8 計略を巡らせることの他

 八木小夜子は、立海男子テニス部のマネージャーである。そしてそれは中学1年次からこの高校3年までと、非常に長い間このテニス部を間近で見てきたということである。彼らが立海三連覇出来なかった時も、高校から新たなスタートを切った時も。彼女は選手達の傍らでその様子を見守ってきた。
 小夜子には自覚があった。それは、部活のマネージャーなんて物はあくまでも選手が快適に部活をする上での手伝いしか出来ないのだという自覚だ。練習をするにも、試合をするにも、実際にプレイするというのは選手が行うことで、マネージャーはあくまでも手伝いや見ていることしか出来ない。結果を出すのはマネージャーではないのだ。立海が勝てば嬉しい、負ければ悔しい。彼らに寄り添っているのだから、彼らの気持ちに同調して笑うことも涙を流すこともある。けれどマネージャーはあくまでもマネージャーだ。どんなに頑張っても最後には選手に託すしかないのだ。だから選手とマネージャーの間には、不可視の途方もない隔たりあると分かっていた。自分の代わりなんて幾らだってつくのだ。辛いことなんて数え切れないくらいにあったし、堪えきれずに涙を流した夜だってあった。それでも、小夜子はマネージャーを辞めようとは思わなかった。それはやりがいがあったし、彼らの一番近くで喜怒哀楽と共に歩んでこれたことがどんなに幸せであるかに気づけたから。そして何度となく、辞めようかと思っても実際行動に移さずに踏みとどまったのは、テニス部の部員達とそして、の存在があったからだ。

 は、小夜子にとって憧れのようなものだった。今でこそ選手のため立海テニス部のためと誠心誠意テニス部のマネージャーとして汗水流している訳だが、その昔、ミーハーな気持ちからマネージャーを志望した小夜子は、文字通り四苦八苦のマネ業に何度も「何のために私はこんなことをやっているんだろう」と煩悶したことも、そしてマネージャーという立場から所謂ファンクラブを名乗る女子生徒達からいじめを受けたこともある。まだ肝が据わっていなかった頃なんかは、彼女たちの脅しに屈しそうになったこともあった。けれどそんな時に小夜子の心の支えとなったのが、だったのである。小夜子は特に目立つの行動に対してファンクラブが圧力をかけているのを知っていたし、その現場を見てしまったこともある。けれどその時小夜子が見たのは、囲まれても臆さず立ち向かい、爽やかな笑顔で言い負かしてしまう姿だったのだ。あれを見た時小夜子はを心から尊敬した。
 テニス部に入って、幸村がすごいということも、彼が頗るモテるというのも散々彼らと関係を築きていたのだから小夜子にはよく分かっていた。モテる理由も分からなくもないが、彼の性格を知れば知る程に自分は遠慮したいと思ったのも確かである。今でさえ幸村は選手としては純粋な尊敬の対象であるが、まだマネージャー志望する前なんかは、の行動について耳にした時にはそんな堂々と幸村に声をかけられるなんて羨ましいと思う程度には幸村のことを好ましく思っていたし、彼女を目障りだと思ったこともある。
 しかしそれは自分に出来ない事に対する嫉妬だったのだと、小夜子はあの現場を見た時に痛感した。彼女は強い。私もあんな風に強くなきゃいけない。精神的に強くなければ、幾らだって代えのきくマネージャーはすぐにでもお払い箱だ。彼女だってあんな強さを持っているからこそ幸村君のことを応援し続けていられる。それに気付いてしまえば、後から襲い来るのは自己嫌悪でしかなかった。自分でどうにかしようとしないで、いつか誰かがどうにかしてくれるなんて、そんな甘いことを考えていたのだ、かつての小夜子は。そんな甘ったれた考えのままで、どうして誰かの手が差し伸べられるというのだろう。どうしてそんな考えで、常勝を掲げる彼らの隣で胸を張っていられるだろう。小夜子は酷く己を恥じた。自分は彼女のように強くあれないのに、そんな彼女を目障りだなんて、そんな風に思う資格は小夜子にはない。あの時彼女がどんなに強い人なのかを身に染みて分かったからこそ、今も小夜子がここでマネージャーをやっていると言っても過言ではなかった。部員達もファンクラブに対して牽制してくれたり心配してくれたりしたから、何もだけが彼女を支えていた訳ではない。それでも、小夜子にとっては尊敬する人物だったのだ。そして同時に彼女の姿に励まされたのである。彼女があんな風に自信を持って振る舞っているのだから、私もそう在っていいのだと。そう振る舞って良いのだと。


