1-0 私があなたを愛しますように


 テニスコートは、緊張感で満ちていた。それが王者と呼ばれた立海のテニス部の練習風景ならば、納得も出来ただろう。しかし、これはあくまでも学校行事の一環だ。幾らテニス部が混じっているといえども、これほどまでの緊迫感は過去にも類を見なかった。
 ……これまで球技大会でテニスを選択したことがないから、決して断言はできないけれど。それでも、この空気が異常だというのは肌で感じていた。
 原因は恐らく、今コートに入ってきた人物、幸村精市と。自惚れでないなら、私自身、ということになるのだろう。好き好んでなったつもりではないが、ある種時の人となってしまっている今、注目を浴びてしまうのは避けられない。
 一体何が起こるのか。フェンスを囲む生徒たちのそんな視線をひしひしと感じながら、グリップの感触を確かめる。
 球技大会、テニス選択者の、準決勝。誰かの喉ごくりと鳴ったのを、どこか遠くで感じた。幸村君がネットの手前までやってくる。サーバーを決めるのだろう。コートの端で立ち止まっていた私の背を、柳が押した。
 
「まさかさんとテニスをすることになるなんて、思わなかったな」
「そうだね。私も、つい最近までそう思ってたよ」

 もしかしたら、今もそう思っている。ネットを挟んで行われるまるで現実感のないやりとり。幸村君とペアを組んでいる女子生徒が、様子を窺うように上目遣いに私たちを見つめるも、特に口を挟んでは来なかった。にこにこと笑んでいた幸村君の視線が、ついと私の隣に移る。

「柳が、さんの種目変更したんだって聞いたけど」
「最善だとおもったからだ。事後承諾だったが」
「へえ、そうなんだ。さんよく怒らなかったね」

 揶揄するような響きに、柳は沈黙を以て応えた。
 
 試合開始前のトスを終えて、それぞれの定位置につく。サーバーは柳だ。彼がボールをバウンドさせる音を聞きながら、相手のコートを見据える。コートを挟んだ向こう側に、悠然と構える幸村君が見える。
 不思議な心地だった。あんなにも彼を避けていたのに、今は驚くほどに拒絶心が湧いてこない。合宿中に彼と向き合って話したからなのか、手塚君や新君とのテニスを経たからなのかは分からない。それどころか、昂りさえ覚える。
 この感情を私は知っている。この感情を私は覚えている。これは、これが──幸村君をコートで見た、あの時の。



 突然、わあっと音が戻ってきた。経っているのか座っているのかもわからない。感覚がない。それから徐々に、視界が戻ってくる。はっ、はっ、と自分の荒い息を耳にしながら、顔を上げた。どうやら、膝をつくのだけは避けられたらしい。それでも、スコアの結果は歴然だった。
 勝てなかった。幸村君に、全然、適わない。でも戦えたことがすごく嬉しくて、負けたけど清々しくて。はは、と笑ったら、その拍子に涙がこぼれ落ちた。いつの間にか泣いていたらしい。けれど恥ずかしくなんてなかったし、疚しくもなかった。本当に、これは、悲しさからや辛さからくる涙じゃなかったから。負けたのは悔しい。でも、悔しいけど嬉しいのは、変えようのない事実だから。
 そう、私は今、こんなにも。全身が歓喜で震えている。この高揚に体が追い付いてない。

 結局──私は、幸村君と一番好きなテニスで関わり合うことが出来なかったことが、ずっと心残りだった。それに気づけなかったから、惰性で今日まで彼と自分を振り回し続けていた。でも、このたった一回の試合で、今まで考え込んでありったけ悩んでいたことが、どうでも良くなってしまった。ハイな状態とでも言うべきか。

「やっぱり、幸村君は、すごいなあ……っ」

 グリップを握りしめる。今、私はテニスをしていたんだ。諦めようと必死になって、諦めたからと遠ざけて、諦めたからやろうとしなかった、テニスを。テニスを、幸村君と、していたんだ。なんだか、夢みたい。

