0-7 自分に隠しておきたかったことがありました

 近頃、眠れない夜を過ごすということが、多いのではないか。新の口から語られた言葉を思い返しては寝返りを打つ。健康的な生活を送ってゆくために十分な睡眠は不可欠だ。ストレスが堪っているのなら一層。明日はまた、慣れないマネージャー業をしなければならないから早く寝てしまいたいのに、寝る前に言われた新の言葉が頭から離れない。

「テニス、してよ、かあ」

 ごろりと仰向けになって、両目の上に腕を置く。もうみんな寝たのだろうか、騒ぐ声も聞こえない。暗くて静かだ。だからこそ考えてしまう、あの言葉を。テニス。テニスね。もうこのまま逃げ切るつもりでいたのに。そう、逃げるつもりで。諦めるも逃げ切るのも似たようなものだと、昼食の時に周助と交わしたやり取りで気付かされた。もしもこの「テニスをしてよ」というのが周助の戯言だったら脛を、馬鹿なことをと文字通り一蹴していただろう。けれど相手が新だ。何よりも大事にしたいと思ってきた、新だ。その新が、私とテニスがしたいというその願望のためだけにテニス部に入って、自分で考えて行動して、そしてテニスに触れようとしない私が無理矢理にでもテニスに触れなければならないこの場所に連れてきた。この相手さえ私でなければ天晴れだと思う。けれど、私である以上、例え新であってもじわりと広がってゆくのは何とも言い難い苦さだけだ。
 まんじりともせず夜が明けてゆくのを窓から見える空の様子で確認して、私はひと思いに起き上がった。くわんと頭が揺れるのを何処か遠い世界のように感じながら、それが収まるのを待ってベッドから抜け出す。まだ起床時間には随分早い。それを良いことにのろのろと着替えて、それから音を立てないように部屋を出た。早朝ということもあり、青学の陣取っている3階はひっそりと静まりかえっている。立ち止まってみて誰も出てこないことを確認してから、忍び足で歩き始めた。天気予報では今日も快晴、日中暑くなるとのことだったが、朝は冷え込む。長袖のパーカーを羽織ってきて良かったとそんなことを考えながら、玄関の自動ドアから宿舎の外へ飛び出した。もしかしたら閉まっているかもしれないとも思ったがこの時間から開いているらしい。ということは、他にも誰か起きている人がいる可能性もあるということか。
 昨日マネージャー業をするならと渡された倉庫の鍵の感触をポケットの中で確かめながら、ぶらぶらあてもなく歩き出す。起きているのが幸村君でなければいい。そんなことを思っていたが、ふとテニスボールの音を耳で捉える。誘われるままに音のする方へと向かうと、青学側に宛がわれていたコートに人影が見えた。どうもサーブの練習をしているらしい。練習熱心だなあと思いながらそっと近付いて、サーブを打ち込む後ろ姿を眺める。近くに来てやっと気付いたが、あれはドイツから一時的に日本に戻ってきたという手塚君だ。細かい事情についてはよく分からないけれど、彼は中学3年から暫くの間、腕の治療のためにドイツにおり、そのままプロになるために練習を続けていたとか。それが高校2年の中頃に帰国してきてまた青学のテニス部の主力として活躍しているらしいが。

「何か用か?」

 どうやら手塚君は私の存在に気付いていたらしい。綺麗なフォームだなあと思って見つめていると、振り返った手塚君と目が合った。見つめていたから気が散ったのかなと思いつつ、おはようと返せば手塚君は少し目食らったように眼鏡の奥の瞳を開いてから「ああ、おはよう」と挨拶を返してくれた。

「用はないけど、早く起きてぶらぶらしてたら手塚君が見えたから見てただけだよ。ごめん、迷惑だった?」
「いや、迷惑ではない。ただ用事があるのならと思っただけだ」

 そっか、と頷けば、手塚君は少し考えるような素振りを見せてから「中に、入ってきたらどうだ?」とお誘いを受ける。どうせ見ていることになるならフェンス越しでもどちらでも良いのではと思ったが、折角手塚君がそう言うのだからとコートに足を踏み入れることにした。マネージャーとしてコートの脇を走り回っている時は部員も沢山入り乱れていて感じなかったけれど、コートの数はかなり多い。良い環境での合宿なんだろうなあと他人事として手塚君のコートから一番近いベンチに腰掛けると、それを確認してから手塚君は練習を再開した。彼のテニスを見たのは中3の全国大会で真田君と試合をしている時と、そしてこの合宿で見たものだけだけれど、成る程プロを目指しているというのも頷ける。何をしていてもしっかりとした基本が見えるし、それでいて様々な応用を利かせている。互いに無言のまま時が過ぎるかと思ったが、手塚君は想像より早くサーブの練習を止めると私の方へと歩いてきた。どうしたんだろうと思っていると、ベンチの上に置いてあったドリンクを手にして、私と人一人分の隙間を空けると同じ様に腰掛けた。微妙な沈黙が落ちる。

