0-10 恐らくは知らないままで


「あれ、委員長はテニスにしたんでしょ?」
「……ん?」

 聞き捨てならない言葉を耳にしたのは、やたらと濃い合宿を終えた次の日、つまり登校日のことだった
 今年はバレーにしようと決めていて、事実クラスの話し合いでもそれで決定して。球技大会前一週間の体育の時間は種目の練習になるからと、体育館に居るバレーのチームの所へ向かった矢先に投げかけられた言葉が、それだった。まったく何を言っているのか分からない。私は確かに、バレーボールを出場種目として選択した筈だ。私にそう言ったクラスの女子と鏡のように首を傾げあっていると、ついと彼女の視線が私の背後へと動く。どうかしたのかと尋ねるよりも先に、背後に来たらしい彼は、ぽんと私の肩に手を置いた。

、お前は俺とテニスでダブルスだ」

 ん? と先程も浮かべた疑問をそのままに振り向くと、合宿の前後で変化は無いように見られる柳と対面することとなる。柳は彼女へと「すまないな」と声をかけると、私の背を押して何処かへと向かわせる。半ば強引に。
 一見して、柳の様子には変化がないように思えるけれど、それは他の人に対してだけであって、彼の私に対する態度は明らかに軟化した。というか、雑になったというか、兎も角そんな風に思えるのである。ぐいぐい来ると言えば良いのだろうか。以前なら柳は最大限私の意見を尊重して深く踏み入ってくることはなかったし、私自身それに甘えていた自覚はある。ではそんな彼が何故突然私に対する態度を変えたのだろうかと考えると、十中八九先の合宿の件が関連しているのだろう。柳は中高で築いた人間関係の中でも一番近しい存在で、だからこそ今回の件だけでなく様々な場面で彼に助言を求めたこともあったが、ここまで深い所について言葉を交わしたのは初めてだった。もしかすると、それで私達の関係は少し変わったのかもしれない。そんな風にも思う。
 とは言え、このまま説明がないのも困る。私は確かにバレーボールを選択した、これを決めた当時、私はテニスをしようだなんて一切思っていなかった。だからこそこれらの発言は不可思議極まりない。そしてまるで謀ったかのように私を迎えに来た柳は怪しさ満点である。いや、謀ったかのように、ではない。恐らくこれは、彼が何かしら手を加えたのだろう。そうは思いつつも一体これはどういうことかと問いかければ、未だ背を押す柳は悪びれることもなく「球技大会の種目は言葉通りテニスにしておいた」とかなんとか言い放った。よくよく話を聞くと、彼は私がバレーボールに決定したその直後私の種目をテニスに変えていたのだとか。それじゃあ元々テニスを選択していた人はどうなんだ。柳はそんな問いすら予想していたようで、ちゃんと説得して変わってもらった、それはクラス全員が知っていることだと何でもなさそうに言ってのけた。……何をしたのかは、聞かないことにした。

「ええっと、つまり、柳は私が新とテニスをしないかもしれないという可能性を見出していたってこと? それを予期して手を回してた?」
「そうとも言えるな。しない確率は極めて低かったが」

 柳が何を考えているかはよく分からなかったけれど、柳はこれで良かったのだろうか。何だかんだ言って彼も毎年の球技大会を楽しみにしていた筈だ。その彼が、そもそも使えるのかどうかも分からなかった私をダブルスのパートナーにするというのは、如何なものだろうかと思ってしまうのである。確かに球技大会におけるテニスは混合ダブルスだから私と柳の組み合わせは何一つ規則を破っていない。それでも、何故私なのだろうかと思ってしまう。

「それもそうだけど、私の手、これだよ。まめ潰したよ」
「本番までにはましになるだろう」

 柳の目の前で包帯の巻いてある手をひらひらと振れば、そんなにべもない返事が帰ってきて驚愕する。これは本当に柳なのだろうか。実は仁王君のイリュージョンでしたみたいな落ちではなかろうか。表情に出ていたのか、柳はすかさず「俺は仁王ではないぞ」と否定の言葉を口にする。
 連行されてきたのはやっぱりテニスコート。普段放課後テニス部が使っているコートは流石と言うべきかかなりの良い設備だ。既に練習を始めている他のクラスメイト達に声をかけられながら、ベンチに座らされる。どうにも今日はまだラケットを振らせてはくれないらしい。柳はさっさと他のチームと打ち合いをはじめているし。その様子を眺めながら、未だ蟠りを胸に一先ずはと足を組んで様子を見守る。
 柳のフォームも、矢張り綺麗だと思う。言い表すならば、流麗、とでも言おうか。膝の上に頬杖をつきながら唸らずにはいられない。けれどこうして彼のフォームを美しいとは思っても、あの日幸村君のテニスを見た時ほどに心高ぶらないのは何故なのだろう。単に強さの差、とそう言ってしまえばそうなのかもしれないけれど。はあ、という溜息は、インパクト音に容易に紛れてゆく。
結局、幸村君とテニスを切り離してみることも、やっぱり難しい。分かってはいたけど、そう感じざるを得なかった。テニスをすることに対する区切りはついたけれど、幸村君に対してのそれは容易じゃないのだ。つい昨日、巡らせた思考について思い返しながら目を細める。

