7 ただ傷付くことないよう

 についていえば、切原赤也は入学時には既に幸村へと熱烈な声援を送っていた姿を見かけていたために、その顔を覚えてしまうのにもそう日はかからなかった。強くなればあんな風に応援してくれる人間が着くのだと、最初は疑わなかったものである。しかしそんな訳ではないと気付いた頃には、赤也は彼女のことを、変な女だな、と思うようになっていた。そんなに積極的にアピールするなら早く部長に告白してしまえば良いのに。彼女が幸村に好意を向けているのは誰の目から見ても明らかなのに、聞くところによると彼女は幸村に告白なんぞしたことがないらしい。自分ならそこまでするならとっとと告白するだろうと思っている赤也としては、そうしない彼女は奇妙に映ったのである。
 彼女との初めての接触は、まだ赤也が1年だった頃、彼女のようなファンがつくのだと信じて疑わなかった頃だ。ボールを持ってくるように言われてムキになって沢山運んでいたところ、案の定赤也は籠から多くのボールを零してしまったのだが、その時そのボールを拾ってくれて、かつ昇降口の方に行く途中まではと持ってくれたのがだったのである。

「本当、最悪ッスよ! 俺はいつか絶対に、あの化け物3人を倒すって決めてるんッス」
「へえー、化け物って言われてるんだあの三人」
「……先輩、俺の言葉聞いてるんスか?」
「聞いてるよ。いい目標だね」

 彼女が赤也にとって「いい人」に分類されるようになったのは、偏に彼女のこの言葉にあった。当時他の部員は誰も彼もが赤也の言葉を聞いても叶うと良いな、とどこか嘲笑混じりに返してきたのに対して、は何か眩しいものを見るように、本当にいい目標だと思っている素振りで頷いたのである。嘲りの一つもなくいい目標だと言ってくれた彼女に、赤也の心は弾んだ。この時確かに嬉しいと感じたからこそ、この後赤也はを見かけるといつも嬉しい気持ちになるのだった。しかしテニス部では彼女のことは触れてはならない雰囲気だったし、学年が違うため彼女を見かけるのも幸村への挨拶をしている時や移動教室で稀にといった具合だ。話し掛ける機会などない。もう忘れられてしまっているかもしれない。そんな風に思う頃には赤也は高校二年になっていた。
 近頃、幸村がおかしい。そんな話になってもう数週間は経つ。確かにここ最近の幸村は赤也の目から見ても明らかにおかしかった。今までみんなが意図的に避けていたの話題を自ら口にするようになったし、いつも上機嫌だし、聞くところによるとに話し掛けるようになった――らしかった。かった、というのは丁度数日前まではそうだったのだ。それがこの何日か幸村は一転、甚く不機嫌で部員達は近寄りたがらない。その原因は予想通りと言えば良いのか、にあるようだった。どうもほぼ毎日描かさず幸村に挨拶していただが、その挨拶がなくなったどころか、幸村を避けるようになったらしい。そういえばここ数日、彼女の声さえ昇降口で聞くことはない。朝練が終わった後、幸村達と下駄箱に向かえば大抵耳にしていたのに、一体どういうことなのか。に問いかけてみたいと思っても、赤也とが接触したのはあの一回限りだ。聞けるはずもない。と、思っていたのだが。

「あ、切原君」

 声をかけてきたのは、なんとの方からだった。その日赤也のクラスを担当している体育教師が欠席で、急遽同じ時間に校庭で授業をしている3年と合同で体育をすることになったのだ。そしてその3年のクラスというのが柳のクラス、つまり必然的にもそこにいたのである。2、3年合同でサッカーをやるとのことで、ゲーム中選手交代で休憩に入った時に後ろから声がした。地面に座っていた赤也が勢いよく振り返れば、一瞬誰だか分からなかったが、それが髪をばっさりと切っただとふと気付く。そうだ、確か彼女が文化祭を境に幸村を避けるようになったと同時に、あれほど長いこと彼女のトレードマークだったツインテールもなくなってしまったのだった。

「と、先輩じゃないッスか! うわっお久しぶりです!」
「うんお久しぶり−、何だ私のこと覚えてたんだ」

 思わず姿勢を正せば、はにこにこ笑みを浮かべながら立ち止まる。どうやら女子のチームも今選手交代だったようで、は浮かんだ汗をタオルでぐいと拭った。髪を切ったからだろうか、その仕草は今までに抱いていた可愛らしいというイメージとは違い、どこか爽やかな印象を受ける。少し離れたところで赤也と同じクラスの男子達がチラチラと此方を窺っているのが見えたが、一睨みしてやれば慌てて目を逸らした。

