0-8 一つでも、二つでもない

 一人で考える時間が欲しい。昼に柳と会話をしてから、仕事をこなしながらそう思った。

 暑さに滴り落ち目に入りそうになる汗を手の甲で拭いながら、部員達に混じって片付けをこなす。合宿2日目、短期間で青学のテニス部と仲良くなれるとは思っていないものの、部員達は私が突然連れてこられたことにどちらかと言えば同情的で、初対面にしては協力的に接してくれた。そのお陰で立海側よりも早めに片付けが終わったことに感謝しつつ、解散となった部員達に紛れ込むようにして、真っ直ぐに部屋に戻る。廊下を走る音やお喋りをする声がドアの向こうから聞こえるのを感じながら、ふらふらと周助から手渡されたボストンバッグに近付いて着替えを取り出す。
 この施設は大浴場の他に、各部屋にユニットバスが備え付けられている。折角の合宿なのだからと男子の方はほぼ全員大浴場を選択しているらしいが、女子は私と八木さんしかいないためにノータッチとなっている。昨日は八木さんが誘ってくれたが、今日誘われてしまったら考える時間がなくなってしまうだろう。八木さんには申し訳ないと思いつつ、はさっさとシャワーを浴びると着替えて髪を乾かした。出る頃には廊下の方も静かになっていて、それを確認してからここの備品であるメモ帳に散歩する旨を書き付ける。どうせ私が居なくなったからといって最初に探すのは周助だろうし、周助なら私のメモにも直ぐに気付く。どうせ周助しか見ないのなら可愛らしく書く必要もない。そう思ってつい、走り書きの形で書いてしまった。
 それをドアの下の方で挟むと、周助の姿が見えないことを確認してから玄関へと歩を進める。見つかると面倒な人には誰にも見つからずに外に出ることが出来て少しほっとした。少し近場をぶらぶらと、今度こそ誰も居なくなったテニスコートを横目に歩き続ける。暮れた空の下のテニスコートはひっそりと静まり返っていて、甚く寂しい気分にさせられた。
 夕飯を食べる気にはなれなかった。後でお腹が減るかもしれないが、あそこの食堂は9時までなら夜食を作ってくれる太っ腹仕様だ。それ以前には戻るつもりでいるため、最悪そこで夜食を作ってもらおうと思った。
 テニスコートが途切れても尚先へ進むと、緑生い茂る小さな森に出くわす。昼間見た限りだとそう深い森ではなさそうだが、陽が落ちてきた今、奥の方は目をこらしてもあまりよく見えず暗く消失していっていた。どうしようか迷ったのは一瞬。道さえ覚えていれば直ぐに帰れるし、光の見える位置に居れば帰ることは出来るだろう。そう思って、森の中へ足を踏み出す。

 歩きながら考えてしまうのは、どうしたって、明日のことだ。明日私は本当に、新とテニスが、テニスの試合が出来るのだろうか。今朝辞めた時ぶりにラケットを振るい、手塚君に練習に付き合ってもらったが、想像以上に打てなかった。体は何とかついて行くし、握力もある方だという自負はあるから、体力やそちらについては心配していない。しかし、感覚が掴めないのだ。記憶と違う、と言えば良いのか。それは小学校の時の記憶と今では体格の違いがあるから感覚も違って当然なのだが、つい昔の記憶のまま打ってはアウトを出し、空振りをしてしまう。その事実は私を愕然とさせた。こんなにも打てないのか。無言でラケットを凝視してしまった私に、手塚君はこう言った。――記憶に頼らず、ありのままボールだけを追いかけてみろ、と。その助言を受けてからは段々とアウトの数も少なくなり、そろそろ練習を止めなければ、という頃には空振ることもなくなっていた。それでもまだ思うようにはいかなくて、やっぱりこれだけやってないと上手くいかない、と思わず零してしまった。しかし手塚君はそれを言い訳だと糾弾することはせずに、逆に「今からでは駄目なのか」と問いかけてきた。その時は、曖昧に答えることしか出来なかった。

 テニスをしないのか。

 最初の問いには、「そのつもりだ」と答えた。二度目の問いには、答える隙を与えられなかった。三度目は、話を逸らしてしまった。四度目は、答えようと思って、答えが見つからなかった。何度も繰り返して問われ、その度に、最初の答えが間違いだと思えてきてしまって。
 私はテニスをしないと決めた筈だった。テニスは諦めなければならないものだと思っていた。理由としていたものがなくなっても、私はテニスをしないと決めていた。それなのに。

