0-6 さあ賽は投げられた

「おはよう
「……おは、よう?」

 海原祭のあった日から、と言うより、私が幸村君を避けるようになってから一週間。訪れた週末の早朝連絡もなしに突然家へやってきたのが、不二周助その人だった。早朝も早朝、突然インターホンの音がしたことに驚いて訝りながら出て行くと、何故か玄関の前に立っていたのだ。何か約束をしていたっけと思い返すも、何一つそんな覚えはない。凄い格好だね、と嫌みな程清々しい笑顔で言ってくるこの男だが、常識外れな時間にいきなりやってくる方がどう考えたって悪い。思い切り顔をしかめてやれば、凄い顔だよと笑われる。今更周助のことは気にしても仕方ないのだけど、腹が立つものは立つのである。
 このままでは埒があかないと思ったので、一体何の用、と問いかけて、そこで周助が青学高等部のレギュラージャージを身に纏っていることに気が付いた。本当に何しに来たんだろうこいつ。こんな早朝に来たってことは、これから練習なり何なりあるってことだろうし、私の所に来て油を売っている暇はないだろうに。いや本当に何しに来たんだ。ここ神奈川なんですけど。そんな風に思っているのを知ってか知らずか、周助はにっこりと微笑む。あ、これは何か企んでいる時の笑い方だと思うより先に、周助はぽん、とパジャマを着ている上から私の両腕を叩く。

「取りあえず、着替えてきて。ほら早く、動きやすい格好だよ。姉さんに神奈川まで送ってもらったけど、結構時間ないんだから」
「ね、姉さんって由美子さん!? な、何で?」
「細かいことはいいから、早く」

 姉さんを待たせると面倒くさいから、と強引に体を反転させられ、背を押される。待って欲しかった。そもそも急かされる理由が分からない。確かに、文化祭で潰した土曜日の分の休日が今週代休となるために、月曜日までの三連休になる。今日一日周助に何処かへ連行されるからと言ってもどの道特に予定も無いのだから困ることもない。けれど。

「ああ、新君のことなら心配しないでいいよ。彼も知ってるから?」
「知ってる? どういうこと?」

 いいからいいから、と訳が分からないままに背中を押され続けて遂に自分の部屋に押し込まれる。一体何が始まるというのか。この時はまだ、何一つ分からなかった。



「紹介するよ、昨日言ってた僕の幼馴染み、。今日から三日間、彼女にはマネージャー代理をしてもらうことになったよ」
「はじめまして、です。何が何だか分かりませんが今日突然此処に連行されてきました」

 青い空白い雲。昨日見た天気予報通り、頭上に広がるのは何の文句のつけようもない晴天。そしてすぐ目の前に整列しているのはどこか見覚えのあるような青いジャージで、その胸元には「SEIGAKU」と記されている。中等部の物とは少しデザインが変わっているので、これは高等部のユニフォームということになるのだろうか。そう、言うまでもないかもしれないけれど、今私の目の前には青春学園高等部テニス部の面々が並んでいるのである。いいやもう、これは本当に、訳が分からない。
 周助に連れてこられたのはどこかの宿泊施設らしく、どうも沢山のテニスコートがあることから、もしかすると彼らテニス部は合宿に来たのではないかという推測までは出来る。けれどそこに私が連れてこられるというのは一体どうしたことなのだろうか。私はどう転んでも青学の生徒じゃない、立海生だ。ここに来るまでの由美子さんの車の中でも、周助は始終上機嫌なままで詳しいことは説明されないし、朝ご飯は由美子さんが作ってきてくれたらしいおむすびを頂戴したために食いっぱぐれると言うことはなかったけれど、これある意味誘拐なんじゃないだろうか。どうしても周助相手だと普段ならば抑えている苛立ちが表に出そうになって困る。それでも、今こうして周助に食ってかからないのは目の前で訝しげに私達を見守っている彼らがいるからだけど。
 どうやら周助の到着が最後であったらしく、施設の玄関脇で整列していた彼らは由美子さんの車から現れた私達をじっと注視していた。そこから有無を言わさず彼らの前に連れてこられて周助に紹介されているのだ。

「不二、その……さんの了解を得ていたんじゃないのか?」

 おずおずと口を開いたのは、髪型が少し個性的な黒髪の男子生徒だった。彼は見覚えがある。今もレギュラージャージで身を包んでいるけれど、中学3年の全国大会で丸井君とジャッカル君とダブルスで戦っていた相手の、大石君だったろうか。見ればレギュラージャージを羽織っているのは、全国大会の時に見かけた顔ぶればかりだ。年齢を経て多少顔つきが変わったようだけど、それでも面影はしっかり残っている。

「これから了解してもらう所だよ、大石」

 この言葉に最低だ、と思わなければそれは余程周助に心酔している人間だと思う。案の定えっ、みたいな困惑の表情を浮かべる面々に、私はついにため息を吐いた。ため息を吐いたって許されるだろう。仕方なしに周助に向き直って、小声で聞くべき所を聞くことにする。

