11 口にすることはもうないが

 柳蓮二は、こうして新の計画が実行される段に至ってから、と新、そして幸村の三者をずっと観察し続けている訳であるが、特にについては彼女自身自分の感情が整理出来ていない風に見えた。突然予期しなかった状況に放り込まれたのだからそれも当然と言えるのかもしれないが、幸村が接触してきてから乱されっぱなしだった調子は彼女が髪を切った直後から突然収まっていた筈なのだ。それがまた再び乱されているというのは、十中八九この状況そのものにあるのだろう。もしも幸村に会ったとそれだけならば、合宿に来て挨拶した時の様に――確かに平常心のままでいられないかもしれないとはいえ、何かしら装うことは出来たかもしれない。しかし、現に彼女は何かしら考え事をしていることや、普段ならば人に悟らせない様なこと、そして表情までもが表へと姿を現している。

さんは……片思いを拗らせたのかもしれないね」

 昨夜、八木の口にした言葉を反芻しながら、合宿二日目のの様子を眺める。八木が起きて準備を始まる頃には彼女はもう青学の方の準備を一通り終わらせていたということだから、彼女が昨夜ちゃんと眠れていたかどうかは怪しい所だ。しかし彼女は特に疲れている様子もなく、寧ろ昨日よりも精力的に動いているのではないだろうか。そのことを不思議だとは思ったが、彼女ばかりを見ている訳にもいかないために、次に彼女の弟である新へと目を向ける。彼は良くも悪くも、少なくとも柳の目にはいつも通りであるように見えた。彼は中学から引き続きテニスをしているとは言え1年生であることには変わりない為、基本的には球拾いなどの作業をさせられている。しかし折角の合宿ということでコートも十分あることだしと、時折1年生にもコートに入る機会も与えられているのだ。新がこの計画について口にした際も、3日目に計画されている自由な試合が要とされていたが、寧ろこの最終日こそが1年に与えられた褒美であり、様々な選手に試合を申し込むことの出来るチャンスなのである。今回申し込む先がマネージャーなため一波乱あるかもしれないが、ここまでして新がと試合をしたいと言うのなら、普段彼が問題を起こす人間ではないこともあって、恐らく目を瞑ることになるだろうと柳は予想していた。

「柳、次柳と赤也がダブルスで試合だよ」
「ああ、すぐに行く」

 ドリンクを手渡しながらそう言う八木に頷くと、柳は左手にドリンク、右手にラケットの出で立ちでコートの脇に待っている赤也の元へと歩を進める。今日の練習内容は、交流試合形式でありミーティングで予め決められたオーダーに沿って次々に試合を行ってゆくものである。
 八木は、昨日あんなに頭を悩ませていたものの、新同様にいつも通りの姿を維持しているようだった。八木にあのような告白――自身がのことを恋愛的な意味で好きだということをすべきではなかっただろうかと、柳は今更ながらに思う。あの発言が更に八木を困惑させた可能性は高い。八木は誰かの秘密を易々と人に話すようなことがないと確信していたから柳もぽろりと漏らしてしまった訳だが、幸村とのことについて考えている状況で、更に柳のことまで考えなければならないとしたら。彼女の脳内がオーバーヒートを起こしてしまっても不思議ではなかった。
 しかしながら、昨夜恐らく色々な感情を混ぜっ返しながら彼女が零した結論は、柳の心に突き刺さったままで抜けない。片思いを拗らせる。確かにそうなのかもしれないと思った。そしてそれはだけでなく、柳自身もが。のことを好きになって、知れば知るほど、更にその感情は確固たるものとなって。それなのに彼女との関係性が悪い方に転がるのが怖くて何も出来ずにいる。
 ただ、気の許せる友人として。それだけでいい、そうやって彼女の近くにいられれば、いいのではないだろうか。それが、柳が自分の感情に対して出した結論だ。もうそれを覆そうとは思っていないし、どちらかと言えば彼女が変わらず柳の前で笑っていてくれればそれでいい。だからこそ、柳はやらなければならないことがあると感じていた。ずっと幸村のことを全力で応援する彼女を隣で見てきたからこそ。

