0-9 逃避、からの回帰

 意識して何かを行う。難しいようで、それは誰もが何処かしらで行っていることだと思う。思うがままに生きることは、それが出来ればとても素晴らしいことだと思うけれど、実際には年を経るにつれて困難になってゆくもので。思うがままにするためには、何かしらの代償が必要となるのではないか。代償は人それぞれ。だからこそ苦心する。何かをするために、何かを諦める。私にとっては取捨選択が人生だ。
 けれど世界は一人ではまわらない。色んな人がいて、色んな人と関わって、そうしている内に予想外の展開が起こるなんて――うまくいかない、なんて。そんなの、当然のことだった。全部思うままに、なんてならないのだから。

 ぎゅっ、と靴紐を結んで立ち上がる。不思議と夜はよく眠れた。外は今日も快晴。絶好の運動日和だ。目に痛い程眩しい太陽が憎らしい。目を細めて振り返ると、私を呼んだ新がラケットを手に立っていた。二本。一本は私に持ってきたのだろうか。
 周囲がざわついているのを感じながら、私は新からそのラケットを受け取る。事情を知っているのはほんの一部でしかないが、その知っているのが中枢部分を担う人々だったからかもしれない。静観を決め込む手塚君と周助、立海では柳がある種ストッパーとでもなっているのか。試合を始めていない部員達が訝しげに見つめる中、私と新は丁度青学側と立海側の中間となるコートを使用することになった。何故マネージャーが立海の1年と試合をしようとしているかなんて、今事実に直面している私でさえ可笑しな話だと思う。本当に此処で試合をしなければならないのだろうか、なんて疑問も頭を擡げるも、もう今更だ。
 結局、ここでの私は部外者に過ぎない。幸村君のお見舞いに行った時も感じたけれど、それと似たようなものを感じ取っていた。コートに立つだけでそれをひしひしと感じる。視線が痛い、それでも、此処に立つことで突き上げる何かが私の中にあるのも確かなこと。心臓の音が耳の中で反響する。ああ、これは、プレッシャーだ。段々とざわめきが遠くに聞こえるのを感じながら、ネット越しに新と対面し、審判が席に着くのを待つ。今回審判をするのは、なんと周助らしい。他の1年生にさせることだって出来た筈なのに態々自ら審判を申し出る辺り、良い性格をしている。しかも「、今の気持ちは?」なんて煽ってくるのだから、私はやっぱりこれを殴っても良いと思う。

「どいつもこいつも、最高に気に食わないよ」

 それでも満面の笑みでそう言ってやれば、周助には予想外だったようで目を見開かれた。一本取れたようで気分が良い。1セットマッチ。サーブは新からになった。

 私は、テニスをしている幸村君を見て、睨み付けていたという。そんな自覚は全くなかった。いつも通り、苦しさを覚えながら、それでも素晴らしいと感じ入ってしまっていただけだ。彼のテニスに対して睨み付けるだなんて、そんなこと。けれど柳がそんな嘘を吐くとは思えなくて。だとすると、私は幸村君のテニスに、本当は敵意を覚えていたのだろうか。彼のテニスを見て苦しくて仕方なかったのは、彼のテニスが、羨ましかったからだろうか。新がボールを高く上げる。本当は、苦しかったのに、素晴らしいと思うことで、すり替えたかったのだろうか。
 インパクト音がしたと思うと、新のサーブは強烈な速度で私の真横を通り過ぎていった。全く、反応することが出来なかった。辛うじて目で認識することが出来たけれど、それも一瞬だ。そう言えば新がどういうタイプのプレイヤーなのか私は知らない。しかしこの短期間ではあるものの他の選手達の練習風景を見てきたことから考えても、新のサーブはかなり早い。また、トスが上がる。再び突き刺さるようなサーブが抜き去っていって、ちらと背後を確認した。さっきと今と、狙っている位置はそうギリギリではない。再び新のサーブ。ぐっと膝が曲がり、新の足が地面から離れる。しなやかな全身の反りを、見続けていては――見とれていては、サーブは取れない。