「周助、本当に新が良いって言ってんだよね?」
「うん、本当。こればっかりは嘘じゃないよ。実は青学のマネージャーが体調不良で今回合宿に参加出来なくてね。そこで直ぐに手伝いに入れて、かつテニスに詳しい人って考えたら、丁度のことが浮かんだんだ。合宿場所も神奈川県内で拾っていけると思ったし」
「事情は分かったけど、一言何か事前に連絡するとか出来たんじゃないの?」
「だってどうせ、絶対にしなきゃいけないこともないだろうと思ったから」

 もう一度ため息を吐く。今から家に帰ると言ったって、由美子さんの車はもう帰ってしまったし、それになぜだか知らないけれど宿泊に必要な物を持たされてしまった。周助に言われるがままジャージを着てしまっていることだし、今更やめた、帰るというのも面倒くさい上に雰囲気が悪い。これで私に予定があろうものならそんなことも気にせず断ったのかもしれないが、どうせ家に戻ってもやるのは掃除洗濯炊事と予習復習位なものだ。新だって部活があるとは言っていたけれど、一応自分で食事の準備は出来るだろう。つまりは周助の言うとおりなのである。それでも暇人みたいな扱いをされるのは甚だ心外で、私は直ぐに頷くことが出来なかった。それに多分、周助から事前連絡があっても断っていただろうから、ある意味周助のしたことは強引ではあるけれど、私を連れてくるという意味では的確な方法だ。とは言え新も何か言ってくれれば良かったのに。

「分かった。もうここまで来ちゃったらどうしようもないから、やるよ」
「うん、ありがとう」

 満面の笑みでそう言った周助を一瞬だけ横目で睨んでやってから改めてテニス部一同へと向き直った。今日から三日間手伝わせてもらう旨、迷惑をかけるかもしれないこと等を一通り述べて、頭を下げる。何が悲しくて周助の顔を立てなければならないのか、それでもやるからにはきっちりやらなければならない。それは母に教えられたことだ。テニス部の方もよろしくお願いします、と礼を返してくれて、それからは私達を静観していた眼鏡の部長さんが合宿での諸注意を始める。私は周助に一番後ろで待っていて、と耳打ちされるままに列の脇を通って後ろへ回った。1年生なのだろうか、ちらちらと此方を気にしているのは分かったけれど、私も気を抜いていられないから部長さん、確か手塚君の話に耳を澄ます。
 やがて諸注意も終わり各々まずは荷物を部屋に仕舞いに行くということで一時解散となった。再度集合するまでにはまだ少し時間があり、私は割り当てられた部屋に荷物を置くと、時間まで顧問の先生がざっと説明をしてくれるということで来るように言われた玄関ホールへと向かう。朝早くからチェックイン出来るというのが珍しいとは思うが、そんなものなのだろうか。それにしてもこの施設、やたら広い。青学テニス部の面子が入ってもまだ部屋数が有り余っているようだ。しかし他に誰かが泊まっている訳でもないように見える。妙に思いながらも、ホールに辿り着いた私はきょろきょろと辺りを見回した。
 高等部のテニス部顧問の先生は男性で、周助からは中等部の竜崎先生の話ばかり聞いていたから彼に関する情報というものが殆どない。というより、周助から聞いた竜崎先生の印象が強すぎた。隅の方でソファに座っていた先生は私が来るのを見てよっと手を上げると、机を挟んで前にあるソファへ座るよう指示する。

さんだったかな、今日は不二が無理を言ったようで悪かった」
「いえ、周助のやることですからその点は気にしないで下さい」
「貴重な時間を割いてまで手伝ってもらって、申し訳ない。ありがとう、助かる」

 それから直ぐにマネージャー業についての説明が始まって、ざっと口頭で教えられた後に、詳しいことについてはこの中に描いてあるようだから、とノートを渡された。引き継ぎノートのような物なのだろう、中はかなり綺麗に纏められて見やすく、このノートを取った人はきっと几帳面なのだろうなということが窺えた。分からないこととかがあればすぐに俺に聞いてくれ、危険だと思ったら近寄らないようにとの言葉に分かりましたと頷く。安易に部員の知り合いを合宿に参加させてしまうところを考えると、慎重な教師とは言えないが、それほどテニス部の練習がハードだということなのだろうか。まあ確かに中学に全国優勝した学年がまた3年生な訳だし、青学も立海と同じで中等部から高等部は持ち上がりだった筈だから戦力もそう変わらず、結果並々ならぬ練習量なのかもしれない。ぱらぱらとページを捲りながらノートの内容を頭に叩き込んでいると、何やらホールが少しずつ騒がしくなってきた。時計を確認するとそろそろ集合時間になっていたから、私も動いた方が良いのだろうか。ばらばらとホールに見え始めたテニス部員を見て、私も先生と一緒に腰を上げた。

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