 して今回、青学のマネージャーとしてが合宿に姿を見せ、一緒に業務に励む機会を得た。その事実を知ったのは、実は幸村や赤也が彼女の存在に気付く以前のことである。青学のコートの方に用事があったため、そちらへ赴いた時にばったり会ったのだ。その時のの驚きようといったらそれは凄いものだった。何やら、彼女はこの合宿が立海との合同であることを知らなかったらしいのだ。が混乱している一方で、小夜子はかなりドキドキしていた。何せ、と話をしたのはこのときが初めてだったのだ。もっと話したいのは山々だったけれど小夜子にも仕事がある。また後で、と名残惜しく思いながらもその時は別れたのだが、一日目の練習が終わって翌日のミーティングまで自由時間となった今、小夜子はの部屋の前でその扉と睨めっこをしていた。女子だからという配慮だろうか、と小夜子の部屋は3階で丁度隣同士となっていたのだ。そんな彼女の手には洗面道具と着替え。そう、小夜子は今、をどうにかしてお風呂に誘えないかと考えているのであった。
 柳の話では基本的には誰にでも友好的だし、小夜子が仮に彼女を風呂に誘ったとしても断られる確率はかなり低いとのお墨付きをもらっている。だから早く誘えば良いものを、若干憧れを拗らせてしまった節があるためこうしてお誘いをするのにも勇気が要る。息を吸って吐いて、やっとノックしようとした矢先に、突然扉がガチャリと開いた。真正面に居た小夜子は当然、その扉にごんっと頭をぶつける。

「えっ、えっ!? 八木さん!? ごめんね居るの知らなかった、大丈夫!?」
「だっ……大丈夫、だよ!」

 完全に不意打ちで額に食らった小夜子が思わずしゃがみ込めば、頭上からの焦った声が降ってきた。大丈夫、と笑みを向けようとふっと顔を上げたところで、眼前にしゃがみ込んだの心配そうな顔が広がる。それに驚いて固まっていると、瘤出来てない? と手を伸ばしてそっと額に当てている小夜子の手に触れた。急に近付かれたことにテンパって小夜子は声をひっくり返しながらも口を開く。

「だっ、大丈夫大丈夫、私頑丈なのが取り柄だから!」
「でも瘤出来てたら冷やした方が良いし。あれ、もしかしてお風呂行く途中だった? うわ本当ごめんね」
「えっ違くて、いや違わないんだけど、その、さんと一緒にお風呂行こうと思って誘おうとして部屋の前に居たけど中々声かけられないでいたからそれで!」

 これ以上に謝られる訳にはいかないと必死になってそう言い募れば、はきょとりと目を瞬かせてからふと笑った。それはごめんね、いつでも誘ってくれて良いから。ゆっくり立たせてくれるに言葉なく頷いて、ここでやっと、小夜子はを「一緒にお風呂行こう!」と誘うことが出来たのである。



さんは、新君のお姉さんなんだっけ?」
「うん、そうだよ。部活での新は、どう? ちゃんとやってる?」
「やってるやってる! すっごく真面目だよ」

 浴室は、これが合宿所の浴室なのかと思わず疑ってしまう程に広く、よく整備されていた。しかしこれが跡部の息のかかった施設なのだと思うとそれにも納得がいってしまうのだから、つくづく跡部景吾という人間は恐ろしい人間だと小夜子は常々思っている。が跡部のことを知っているのかは分からないが、ここの浴室を見た時にぎょっとしたような顔をしていたので、きっと彼女も小夜子同様驚いているのだろう。
 そっか、良かった、と笑ったをじいと見つめていたい衝動に駆られながらもなんとか抑えて、小夜子は更に何か話題はないものだろうかと探す。そこで一つあることに気が付いて、そのことについてに尋ねてみようと考えた。