 赤也とのダブルスを終えた柳は、次の試合が始まるまでの間を他の選手のデータを取りながら待つために、日差しを避けて木陰へと移動する。そろそろ夏も後半だが、暑さは未だ健在で衰えなど露程も見せない。加えてこの合宿所には全方向に緑が見えるために蝉の聖地にもなっているらしく、柳に涼しさを提供しているその木でも喧しく鳴いている。しかし柳の姿に気が付いた赤也が彼の近くで立て板に水の如く話し始めたために、蝉の鳴き声はあまり気にならなくなった。赤也の雑談に耳を傾け、時折相槌を打ちつつ、ノートにペンを走らせる。今度は精市の試合か、と何となく結果は見える試合相手とのテニスを眺めていると、ふと、幸村達の隣のコートの向こうでボールの籠を持って幸村の試合を見つめているの姿が目に入る。幸村を意識的に避け、また仮に接触してしまったとしてもあの付け入る隙のない笑みを浮かべながら躱してはいるが、彼のテニスからは目が離せないのだろうか。応援のために声を張らずに黙って見つめているというのも珍しい。そう思ってよくよく彼女の姿を見ていて、そしてそれに気付いた瞬間、思わずはっと息を呑んだ。
 何故か。それは、彼女のその目が、まるで親の仇でも見ているのかと問いかけたくなる程に、厳しく睨めつけるものだったからだ。
 およそ、好意を持つ相手に向ける目でも応援する目でもない。そう思いつつ、いつかこの目は見たことがあると気付く。あれはどこで見たのだろうか。くるりと踵を返して去って行く後ろ姿までが何かと重なる。その後ろ姿を眺めていて、やっと思い出した。――そうだ。中学1年で、始めて幸村のテニスを見た時にも、矢張りあの目を見たのだった。射殺さんばかりの眼光を見間違える筈もない。あの時も、彼女は、はあの目で幸村を見つめていた。
 データの続きを書き込まない柳を訝しんでか、赤也が不審そうな声を上げる。それを片手間にあしらいながら、次の試合だと呼ばれる声に従って再びコートへと入ってゆく。



 柳がに声をかけたのは、幸村に「張り付いている」と評された不二が混雑している昼の食堂で彼女の傍を離れたその一瞬の出来事だった。どこかうんざりした顔でいた時に急に呼び止められたからか、大層驚いた顔で柳の方を振り返ったの手には、トレーの上に今日のランチが乗せられている。対する柳のトレーには海鮮丼が乗っており、しっかりとした寿屋で頼んだ物と言われても頷いてしまうような代物だった。これが通常よりも更に安い値段で提供されているのだから、熟々跡部という男は末恐ろしいと思う。
 振り返ったは、どうしたの、と言いながら近付いてきたようだった。ようだったというのは、あまりに周囲が騒がしすぎて彼女の声がよく聞き取れなかったからだ。元々彼女の声はかなり通る方なので、その声が聞こえないというのだ、相当の煩さである。柳はそれでも何とか互いの声が聞き取れる距離に来たことを確認してから、そこで続きを口にした。

「少し、話そうと思っていることがあるんだが、昼食を一緒にとっても構わないか?」
「是非! 是非一緒に食べよう、出来れば周助に見つからない辺りで」

 出来れば以降はかなりトーンを落とした物だったが、本人は余程不二に張り付かれていることを苦に感じているらしい。是非と言われた時は割り切っていながらも僅かに心躍った柳だったが、には気付かれないようそっとその感情を鎮めた。
 それでは、と柳がと共に向かったのは、壁際のカウンター席、場合にはよるが「ぼっち席」と呼ばれる類いの所だ。更に、その手前側に観葉植物が置かれていて影になっている場所へと二人は並んで腰をかける。二人お手拭きで手を拭いていると、は柳が誘ってくれて良かったよ、とやや疲れた溜息と共に笑って言った。不二とは幼馴染みなのだろう、と返しながら箸を割れば、はかなり嫌そうに顔を歪めた。ぱきり。箸は途中で曲がることなく真っ直ぐに割れる。

「ずっと一緒に居ると周助ほど面倒なものはないよ」
「まああれだけ付き添われていてはそうかもしれないな」
「幾ら慣れたって言っても、今はまた状況が違うからね」

 状況が違う。彼女もまたその自覚があるのだろうか。そうか。頷いて、柳は彼女が箸を割る所を横目で見ていた。彼女の箸は綺麗に割れないようだった。

「それで話って?」
が今、ここに居ることについてだが」

 は一度ちらと柳を横目で見てから、ランチへと視線を落とす。小さくいただきますと呟き、そしてご飯の茶碗を手に取る。それを無言で続きを促しているのだと解釈した柳もまた、の方は見ないまま「俺も随分前から知っていた」と続けた。は口に運んだ米を暫く咀嚼していたが、それを飲み込んでから「そう」とだけ返す。あまり驚かないことに驚いた。そのままの気持ちを伝えてみれば、予想していたから、とまた冷静な言葉が返される。

「昨日、新を捕まえて詳細を聞いた。それで、大体一ヶ月も前から決まっていたことが当日まで知らないってこと自体がおかしいなって思って。だって、いつもなら柳が教えてくれてたでしょ、テニス部の予定」
「ご明察だな」