私が誰かに、この場合幸村君の眼中に入る――「愛される」のを恐れてその好意を避けたのは事実。でも彼と深く関わることで結果的にテニスを諦めきれなくなるのもまた、怖かった。だからこそ余計に彼に深く踏み込むことが出来なかった。テニスそのものが彼だったし、彼そのものが、テニスだった。故に一層自分に厳しく、常に自分を律していなければ、すぐにでも逸脱してしまいそうだった。ふとすればテニスの方に向かってしまいそうで。苦しいことは苦しいままでいなければ、気を抜いた瞬間直ぐに溢れ出してしまうから。
テニスが出来ない事の代替として彼の応援をしていたのも、考えてみればその一つなのかもしれない。応援したかったのは本当だけど、出来ない事の代わりにしていたのは事実。
そこで、柳の口にしていた「睨み付けていたぞ、幸村のことを」という言葉が脳裏を過ぎる。その言葉が、何を表しているのか。
あの言葉が正しいとして。本当はテニスがしたかったのに、テニスをしている幸村を見ているのが酷く憎たらしかったのに、私もそこでテニスがしたかったのに、彼を素晴らしいと思い込むことで意識をすり替えようとしていたのだとしたら。
そしてもし、柳がここに至ることを予期した上で、私の種目を変更したのだとしたら。

「――本当敵に回したくないよ、柳」

 

 光陰矢の如し。まさしくその言葉通りに、あっという間に球技大会までの一週間は過ぎていった。その間、何故か幸村君は私に話しかけてくることもなく、逆に私が彼に話しかけることもなく、なんとも違和感の付き纏う一週間だったと思う。私の方は別に避けていたつもりもないのだけど、自分から会いに行くこともなかった。もし私が幸村君のことを知らなかったらこんな学校生活を送っていた未来もあったのかもしれない。そんな風に思う。
 しかしなあ。休日返上で行われる球技大会、その開会式での挨拶を右から左へと聞き流しながら僅かばかり眉を顰める。どうしても考えてしまうのは幸村君のことだ。逃がすつもりはない、とか言っておきながら、今こうして何の接触もしてこないのは一体何なのだろう。遊ばせているとでもいうのか。翻弄しているつもりなのだろうか。何だかもどかしくて苛々する。――と、ここまで考えてふと我に返った。いや、私は今、一体何を考えていた。これじゃあまるで幸村君に拘束されることを望んでいるかのようなものだ。溜息を吐きそうになって、慌てて飲み込んだ。今周囲には沢山の生徒がいるのに、突然溜息なんて吐いたら何かと思われる。
 高校も最後の球技大会なだけあって、3年は他学年に比べると気合い十分といった様子が見て取れる。私達のクラスだってそうだ。そんな中で私は溜息なんて吐けない。私だって、これが順当に進んでいればこんなに憂鬱になることもなかったし、どちらかと言えば盛り上げていく側に回らなければいけないのに、どうにも気分が上がっていかない。そもそもこの一週間絶不調と言っても良い。合宿の反動だろうか。疲れてるだけならなんとかできるからいいものを、今回はそうでもないから困ったものだ。

、行くぞ」
「あ、うん」

 ぼんやりしていたところをまた背後に回っていた柳によって背を押され、持参してきたラケットを手にコートへと歩を進める。実質柳と練習が出来たのは二日間しかなかったけど、流石は柳と言えば良いのか、彼は非常にサポートが上手かった。彼曰く、新との試合で粗方のデータは取り終えているそうな。普通に怖いと思いはしたもののそれでなかなかうまくダブルスが出来ているのだから、気にしないようにするのが一番なのだと思う。
 それが功を奏したか、かなりいい調子で私と柳のペアは勝利を収めていったし、同じチームの他のペアも順調に勝ち進んでいった。しかし上位に上がれば上がるほどに当然強い相手と当たるようになる。それでも何とか勝ち進んでゆく中、準決勝と決勝を残して、昼食の時間になった。他の女子と昼食をとっても良かったのだけど、何となく、柳に話しておかなければならないことがあるような気がして、彼をお昼ご飯に誘う。どちらもお弁当持参だったため、特に場所を選ぶことなく、テニス部の部室の裏である人気の無い日陰に腰を落ち着けることになった。話は、今までの試合の反省点や次の作戦についてと移り、そして準決勝で当たるであろう相手の話へと辿り着く。