「フォルト!」

 バスッとネットに阻まれて此方まで来なかったボールは、コロコロとその下で転がった。新に動揺した様子はない。持ち上げられたラケットにボールが当たる瞬間を目にした時には、既に体は動いていた。スイングするものの、返したボールはこれもネットにぶち当たって入らない。次の新のサーブも結果は同じで、最初のゲームは1ポイントも取れないままに終わる。サーバーが入れ替わり、私からとなる。ふっと顔を上げて向こうの方のコートを見ると、見たことがない真剣な瞳の新と目が合う。
 ああ、熱い。立っているだけで顎を汗が伝ってゆく。その筈が何故か寒気がして、体が震えた。あれ、おかしいな。やっぱり体は小刻みに震える。ボールを持つ手が覚束なくて、ぎゅうと思い切り握りしめた。深呼吸を一つして、もう一度相手コートを見据える。そうだ、何を勘違いしていたんだろう。今私が相手をしているのは、私がテニスから離れていた間、ほぼ毎日テニスをしていた人だ。何を暢気に構えていたんだろう。あれは、あれは弟じゃない。弟じゃなくて、テニスの、選手だ。
 そう自覚すると、途端に震えが止まった。

 物心ついた頃から、私はテニスをしていた。何がきっかけで、だったのかは正確には覚えていないけれど、随分昔の写真に、ラケットを持って両親に挟まれている写真を見たことがあったから、あれが最初なのではないかと思っている。まだ父が頻繁に家に帰ってきていた頃の話だ。それからテニスというものに興味をひかれた私は、親に頼んでテニスクラブに通うこととなった。
 別に、それまでがつまらないという訳ではなかったのだろうけど、テニスを始めてから私の視界は大きく変わった。自分の手の中のラケットが、振り方次第であらゆる球に姿を変える力があるというのが、大変興味深かったということもある。ゲームメイクそのものが面白かったことも挙げられるだろう。けれど、何を挙げてみても結局要素でしかなくて、恐らく私にとってのテニスというのは、私の世界そのものだったのだろうと思う。何をしていても四六時中テニスのことばかり考えていて、次は何をしよう、どんなプレイをしたい? それしかないのかと聞かれたら躊躇うことなく頷いていたことだろう。授業中もそれ、ご飯食べててもそれ、寝る前もそれ、テニスしてても、それ。テニスの毎日じゃない、テニスが毎日だ。自分がテニスから離れることになるなんて、全然考えてなかった。考えたことすらなかった。だからこそいざテニスをやめようと思ってやめた時に、思いの外「やめる」ことはすんなり出来たけれどその後が厄介だった。なまじテニスのことばかり考えて生きてきた物だから、体がテニスのことを考えることに慣れすぎて、気が付けばまた、考えている。考えてしまうのが怖くて、考えない為に別のことにのめり込んだ。のめり込めるように、意識を強引に集中させて。
 怖い、怖いって、そればかり。怖ければ逃げて良いのか、なんて、そんな筈もなく。怖い教師がいたとして、それでも私はなんとかやってきたじゃないか。要は如何にして攻略してゆくかだ。怖いから、怖いからって、逃げることは勿論出来る。私にとって何より一番怖いことは、テニスを諦められなくなることだった。でも、もう諦めなければならない理由は、どこにもない。だとしたら――私は、柳が言ったように、テニスを捨てる必要なんてない。
 では何故、私はこんなにもテニスが諦めたかったのか。
 最初からテニスを諦められなくなるのが恐ろしかったということはなかった。今改めて、冷静になって考えた時に、「テニス」を諦められなくなるのが恐ろしい、というのは、おかしなことだ。だから、そうじゃなくて。