 海鮮丼に箸は合わなかっただろうかと思いつつ、もうスプーンを取りに行く気力もない為そのまま口に運ぶ作業を続ける。そのまま二人とも黙り込み、海鮮丼が中程まで食べ尽くされた辺りで、柳は本題に切り込んだ。

はテニスがしたくないのか?」

 柳の問いに、はぴたりと動きを止めた。そしてはああ、と彼女にしてみれば非常に珍しく遠慮のない溜息を吐き出してから、くるりと柳の方に顔を向けた。それ程に嫌な問いだったのだろうか? と首を傾げていると、は片方の口角だけを上げ、「そんな感じの問いをする人、ここに来て4人目だよ」と肩を竦めた。誰がどのような形でこの問いをし、それに対して彼女がどう答えたか、柳のデータには無いことだ。しかしその質問も4回目になれば、流石にも嫌気がさしてきてしまうのだろう。だからと言って普段の彼女からすれば嫌そうな顔はしないものだが、そんな顔も見せてくれる位彼女と仲を深めることが出来たのかと思えば苦でもないと感じた。
 それきりは何か考え込んでしまったがやがて堪忍するように首を振って、躊躇いながらも口を開く。気付けば彼女の方は、もう昼食を食べ終えてしまったようだった。

「……したいとか、したくないとかじゃなくて、しなかった訳だけど。改めて色んな人に問い直されて、問い直される度に、正直な所が、分からなくなってきた。ただ最近ずっと、うまくいかなくて疲れて。その原因は全部、その、幸村君だと思っていたけど。ここに来て、違うのかなって思った。違ったから、その質問に対する答えが分からなくなったのかもしれない」

 テニスのことは諦めなければいけないと思っていた。諦めることを頑張らなきゃって思ってた。頑張らないといけないんだって。諦めれば家の為になるって、母親の助けになるって、そう信じてた。実際、そうだという自覚もあったし、確信もあった。そこまでぽつぽつと口に出して、は再び口を噤む。でも、と言いかけて、続き言い倦ねているようだった。苦しそうに顔を顰める横顔を見て、柳自身知らない内に眉根を寄せる。

「ごめん、まだ上手く纏まらない。けど私は途中で放り投げたんだね。それは分かってる、分かっていて放り投げた。幸村君のことも、テニスのことも。最低だって分かってたけど、逃げたかった。ちゃんと終わらせるべきだと思ってはいたのに。でも、出来ない」

 もっと上手く立ち回りたかった。逃げ出したことは自覚している。なのにこの期に及んで、諦めると、断ち切ると決めたのに、結局何一つ捨てられないまま。自分でどうしたらいいかも分からない。顔を完全に俯けてしまったを見ていると、自分のすべきことなんてそれこそ彼女のように放りだして直ぐにでも慰めて安心させたい気持ちに駆られる。けれど、それでは彼女の為にならない、そして何の解決にもならない。柳は一つ息を吸って、止めて、そして吐き出すと共に突きつける。

「その諦めるべき、終わらせるべき、というのが、自分に強いている表現だと言うことにお前は気付いているのか」

 ぴくり、との肩が揺れた。

「本当に諦めたいと思っているのなら、その表現は出てこない。お前は、本当は最初からテニスを諦めたくなかった筈だ」

 彼女はまだ返事を口にしない。けれど聞いているのが分かればそれで十分だ。

「……それを何故、無理に捨てる必要がある」

 感情のままに何かすることは、ある意味では容易く、ある意味では難しい。かといって論理的に何かをすることも、ある意味では容易く、ある意味では難しい。彼女の場合、本音と建て前が余りにも複雑に絡み合っていると柳は感じていた。柳は、ではない。ではないから、の全てなど分からない。しかし自分だって自分の全てを理解出来ているとは言い難いのだ。例えそれが、緻密なデータを持つ柳であったとしても。しかし、それを理解しているからこそ分かるものもある。

「捨てなくて良いかな」
「そうだ」
「そうか」

 ややあって頷いたの声は、思ったよりはしっかりとしていた。はもう一度、そっか、と囁くと、顔を上げた。辛そうではあるものの、何か決意を秘めた、そんな表情だった。それを見て、やっと食べ終えた食器を持って柳は立ち上がる。彼女もそれに続こうとしたが、ああ、と柳が言葉を発したことによって動きを止める。一つ言い忘れていた。はさっき、幸村のテニスを見ていたな、と確認すれば、は「えっ、うん」とかなり戸惑いながらも肯定してみせる。

「その時、自分がどういう目をしていたか知っているか?」
「どういう?」
「睨み付けていたぞ、幸村のことを」

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