「夢なんかじゃないよ」

 口から出ていたのか。はっとして声のした方を見やれば、首にタオルを巻いた幸村君がネットを迂回して此方側に歩いてくる。体調、どう? と心配そうな声には、苦笑いで返した。知識としては知っていたけど、「五感を奪われる」とはこういうことなのか。立っていられたことが不思議だ。けど、恐怖はあまりなかった。恐怖よりも、今この状況からどう動くかを考えるのに必死だったから。
 誰かが幸村君を呼ぶ声が聞こえる。きっと次の決勝戦の話だろう。いつまでも引き留めてはいけない、とコートを出たところで、幸村君が先ほどから一向に動いていないことに気づく。

「幸村君、呼ばれてるけど」
「まだ、ちゃんと答えを聞いてない」

 立ち止まる。幸村君はじっと私の行動を見ている。まるで、一瞬も見逃さないとばかりに。

「君は、先にテニスに決着を付けるから待って欲しいと言った。俺にはその言葉の意味が分からなかったから、柳に聞いたよ」

 まあ柳も教えてくれなかったけど、と不貞腐れる幸村君に、目を瞬かせる。何だろう。彼の表情が新鮮だった。

「薄々、分かってきてたんだけどさ。さんって俺よりテニスが……いや、テニスをしてる俺が好きなんだろう?」

 矢鱈と自信満々に言ってくる幸村君に、絶句した。今の会話が聞こえていたらしい近くの生徒がきゃあと悲鳴じみた何かを上げる。いや、きゃあじゃないです。私今、きゃあじゃないです。ちょっと落ち着きたい。
 確かに、幸村君の言っていることは正しい。答えを聞いていないと言ってきた本人が、一番正しい答えを突き付けてくるってなんなんだろう。幸村君が私を認識するようになってから分かってはいたけど、幸村君の行動があまりにも予想の斜め上をいって戸惑いを覚える。こんな自由な人とテニス部のみんなは過ごしていたのか。第三者の視点と当事者の視点では、感じるものが全然違うのだと痛感する。
 なかなか返事をしない私に痺れを切らしたのか、幸村君は「ああもう」と首の後ろをかくと、突然私の近くまでやってきて、腕をつかんできた。いやだから、きゃあじゃないんです。
 場所を変えよう、と小声で囁かれて手を引かれる。私の意思は聞いていないらしい。確かにこのままここで話を続けられても、周囲の目が痛い。判断としては正しいのかもしれないけど、何でこう、明らかに邪推されるタイミングで移動開始しちゃうかな。

「幸村君、決勝戦は」
「話が終わったらすぐに行くよ」

 それは手短に話せっていうことなのだろうか。いや、きっとそうなのだろう。
 好機の目から逃れた先は、中庭にある花壇の近くだった。生徒たちは校庭に集まっているからか、此処に人の気配はない。彼がよく手入れをしている花壇は、季節に応じて様々な花を咲かせている。今も例に漏れず、色とりどりの花が咲いていた。
 やっと立ち止まって、そっと手を離される。語らなくとも、彼の瞳は雄弁に話を促していた。ここまで来て話さない、という選択肢は残っていないのだろう。

「昔、テニスをやってた」

 私がそう口にすると、幸村君は「不二が言ってた」と頷く。周助にはあとで個人的に文句を言ってやらねばならないと心に決めつつ、言葉を続ける。

「でも、テニスを続けられなくて、やめちゃってね。そんな時に、テニスをする幸村君を見た。その時からずっと、私は幸村君のことを、神様みたいだって思ってた」

 テニスの神様。あらゆる憧憬を集めた至高の人。私にとって幸村君はそんな人で、テニスといえば幸村君。幸村君といえばテニス。そんな認識だった。けれどそう思えば思うほど、彼に、テニスに惹きつけられてしまった。私はテニスを諦めようとしてたのに。