「ゲームセット! ウォンバイ新、7-6!」

 周助のコールを境に、一気に音が戻ってきた。ボールの音や土を蹴って走る音はずっと聞こえていたけれど、どうも集中しすぎて他の情報をシャットアウトしていたらしく、いきなりわっと耳に入ってきたそれに驚きを隠せなかった。はっ、はっ、と短く息をして、同様ネットの向こう側で肩を上下させている新を見据える。そうか新が勝ったのか。タイブレークまで、は覚えてる。ああ、私が負けたんだ。何故か拍手が辺りを包み込んでいた。
 ラケットを持つ手とは逆の手で、黙ったまま新と握手を交わす。新は、何を言ったら良いのか言い倦ねているようだった。取りあえず試合は終わったのだからこのままコートを占領している訳にもいかない。そそくさとコートを出ると、矢張り新はまだ何事かを言いたいようで後についてきた。どうやら試合をしていない他の選手はほぼ全員観戦していたらしく、私達の試合が終わると分かると散り散りに去ってゆく。その中で周助は此方に駆け寄ってきて、八木さんが手渡してくれたドリンクとタオルに申し訳なく思いながら受け取っている私の横に立った。

「正直、この暑さじゃあ1セット厳しいんじゃないかって思ってたよ」
「特売を求めて買い物に走る人間を舐めるな……とか格好付けて言いたいけど、しんどかったよ、特に終盤」

 何が面白いのかいつもより楽しそうに話しかけてきた周助を横目に、ドリンクに口をつける。まさかここに来て自分がこのドリンクを飲む側に立つとは思っていなかった。八木さんも八木さんで、「凄かった! さん凄かったよ! タイブレーク!」と顔を赤らめて言ってけれど、どう返せばいいものか分からなくて無難にありがとう位しか言えない。想像以上に喉が渇いたようで、気付けばもらったドリンクを一気飲みしていた。それ程汗を流して運動したということだろうか。それもまあ、納得だ。試合が終わったと自覚してから途端に体が重くなった。これは明日は筋肉痛必至だなと思っていると、ふっと足下に影が落ちる。と思いきや、ぐいと未だラケットを持っている方の腕を引かれた。

「もう隠す必要もないんじゃないか」
「や、なぎ? 何?」
「手だ」

 大して力を込めることもなく、柳は手からラケットを攫っていった。知らず、ラケットを追いかけて、気付いてやめる。それを目敏く見ていたかは知らないけれど、柳はラケットを近くのフェンスに立てかけると、そのまま私の手をくるりとひっくり返して掌が上を向くようにした。うわ、すごいね、と周助が珍しく心配そうに言うのを耳にしながら、私も柳がそうするように自分の掌を見つめる。
 潰れた豆が、数個。そんなに長い間試合をしてた気はなかったけれど、今試合を終えてざっと周囲を見回した時に他のコートは全員入れ替わっていたから、少し長い試合だったのだろう。感慨に耽っていると柳に溜息を吐かれた。別に無理をして試合を続けていたとか、そういうのじゃないのに。確かに、途中手の感覚がおかしいなとは思ったけれど、実際こうして手を見てみるまではそこまでの痛みを感じなかったというか、寧ろ今見てしまってからじわじわ痛みが出てきているというか。
 ひぃっと奇声を上げた八木さんが慌てて救急箱を取りに行くのを見て更に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。私、一応マネージャーとして此処に派遣されてきている筈なのに、完全に余所のマネージャーさんの足を引っ張っている訳だ。私が第三者なら仕事しろよと突っ込んでいる所だ。

「柳、心配しなくてもそんな痛くないから」
「痛みの問題ではない。これでテニスを続けていたのか」
「集中してたからそんなに気にならなかったよ」

 誰かに呼ばれたのか、嫌々ながらも周助に背を押されて立ち去る新を目で追いながらそう言えば、再び柳に溜息を吐かれる。柳にそれをされると本当にしてはいけないことをしたんじゃないかって気分にさせられるから、やめて欲しいんだけど。手を離す様子のない柳に内心肩を竦める。