 ――もうテニスを諦めなければならない理由なんて何処にもない。
 ――本当に諦めたいと思っているのなら、その表現は出てこない。
    お前は、本当は最初からテニスを諦めたくなかった筈だ。
 ――ずっと何か死にそうな顔してるよ、

 うるさい。そんなの分かってる。それでも、ここでテニスを再開したら、何もかもが変わってしまうんじゃないかと思ったんだ。
 私はテニスが好きで好きで堪らない。堪らないから、テニスを再開したら、テニスの優先順位が一位になってしまって、他は些末な問題になってしまう。勿論、昔と今は違う。だから何でもかんでもテニスを優先しないと気が済まないような、そんなことにはならないのだろう。
 諦めなければならない理由? そうだよ、もう何も理由には出来ないよ。諦めたくなかった? その通りだよ。ずっと死にそうな顔をしていた? そんなの当然だ。一番好きなことを諦めようと、意識しないように頑張ってきたのだから。認めざるを得ない、私は私からテニスを断ち切ることなんて出来やしないのだと。でもそんなこと気付かないでいたかった。諦められるものだと信じていたかった。諦められないものだと自覚してしまっては、いけなかった。それは、怖いことだったから。
 誰も彼も勝手なことばかり言って。散々人の感情をひっくり返して、抉って、引きずり出してくる。こんな風に怒るなんて理不尽だと分かっていて、それでも怒りが抑えられなかった。同時にそんな自分が情けなかった。足を止めて、一番近くにあった木の根元に座り込む。好きなテニスに自信が持てない自分も。図星を突かれたからと憤っている自分も。未だ逃げたいと考えている、自分も。情けなくなって、そう思って気付いたら目から涙が落ちていた。ぼろぼろぼろぼろと落ちて止まらない。泣いている自分がまた情けなくなって、必死に歯を食いしばる。けれどそんな努力も、私一人ではどうにもなくなってしまった。



「ねえ、俺の気持ちは無視するの」

 そんな時突然現れたと思ったら、かつてなく不機嫌な顔でそう口にしてきた幸村君に、私は息が詰まった。ここ数日突きつけられてきた現実の中で最も突き刺さったと言っても過言ではない。まさに心臓を握りつぶされるかと思った。テニスがどうの、そう考えていたことすら、一瞬考えられなくなるような。
 幸村君の気持ち。私は、幸村君のことを考えて、ずっと応援してきたつもりだ。幸村君がどうすれば迷惑に思わないか。幸村君のためになることは何か。そうやってずっと考えてきたけれど、こうして本人に、「俺の気持ちは無視するの」と問われた瞬間、はっとする思いだった。私は考えてきたけれど、所詮考えてきた「つもり」に過ぎなかったのか。でも考えてみればそうじゃないか。彼は私がテニスが出来ないことの延長線上にいて、私はそのテニスについては考えないようにしていたのだから。彼の気持ちを、私は私の都合で、気付かないようにしていた。彼が私のことを見ていることが堪らなく恐ろしくて。誰かに好意を持たれるのが何より怖くて。
 私は、幸村君のことを嫌いじゃない。以前仁王君に対して答えたように、嫌いだったら応援なんてしない。それは純粋な応援とは言えなかったかもしれないけれど、それでも嫌いだったらしようとすら思わない。こんなことになるのなら、最初から好きにならない方が良かったんじゃないかって思えるくらい。テニスと幸村君を別個として捉えることも出来ていないのに。
 それなのに好きになってしまった。
 死ぬまで誰にも言ってはならないと思っていた言葉は、怨嗟でも吐いているかのように気付けば口から落ちていった。口にした瞬間、猛烈な後悔が自分を襲う。何てことを自分は言ってしまったのかと思った。愛されるのが怖いと分かっているのにどうして私は幸村君にこんなことを言ってしまったのか。伝えたら何かしらの答えが返ってくることを予期しなければならないじゃないか。取り繕うように、幸村君を応援していた理由を口にしようとすれば、それは幸村君の手によって塞がれた。怖い。睨み付けてくるその瞳の中に、苛烈なものを捉えた瞬間、背筋がぞわりとした。やっと塞がれていた手が離れたけれど、私は幸村君の浮かべたその笑みがあまりにも凄絶で、ただ目を見開いて彼の口が動くのを見ているしかなかった。