「柳がここで私にテニスをさせようと思ったのはさあ、幸村君と私にテニスをさせるため?」

幸村君達のペアはどちらもテニス部だ。確実に勝ちにきている。加えて経験者も居たはずだ。そんな彼らのいるクラス、つまるところチームが次の対戦相手。やっとその段に至って問いかけると、既に昼食を食べ終えていた柳は目を落としていたデータノートから顔を上げた。じっと見つめ続けていると、ややあって柳は小さく口を開いた。

「半分は正解だ」
「半分? ならもう半分は何なの?」
「お前は何だと思う」

 質問を質問で返すな、と言いたい所をぐっと堪えて一応考えてみる。取りあえず、何らかの意図があって柳は私と幸村君を対戦させたかったらしい。それ以外に柳が私をテニスに推した理由。真面目に考えてみてもどれもこれもいまいちピンとこない。このまま降参するのも少し腹が立ったため、少々投げやりにではあるけれど「柳が私とテニスがしたかったから、とか?」と尋ねてみる。すると、一瞬柳の目が見開かれた。

「ええー図星」
「まさか最初から答えを導き出すとはな」

 何やら新たにノートに書き込んでいるが、こんなデータを取って一体何に使うんだろうか。よく分からないけどいつか使うんだろう。そのよく分からないデータの集まりがこうして上手い具合にテニスで勝ち進めている大事な要素なのだから。

「まあ、それはそれとして。幸村君と私にテニスをさせようと思ったのは、何で? もしかして、幸村君がこの一週間私に話しかけてこなかったのと何か関係がある?」
「それについては、お前が尋ねてくる確率97%だった。……少し予想より遅かったが」

 ぱたりとノートを閉じた柳は、ふっと息を吐いた。

「この一週間、何を考えた?」
「何をとは」
「テニスのことは答えが出たと言っていたな。なら、幸村のことはどうなんだ」

 この返しをどこかで予想していたとはいっても、実際切り返されると閉口する。幸村君について何を考えたか。改めて反芻して、笑い出したくなった。驚くほどに幸村君のことばかり考えていたから。

「柳は、私が幸村君とテニスがしたいと思ってるって考えた?」

 質問を質問で返してきた柳だ。私が質問で返したって良いだろう。そう思って問い返してみれば、怪訝そうな顔をしたまま、それでもしっかりと肯定する。その肯定を確認して、やっと食べ終えて空になった弁当箱に蓋をした。

「そう。多分私はずっと、幸村君とテニスがしたかったんだと思う」

 テニスというものを受け入れてから、かなり幸村君を受け入れようという感情は生まれてきているのは自覚していた。幸村君とテニスが切り離せないけれど、切り離せないなりにそれは上手く転んだと思う。それでも尚、未だに怖い。今でも怖いし、怖かったのに、それでも幸村君に関わり続けてきた理由は何だったのだろう。
「幸村とテニスがしたい」と、それは紛れもない事実なのだ。けど彼はあの日、自分ではない誰かに負けてしまった。自分が彼に勝てるとは思わなくても彼は誰にも負けないと思っていたから、衝撃的だった。彼は神の子と言われていたけれど、私にとって彼は神の子じゃなくて、神様そのものだったから。
そして彼が負けたあの日、私は彼が神様なんかじゃなかったことを知ることとなった。
 それでもずっとテニスを諦めたかったのは、テニスと幸村君が密接に繋がっていたから。深入りしたら何一つ諦められなくなるから。でも、本当にそうなのか、本当は逆じゃないの? ずっと、幸村君を諦めるためにテニスを諦めなければならなかったんじゃないの。だとしたら――だとしたら。多分、辻褄があう。

 だからそう、諦められないことが怖かったのは、幸村君の方。

「幸村君のことさ、考えたんだよ。そうしたらさ、必然、考えなきゃいけないことがもう少しあって」
「もう少し? テニスのことではないのか」
「うん。そうじゃないんだよ」

 よいしょ、と声を上げながら立ち上がる。上から見下ろす柳の顔は怪訝だ。いつも柳には見下ろされてばかりで。ただ見る位置が変わったからとはいえ、何かが変わることはない。それでも、何となく、彼との関係性はこの一ヶ月ほどで変化があったのではないかと、そう思って。

「行こう柳」

 折角柳が準備してくれた舞台。それをふいにする訳にはいかないから。
私は今できる精一杯の感謝と、嬉しさを胸に口角を上げる。柳は私の顔をじっと見つめて、本当に何かを堪えるような顔をした後に立ち上がる。瞬きの間の出来事で、しかもそれがなかったかのように振る舞うものだから。私は、よく分からないながらもゆるく拳を掲げる柳に自分のそれをとん、と当てた。

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