「でも、結局諦められなかった。……テニスを、諦めたくなかった」
「そうだね。テニスを諦めたくない、っていう気持ちは、俺も分かるつもりだよ」

 闘病中のことを言っているのだろうか。幸村君はいつか病院で見た横顔のように、儚げに微笑む。けれどそれは直ぐに、凛とした表情へと変わる。

「けど、俺は諦められなかった。全てを失くすかもしれなかったけど、俺は一つも諦められなかった」

 幸村君の握られた拳に視線を落としながら、思う。私と一緒だ。テニスへの飽くなき執着。いや、彼と私の状況を思えば、一緒だというのは烏滸がましいかもしれない。少なくとも、彼のそれはどこまでも前向きだ。私のような逃避を伴うものとは違う。

さんがこうしてまたテニスをしてるってことはさ。もう、テニスを諦めなくてもいいんだろう?」
「うん」
「じゃあ、思う存分やればいい。好きなんだから、途中で取りこぼしてきたものだって、全部手に入れればいい。……少なくとも俺は、そうやって生きてる」

 なんて傲慢。なんて強欲。あっさりと言ってのけた幸村に唖然としたつもりが、零れたのは「はは」という笑いだった。
 事実彼はそうやって沢山のものを手に入れてきたのだろう。簡単に言ってくれる、そう憤慨出来たら良かったのかもしれない。けれど、そうやって乗り越えて立つ姿は、やっぱり、眩しい。

「幸村君らしいよ。でも、うん……きっと、そうなんだよね」

 手に入れられた筈のものを恐れて、遠ざけたのは私だ。再び失うことを恐れて、手を伸ばさなかったのも、私だ。全てを掴む自信がなかった。──誰かを、信じる勇気がなかった。だから叶うなら、私もまた幸村君のように、もっと強欲に、傲慢に生きてみたい。
 これがきっと機転。そして今、口から出る言葉は紛れもない本心だ。

「幸村君。次は、必ず、負かすから」

 幸村君はきょとんと眼を丸くすると、言葉の意味を理解したのかブハッと噴出した。

「っはは! やってみせてよ」

 いつだって、俺は君の前に立っているからさ。
 不敵に笑ってみせた顔に、ぞわりと総毛立つ。ああ、きっと私はこれが欲しかった。これが見たかった。こうしたかった。この人に、選手としての「私」も見てほしかった。踏み出してみれば、こんなにも容易く、こんなにも世界は鮮やかだったのか。

「待つよ、いつまでも。君が俺を追いかけてくれる限り、ずっと待ってるから。……俺を待たせることが出来る人間は限られてるんだからね?」

 おどけたように肩を竦める幸村君に、自然と笑みが零れる。それを見た幸村君もまた、穏やかに微笑んだ。
 かつての私が向けられたことのなかった笑み。その瞳の奥、優しさの他に何かの色を見た気がして、少しだけ視線を逸らした。どうも彼と向き合って話すのは、少しだけまだ怖いみたいだ。なんというか、その視線の色に慣れない。でもその怖さの中、徐々に別の熱が生まれてきているのを感じた。

「ありがとう、 幸村、君。それと……ごめんなさい、今まで」
「もう、いいよ。そういう君に支えられていたのは確かだから。だけど、そうだな」

 いったい何を言うつもりなのか。幸村君は口元に手を当てうーんと唸る。そして手を下すと、困ったように笑ってみせる。

「テニスをしてる俺、だけじゃなくて。俺のこと、好きになってほしい。俺は、さんが好きだから」

 流石に少し照れ臭かったのだろうか。まじまじと彼の表情を確認するより先に、幸村君はこちらに背を向けて歩き出す。確かに、もうそろそろコートに戻らないといけないだろう。
 ジャージを翻して先を歩く後姿を見つめながら、思わず笑みが浮かんだ。
 ちゃんと、この人と向き合いたい。そして、この人を、愛したい。
 遅すぎる? そうかもしれない。でも私はさっき決意したばかりだ。途中で取りこぼしたものだって、これから幾らでも拾いながら歩いてみせる。今すぐには、彼の言葉に返せなくても。いつか必ず、「幸村精市」に辿り着く。


 そう、これまでの私を終わらせたのが彼のテニスなら。次の一歩もまた──彼のテニスから、始まるのだから。


≪end≫

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