「俺はが好きだ。だから、逃がすつもりはないよ」
 
 いつぞやの呪いの言葉よりも、ひどい。鈍器で頭蓋を思い切り殴られたのかと思う程の衝撃。言葉に凍り付いて、吸った息は、ひゅっと鋭い音を立てる。
 消えて欲しい。今目の前に居る幸村君に、そう思った。消えて欲しい。今すぐに。私が、このどうしようもなく行き場がない感情を、全て幸村君に投げかけてしまう前に。そう思うのに、幸村君は私の手を引いて立ち上がらせる。そのまま引き摺っていかれそうになって、慌ててその場で足を踏ん張った。動く気がない私に苛立ったのか、幸村君は綺麗な顔を歪めて振り返る。その口が何事かを紡ぐ前に、私は首を振った。駄目だ。我慢しなければならない。我慢しなければならない! そう思ったのに、湧き上がる感情は止まってくれなかった。

「何でそんなこと言うの」
「えっ?」
「何で! 私は言いたくなかったのに、言って欲しくなかったのに! なんっで今、今そんなこと……っ!」

 これもまた、幸村君の指摘した私の「勝手」だ。確かに、私は幸村君に勝手なことばかりしてきた。だからこそ、私は幸村君の「勝手」を糾弾することなんて出来ない。今私の言っていることは子どもの我が儘と同じだ。何だかとても惨めな気持ちになってくる。幸村君の発言に対する怒りと、自分の言動への虚しさ。お粗末だ。こんな事言いたくないのに。言ってはいけないって思っているのに、それをかき消す勢いで感情が膨れあがってくる。ああ、まただ。喉が痛い。
 幸村君は急に声を荒らげた私に驚いたようだったけれど、数度目を瞬かせると、何故か笑った。何がおかしいのか、こっちはこんなに腹が立っているのに。そう思っていると幸村君は今度こそ声を上げて笑い始めた。大爆笑だ。

「はっ、はは、ははははー! さん、ははははっ!!」
「何がおかしいの!」

 苛々して思わず語気を強めると、幸村君は腹を抱えて更に笑い出した。器用にも手は繋いだまま。これ以上何か言っても幸村君が爆笑の渦から戻ってこられなくなるだけかと思って、そこで一旦口を閉じた。幸村君が爆笑することによって出鼻がくじかれたとでもいうのか、私の感情は先程までよりは落ち着いてきていた。何で笑われてるんだろう。何処に笑いの要素があったんだろう。一頻り笑い終えたのか、幸村君は目尻に浮いた涙を指で拭い去ると、まだ堪えられないのか笑みを零しながら此方を覗き込むように少しだけ身を屈める。

「はは。やっと話せた」

 しん、と。
 その一瞬で、私の心が静まり返った。
 私が黙り込んだのを良いことに、幸村君はさっさと手を引いて歩き出してしまう。しかし今私に抗う気力は湧いてこなくて、自然と彼の後に続いて足を踏み出してしまった。やっと話せた。突然私の激情を全て鎮めてしまったその言葉は、降り積もるようにそっと心の奥底に降り立った。その真意を理解して、そっと顔を上げる。さっきまで幸村君が纏っていた恐ろしさは今は無くて、上機嫌な後ろ姿が見えるだけだった。
 私は、幸村君にこそ何一つ話せていない。話す気がなかったから。話すつもりが、なかったから。それが、結果的に幸村君を傷つけていたというのなら。宿舎の明かりが近付いてきた頃に、私は「幸村君」と前を歩く彼に声をかける。幸村君は直ぐに振り返ると、何だい、と立ち止まった。視線が、合う。それでも以前のような恐怖は感じなかった。向き合うことは怖かったのに、いざ向き合う決心をすると、こんなものなのだろうか。それでも、まだ少し――怖くはあるのだけど。

「少しだけ、待ってて欲しい」
「何を?」
「私が、先にテニスに決着つけること」

 幸村君は私が何を言っているのかよく分からない、といった様子で首を傾げたものの、マネージャー業のこと? と尋ねてきた為に首を振る。自然と、笑みを浮かべていた。

「明日には多分、分かるよ」

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