない。

「上手くいかん時なんざ、何やっても上手くいかんもんじゃろ」
「でも、どうにかしなきゃ」
「どうにかしたいんか」

 言いつつ不意に仁王君が立ち上がって、ポケットに手を突っ込みながら此方に向き直る。怠そうな彼の立ち姿、でも今は何故かその瞳が、異様に光を反射しているように見えた。どうにか出来るものならそれはどうにかしたい。何処に行けば良いのか分からなくて、何処にも行けなくてただ右往左往するのは辛いから。――幸村君を、諦めることが出来るというのなら。

「手伝ってやっても良いぜよ。でもそうじゃのう、お礼にサンが俺と踊ってくれるんならってのはどうぜよ」
「あー、ああ、仁王君の手の上で?」
「おーおー、そうじゃそうじゃ」

 そう言って、互いの顔を見ながら笑いあう。ああ危なかった。仁王君が最後茶化してくれなかったら、私はああいう風に切り返せなかっただろう。何とか出来るのなら、仁王君の手を取ってでもと、一瞬でもそう思ってしまった。けれどこれは私の、私の内だけの問題であってこんな風に仁王君を巻き込んではいけない。寸前でそれを思い出せて良かった。
 その後仁王君は屋上から去っていって、また私一人になる。海原祭の後夜祭というのは祭りの後なだけあって教師の目がゆるい。点呼はもう取ってしまったから、その後は後夜祭に参加するも直ぐに帰宅するも生徒の自由だ。だから仮に私がこの後ずっと此処にいたとしても、咎められることはない。探されることもない。尤も、咎められないというのは人が来なければ、だけど。
 けれど、仁王君の言葉通り、上手くいかない時はとことん上手くいかないらしい、否、結果的には良かったのかもしれないと思う。だってあれがきっかけとなったのだから。

さん、後夜祭、俺と踊ってくれないかな? 冗談とかじゃなくて」

 きっとそれは本来、魔法の言葉だ。王子様を待ち望むお姫様に向けられるための、運命の言葉。でも私にはとことん呪いの言葉にしか聞こえなかった。その言葉は誰に向けられているの? 私? 悪い夢だとしか思えない。私があんなに苦心して好かれないように、興味を持たれないようにしてきたことが無駄になったのだと明確に知らされた気分だった。気分だった、と言うより、そのものだった。
 何でこうなってしまったのか、なんて、今更言っても仕方がないのだろう。本当ならこんな形ではなく、もっと後腐れのない形で彼との関係に終わりを告げたかった。これまでならきっと、私が彼との関係を絶ったところで彼が私を視界に入れることはなかった、筈だ。でもそんな綺麗な終わりなんて頭の中のものでしかなかった。
 綺麗に、というのならもっと他にやり方もあったのかもしれない。けれど私は耐えられなかった。彼の瞳が私の方を向いていることに――耐えられなかったんだ。彼が私を見ていると思うと何も考えられなくなる。幸村君はずっと私以外を見ていれば良いのに。私以外のものに触れて、あの優しさのまま、私の行動に縛られることないままに、誇り高き頂点として。彼が私の憧れであり、接点もなく同じことを繰り返す退屈な存在の私なんぞを視界に入れる訳がないと思っていたが故に、私は彼を追い続けていられたのだから。