「覚えていたというか、先輩のこと忘れるって方が寧ろ難しいと思いますよ。というかそれは先輩こそ」
「あはは、切原君の言葉そっくり返すね。まあ切原君のことはよく柳から聞いてるしそうそう忘れられないって」

 一体柳が赤也のどんな話をしていたかは分からないが、例えそれが如何に変な話だったとしても今回ばかりは柳に感謝しようと思った。きっと、柳が赤也の話をしなければ、彼女がこうして赤也に話しかけてくることもなかったのだろうから。が話し掛けてくれたのがつい嬉しくて、赤也は更に話題を探す。そこでぱっと目についた変化、彼女の髪の毛について聞いてみることを思いついた。

「そういえば先輩、あれだけ長かった髪の毛切っちゃったんですね。勿体ない」
「勿体ないかー、そうだね随分伸ばしてたし。まあでも切ったら軽くなったよ」
「そりゃそうでしょうけど……何で切ろうと思ったんです?」

 それまで赤也と目を合わせて喋っていたは、そこでふいと赤也から視線を逸らした。視線の先には男子達がサッカーで駆け回っている姿で、その中には柳も見える。そうだなあ、と一言挟むと、まあ気分転換みたいなものだよと言って、それからまた赤也の方を向き直った。苦笑を浮かべるの真意は分からないが、どこかはぐらかされたような感覚は否めなかった。はそれから間もなく、恐らく彼女のクラスの女子に「委員長―、出番だよー!」と呼ばれて赤也の所から去って行ってしまったため、追求することは叶わなかった。





 しかし赤也が再び彼女と顔を合わせるのに、今度はそう時間もかからなかった。
 
「やあ幸村。また君達と合宿出来るなんて、U-17合宿以来かな」

 その日を含めて3日間、青春学園と合同での合宿が始まる土曜日。赤也達が合宿所に到着した時にはもう、青学のテニス部員達は既に練習を開始していた。青学に後れを取ったね、と苦笑する幸村と、心底悔しそうにしている真田の所に現れたのが、ドイツから戻ってきたらしい手塚と不二だったのである。手塚と真田が話し始めたのを余所に、不二は幸村の方へ向き直ると先のように口にした。不二と幸村とは、あのU-17合宿の時に同室だったこともあってそれなりに仲良くなったらしい。いつも浮かべているにこにことした笑みに、幸村もまた笑みを浮かべる。バスの中ではまだ結構機嫌が悪かったものの、流石に青学の前ではずっと機嫌が悪いままでもいられないのだろう。何よりこれはテニス部の合宿だ。今暫くは彼女――のことも考えない数日を過ごし、少し機嫌も直るのではないかと、赤也はそう思っていた。

「そうだな。よろしく頼むよ」
「立海のマネージャーさんも、よろしく」
「え、ああはい! 頑張ってサポートします!」

 言いつつふっと不二が目をやった先には、中学の頃から立海テニス部に貢献している、現高校3年でマネージャーの八木小夜子の姿がある。長くマネージャーをやっているためか方々のテニス部に顔が知れているようで、この場合不二に関しても例に漏れなかったらしい。小夜子は不二に笑みを向けられると、少し口元をふにゃりと緩め、それから慌てて引き締めてびしっとそう言ってみせた。それから、青学のマネージャーの彼も来ているんですよね? と問いかけたが、そこで不二はいいや、と首を振った。不二の話によると、いつもの青学のマネージャーは体調不良で来られなくなってしまったらしい。では青学は大変なんじゃないか、と幸村が言えば、不二はそれはそれは嬉しそうに、いいや、幼馴染みに手伝ってもらうことにしたんだ、と微笑む。

「幼馴染み?」
「そう。幸村には合宿の時に話さなかったっけ、僕がテニスを始めようと思ったきっかけとなった子だよ」
「ああ……そういえばそんなことを言っていたな。その人が代わりに入ったのかい?」

 そうだよ、と頷く不二に、幸村はまた苦笑した。後に聞くこととなった話だが、不二は合宿の時に相当その幼馴染みについて同室だった幸村と、そして大阪四天宝寺の白石に語っていたらしい。またその話か、と言う意味で苦笑したようだったが、不二は「でも、幸村達は知ってるかもしれないね」と首を傾げた。それを聞いて幸村は訝しげに目を細める。