「そう言えばさん、よく私の名前すぐに分かったね」
「ええ? ああうん、でも八木さんも私の名前知ってたでしょ」
「それはだって、さん有名だし。あっ、何か変な意味じゃないよ! ただ純粋に覚えてるなんて凄いなって思っただけで! というかいつだったか柳が、さんは立海の生徒全員の名前が言えるとか何とか言っててね?」

 どうにも相手だと緊張が先走ってしまうらしく、口から出た言葉も何処か言い訳じみたものになってしまった。事実言い訳なのだが。は小夜子の言葉にああ、と苦笑いを零すと、「別に凄い訳じゃないよ」と首を振った。彼女の口ぶりからすると矢張り、彼女は立海の生徒全員の名前を覚えているということなのだろうか。柳もデータを集める過程で名前を把握しているのは知っているが、柳の友人ともなると皆が人の名前を覚えているというのがデフォルトなのだろうか。どちらにせよ凄いことには変わりないのだからそう謙虚にならなくともいいのに、と思っていると、やっぱり彼女は苦い顔のまま「私のはほら、何というか、腹が立ったからというか」と続ける。

「腹が立った?」
「相手は自分のことを知っていても自分は相手を知らないっていう状況が、あまりにも公平さに欠けてるって言うの? そういうのが気に食わなくて」

 思わずまじまじとの顔を見つめてしまった。だからそんな凄いことではないよ、と言葉を締めたではあったが、と言うより確かに凄いことにはやっぱり変わりないのだが、気に食わないとか腹が立っただとかそういう表現がどうにも今の彼女の印象と結びつかなくて心中では驚き半分面白さ半分と言った様相を呈している。彼女でもそういう風に思うことがあるのだなあ、と思うと、彼女をぐっと近くに感じられる様な気がする。そして気に食わなかったからそれで生徒全員の顔と名前を一致させているというその動機を、理解した途端に無性に笑いが込み上げてくる。つまり彼女は負けず嫌いということなのだろうか。直接そう聞くと、「そうだよ」と少し照れた風に、小夜子の視線から逃れるが如く顔を逸らした。

「そうだ、この合宿の話っていつ頃から決まってたの?」
「えーっとね、一ヶ月前にはもう決まってたし、その時に部員にも周知されてたと思ったよ」
「一ヶ月も前……?」

 水面はゆらゆらと水面に照明の光を反射させる。並んで湯船に浸かりながら、浴室に声を響かせつつそれなりに弾んでいる会話を続けていくと、不意にが考え込んだ。その横顔を眺めながら、小夜子は首を傾げる。何かしたの、と尋ねると、はうーんとね、と天井を見上げながら言葉を探した。話を聞いてみると、いつもならば家の関係で新は部活の合宿がある時にはきちんとに断りや連絡を入れるらしいのだが、今回についてはそれが皆無だったのだという。しかも今回彼女がここに来たことも、今日の朝青学の不二にいきなり連れて来られたからなのだとか。何だか疲れたような顔をしているなとは思ったけれど、よもやそんなことがあったとは思いもしなかった。何も教えられずに連れてこられるだなんて小夜子だったら間違いなく憤慨しているだろうから、が今こうして冷静に話しているのを見て感心する。そのままの気持ちをに伝えれば、はそんなことないよと言いつつ笑ってみせた。

「結構これでも怒ってるんだよ、何も納得してないし。お風呂から出たら後で新を問い詰めないとね」

 そろそろ出るね、とが立ち上がるので、小夜子も慌ててそれに続く。その後ろ姿を見ていて、いつも見ていた彼女と何かが違う、その理由に気が付いた。ああ、彼女が髪を切ったからだ。彼女の象徴であるツインテールがなくなってしまったからこんなにも変な感じがするのか。そういえばさっき彼女の顔が今までで一番近くにあった時も、雰囲気というか印象が違って見えた。これまでは彼女に対して可愛い人というイメージが強かったのだが、あの瞬間に小夜子が頭に浮かんだ言葉は正反対の「何だか格好いい」だったのだ。やっぱり見た目って結構大事なのかもしれない。そんなことを思いながら、小夜子とは浴室を後にした。

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