「当然、かなあ。ずっとまともにラケット振ってこなかったんだから。柳もそれを見越して今確認しに来たんでしょ」
「ああ」

 柳はじっと掌から目を離すことなく、続けた。

「それで、答えは出たのか?」
「……出た。一応だけど」

 そう言えば、ふっと柳が顔を上げる。そうか、と小声で頷いた柳の顔は、どこか晴れやかで、随分私のことで気苦労をさせてしまったのだろうかと今更に少し胸が痛んだ。
 私なんかのためにそんなに考えてくれなくても良いのに、なんて、そこまで烏滸がましいことは思わない。例えば私も、柳が何かに悩んでいて、相談されたらそれに応えたいと思うし、何かしらの手助けをしたいと思う。自分の考え感じること全てが相手のものと一致することはないけれど、多分、柳も。「背中押してくれてありがとう、柳」と小さく頭を下げれば、やめろと言われたためすぐに頭を上げた。お前が感謝するまでもないことだ、と些か不機嫌そうに口にしてから、一息吐く。そして、ほんの僅かに口角を上げながら、続けた。

「俺はお前の友人だからな」



 八木さんが大急ぎで持ってきてくれた消毒液と共にベンチまで誘導されて、そこに二人で腰かける。八木さんは流石手慣れているというか、かなり手際よく包帯を巻いてくれたけれど始終ひぃひぃ奇声を上げていた。聞いてみると、血を見るよりこうやって皮が剥けている所を見る方が嫌いらしい。それでも最後まで巻ききってくれた八木さんにも感謝の言葉を伝えれば、相変わらず興奮した様子でぶんぶんと首を振った。もっと凄い怪我を相手にする時もあるから構わないらしい。

 そこからは極力利き手を使わないよう注意された通りに、包帯の巻いてある掌を使わず指先を駆使しながら溜まっていた作業を再開した。途中青学の多くの部員に心配されたり試合の感想を言われたりしながらも何とか自由試合を乗り切って、そしてとうとう、合宿は終わりを迎えた。帰りの私の送迎をどうするか、という話になって、周助が頑なに「一回僕と家に帰ってから姉さんに送ってもらう」とか言い出したが明らかに二度手間だったため、かなり後ろ暗い気がしながらも立海のバスに一緒に乗せていってもらうことにした。青学のテニス部には三日間の手伝いについてかなり感謝されたが、本当に感謝したいのはこっちの方だった。
 帰り際、手塚君には、プロになったら試合を観戦しにいくという約束をした。思えばあの朝彼の提案がなければ、私があそこまで動き回ることは出来ていなかっただろう。彼は矢張り謙遜して、が頑張ったからだ、と言って口を閉ざした。流石にこれ以上は堂々巡りになるかと思ったためにやめたけれど、この件に関しては、いつか手塚君に何か返せればと思う。

 帰りのバスでは幸村君が誰の隣の席になるかで揉めて、揉めている内に新が私の手を引いて窓際の席に押し込み、その隣に新が腰掛けることで終わりを告げた。ずっと何か言いたげだった新は道中、思いの外騒がしいバスの中にも拘わらず無言だったけれど、ぽん、と肩を叩くと存外躊躇もなく此方を振り返った。

「嬉しそうじゃないね」
「え」
「私に勝ったんだからもっと嬉しそうにしてよ」

 まじまじと私の顔を見下ろしてくる新に何だか笑いが込み上げてくる。堪えきれずに思わず吹き出すと、今度はむっとされた。嬉しいとかよりも、勝った実感がない、とぶすくれて顔を背けた新は、矢張り可愛い弟だ。
 彼が私をここに連れてこなかったら、永遠に結論を出さないまま、出すことから逃げたままに生きていったのかもしれない。テニスにも一生触れることなく。それもまあ、一つの道だったのだろう。今しがた私の中で出した答えが次に何処に向かうかは分からない。けれど何を選んだとしても本当にどうなるかなんて分からないのだろうから、私がうまくいかなかったように。
 私もまた、新の方を見ていた顔を前に戻した。

「頑張ってきたんだね。凄く。新は強いよ」
「わざと負けたとかじゃ、ないよね?」
「怒るよ」

 声を低くすると、数秒遅れて隣から「うん」とくぐもった声が聞こえてきた。ちらと横を見ると、片手で顔を覆った新が、静かに胸を上下させていた。だから私も、黙って前を向いて、それからは何も言わずに、バスが立海に着くまで無言で外を見ていた。

inserted by FC2 system