 でももう遅い。

 屋上を出ると全力で走って学校を抜け出し、家へ帰ると玄関を勢いよく開けそのまま中に転がり込む。近所迷惑だと分かっているけれど思わずバタンと音を出して扉を閉めてしまった。新はまだ帰ってきていないようだった。私だって、本当はまだ帰るつもりはなかったし、新が家に帰ってくるにしてもあと一時間程はかかるだろう。誰も居ない暗闇と沈黙の中、やっとの思いでリビングまで辿り着いて、着替えない制服もそのままにどさりと椅子に腰掛けた。何もする気が起きなかった。こんな無力感は久々だ。前は、母がもうこの世にはいないのだと理解した時だろうか。あの時と全く一緒だとは思わないけれど、疲れてしまった。これまでのこと、何か意味が欲しくてやってきた行動じゃない。したかったから、そうした。ただそれだけのことだ。あの行動は意味付けするようなものじゃない。けれど、したいことをするためには代償が必要だ。それは不可欠だとして、幸村君と関わらなければ被らなかっただろうことも甘んじて受け入れたし……ああ、やだな。そこで一旦思考を放棄した。私が勝手にやってきたことなのに、気を抜くと幸村君のせいにしてしまいそうになる。幸村君は何も悪くない。私に勝手に憧れられた人なだけだ。想定外ではあるものの、きっとこれこそが私が前から狙っていた諦める絶好のタイミングなんだから、私が潔くしないとまたずるずる引き摺ることになってしまう。元々私と幸村君の間に関係なんてない。だから、私があの行動さえやめれば、幸村君と私の間には何一つ関係なんてなくなるんだ。接点なんて、何一つ。
 俯いていると、両脇から垂れ下がる髪の毛が鬱陶しくて仕方がなくなった。重い体を何とか動かして洗面台まで移動すると、電気をつけてそこに新聞の広告を敷いた。そのまま家庭用の散髪鋏を手に取る。そして何の躊躇いもなくその刃に自分の髪を当てた。ざく、じゃき、じゃきん。彼に出会ってから、テニスをやめてからずっと伸ばしていた、切ったそばからはらはらと敷かれた紙の上に落ちてゆく重い髪。なくなった髪の毛と共に、私のこの感情も消えてなくなってしまえばいい。そうすれば、何も悩まない。何も悔やまない。何一つ苦しくない。断ち切らなければ。諦めなければ。その一心で切り続ける。どんどん降り積もってゆく邪魔なものが自分から切り離されてゆく内に、自分の心がどんどん冷えてゆく。ああそうだ。諦めるも何も、そんなことを私が考える以前に、彼が私に興味を持った時点で――とうに私の恋は終わっている。だって、私は誰かを好きになっても、こたえを受け取れないのだから。
 すっきりとした頭を軽く振って、改めて鏡の中の自分を見つめる。笑顔のない、疲れた表情に可愛さなんて一つもない。でも可愛くなくたっていい。もう、いい。私は幸村君に好きになっては欲しくなかったけど、人並みに、好きな人の前では可愛くありたいという感情はあった。可愛くない人間から応援されるより、可愛い人間から応援された方が嬉しいって周助も言っていたし。だから、一番可愛い格好でいたかった。見られないと分かっていても、見られたくないと、思っていても。笑っちゃう位に矛盾してる。何がしたかったんだか。応援だけしたいのなら本当、ファンクラブの人たちのように黄色い声を上げていれば良かったんだ。変に幸村君の迷惑にならないようにとか、そんなこと考えずに。そんなことも、考えなければ良かったのかなあ、って。結果が全てなんだから、今更どうこう言ったってどうにもならないことなんだけど。
 切った髪の毛の片付けをしていると、玄関のドアの鍵が開く音がする。ああ新が帰ってきたんだな、と思っていると、とすとすと聞き慣れた足音が聞こえてきて、そして想像通りリビングにきっちり制服姿の新が姿を現す。明かりがついていたから私が帰ってきていることは分かっていたのだろう、けれど入ってきて早々ただいまと言った新は、私の姿を見るなりそのまま目をかっ開いて固まる。おかえり、と返すと、相変わらず目を見開いたまま恐る恐るといった体で口を開いた。

ちゃん、何、それ」
「鬱陶しいから、切っちゃった」

 人前、例えば周助の前だと私のことを呼び捨てにするのに、二人きりになるとちゃん付けする癖は幾つになっても直らないらしい。呆然と髪の毛を凝視してくる新に苦笑を漏らしながら、取りあえずはおどけてみせる。けれどそれは何の効果もなかったようで、新は小刻みに首を振りながら近付いてくるとがっしりと肩を掴んできた。

「何で、何があったんだよ……」
「これでいいんだって。もっと早くに、こうしておくべきだったんだ、きっとね」

 その手をゆっくり肩から離しながら、新は私の顔を覗き込むように見る。いつも私の後ろに居て、私がずっと大事にしてきた弟。庇護の対象。可愛い弟。前は私が顔を覗き込まないといけなかったのに、随分前にそれは逆転してしまった。それでもやっぱり、弟は可愛いものだ。弟に余計な心配はさせられない。だから私は、笑った。笑えた。笑えたから私はもう大丈夫だ。そう思って、「荷物部屋に置いてきなよ」と新の背を押した。

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