「どういう意味だい?」
「僕のその幼馴染み、立海の生徒だから」

 赤也は話半分にその話を聞いていたが、純粋にへえ、と思っただけだった。立海に幼馴染みが通っていたのか、とその程度でしかない。テニスを始めるきっかけになったということはテニス部なのかと一瞬考えたが、それなら今回の合宿、青学側の手伝いに入るなんてないだろう。幼馴染みが男子なのか女子なのか赤也には分からないが、仮に女子テニス部だったとしても女子は女子で学校のコートを利用しての部活の筈だ。ここにはまず来ない。幸村もそう思ったのか、そういうことなら知っているかもしれないな、と腕を組む。

「幸村達が来たら紹介しようと思ったんだけどね。今早速コートの方で大石の手伝いをしてもらってるから、それが一段落したら来るかな」
「じゃあまたその時に挨拶させてもらうよ」

 その時はそう言って、立海もそれぞれの部屋に荷物を置きに行くことになった。この宿泊施設は氷帝の跡部家の系列が営業しているらしく、今回合宿先をどうするか悩んでいた立海にその跡部がかなり良心的な値段で快く提供してくれるとのことだった。そのお陰かは知らないが、どうにも貸し切りの状態になっているらしく、青学と立海の生徒以外の人影は見えない。因みに青学が3階、立海が2階を丸ごと借り切っている。こうも大々的に貸してくれるなんて跡部さんも太っ腹ッスねえ、と隣の部屋になったジャッカルと集合場所まで並んで歩きながら言えば、本当にな、と同意された。
 集合場所となっているコートへ到着すると既に部員はほぼ揃っており、黄色いユニフォームが練習の始まるのを待っていた。幸村もとうに一番前で仁王立ちしており、赤也を見るなり「遅いよ二人とも」といい笑顔で顎を刳った。さっさと並べということなのだろう。時間には遅れていないのにと内心毒吐きつつ、言われた通りに柳の横へと並ぶ。その後全員の集合を確認してから練習内容が発表され、まず走り込みから始まった。走り込みが終わると各人ごと与えられたメニューに沿って基礎練習を始める。忙しく走り回る小夜子を横目に午前中は赤也も同じように基礎練習をしていたのだが、その姿を見かけたのは丁度お昼の休憩に入るという時だった。三食合宿所の食堂で用意してくれることになっており、赤也は喜々として食堂へ向かう。折角青学と合宿なのだからと、U-17合宿で同室となった海堂の顔を拝みに行くかと思い赤也はトレーに今日の昼食を載せたまま運ぼうとしたのだが、その時丁度幸村と柳も青学の方に用があるとのことで、一緒に行くことになったのだ。

「それで用事って何です?」
「ああ、午後の練習試合の相談とか。あとはまあついでに、不二が言ってた幼馴染みって人にも挨拶しておこうと思ってね」

 今の今までその幼馴染みの存在を忘れていた赤也は、ああ、と気のない返事を返すに留めた。幸村との会話も程々に、きょろきょろと海堂の姿を探していた赤也はふと最近見たことのあるような後ろ姿に目を見張る。彼女は赤也同様昼食のトレーを手に、隣を歩く不二と何やら話をしているようだった。

先輩?」

 思わずそう口にすると、視線の先の彼女はびくりと肩を揺らして足を止めた。そして足を止めたのは何も彼女だけではない。

、さん?」

 唖然としたように呟くのは幸村だ。赤也と幸村の声、そして彼女の様子の変化に気が付いたのか、不二が首を振り向かせる。そこで赤也達が彼女を見ていると気付くと、ああ、とでも言っているのか口を開いて、彼女に何事かを耳打ちした。そして彼女を方向転換させると、その背を押しながら一緒に此方へとやってくる。その時の彼女の顔は今まで見たことのないような、酷く複雑で、どこか怒っているようなそれだった。彼女は一瞬だけ赤也と目が合い、彼女の瞳が僅かに細められたような気がしたが、直ぐに逸らされる。

「やあ幸村、態々こっちまで来てくれたんだね。ありがとう」
「ああ……それでその、何故さんがここに?」
「え? 何だ幸村、と知り合いだったんだ? 何かさっきからが立海と合同合宿だなんて聞いてないってすごく怒っててさ」
「周助、余計なこと言わないで」

 少し苛立ったような声が不二の言葉を遮った。その、聞いたことのない鋭利な声音にまじまじと彼女を見つめれば、それに気付いたは矢張り気まずそうに視線を落とす。不二はそんなの行動など見慣れているとでも言うようにクスと笑った。そして「彼女が僕の幼馴染みだよ。ほら、挨拶」との肩に手を置く。は鬱陶しそうにトレーから離した片手でそれを払うと、幸村に向き直った。

「今日から合宿の間、青学の手伝いをしますです。迷惑はかけないようにするから、よろしくね、幸村君」

 にっこり、と。今まで苛立っていたのが嘘のように、その人は笑った。

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