「手塚君、早起きなんだね」
が言うならそうかもしれないな。だがそっちはどうなんだ」
「私は起きたというか眠れなかったというか」

 眠れなかったという言葉に手塚君が咎めるような目線になった為、寝ようとは思ったよ!? と慌てて続けた。彼はスポーツマンだから殊更体調管理に煩いのかもしれない。単に私がマネージャー業を担っている以上途中で倒れられては適わないと思われたのかもしれないけれど。体力ある方だから今日もちゃんと出来るよ、と言えば、矢張り何か言いたげにしていたもののそうか、と頷いて前を向く。

「もし、違っていたらすまないが」
「うん?」
は、その。小学生の時に、都の女子ジュニア大会で優勝した経験はないか?」

 思わず首を巡らせて手塚君の顔をまじまじと見つめてしまう。手塚君は丁度ドリンクを口にしていたが、私の視線に気付くと飲むのを止めて再び私へと顔を向けた。どうして? と気付けば声に出していたらしく、名前と、顔に見覚えがある様な気がした。との返事をいただいてしまった。

「都の女子ジュニア、は確かに昔優勝したことあるけど、私手塚君と何処かで会ったことあるっけ?」
「いや、実際会うのは初めてだ。だが俺は当時、のテニスの試合を見たことがある」
「そ、そうなんだ」
「もうテニスはやらないのか?」

 純粋な眼とはこういうもののことを言うのかもしれないと、場違いにも私は一瞬そう思わずにはいられなかった。ひぐっと変な風に喉が引き攣るのを感じながら、何とか呼吸を整える。それが今、一番頭を悩ませていることなのですが、何なんだろう。ここまでくるともうこの合宿に来ている全員がグルなんじゃないかという妄想すら現実に思えてくる。寄って集ってテニステニスとまあ。確かに此処にいるのはテニスに青春をかけている様な連中ばかりなのだからテニスの話題ばかりでもおかしくない。けれど余りにもこう、立て続けにテニスの話題をされると気が滅入る。そう苦笑いしながら思い返すのは、昨日の昼、周助との会話でのことだった。



、本当にもう、テニスはやらないの?」
「……そのつもりだけど」

 お互い向き合って昼食を口へ運びながら話すものの、その直前に幸村君と鉢合わせてしまった私は機嫌が頗る悪かった。何故立海が来るのかという明確な答えを周助から聞き出せずにいたのもあって、昼食を口に運ぶペースも早い。目の前では周助がランチに備え付けの七味をこれでもかと振りかけているが、相変わらず何でもかんでも辛くしようとする周助の味覚は意味が分からない。正直周助だけにはご飯を作りたくないと思う。これ程味を変えられてしまっては作る方に面白みがない。周助は私の機嫌などお構いなしに、お茶碗を手に取りながら話を続ける。

「大学とかに入ったらサークルあるんだし、入っても良いんじゃないかな。というか高校入る時転校して東京来るって選択肢もあったんだよね? 青学に来て女テニ入れば良かったんじゃない?」
「ちょ、っと周助」

 思わず周りを見回して声が聞こえる範囲に新が居ないかどうか確認した。幸い、少し離れたところで立海レギュラー陣が食事をしているだけで、新の姿は見える範囲ではないようだ。ほっと息をつきながら、立海の人たちが此方に気付かない内にとすぐに周助に向き直る。相変わらず周助は飄々としていて、だからこそ私の口調もつい刺々しい物になってしまう。付き合いの長さと言えばそうなのかも知れないが、ほぼ同じ年月の付き合いであるサエにはこんな態度を取ろうとすら思わないからこれが人間性の違いなのだと思う。そういうこと言うとまた新が気にするからやめてくれない、と小声で素早く言えば、「ああ、立海に残ったのって新君のためだったの?」と首を傾げた。それだけじゃなかったけれど、そう決断した大きな要因は確かに新のことがあったからその問いかけは黙殺で返した。すると周助はそれを肯定と受け取ったのか、周助はふうんと零して一口、ご飯を口に運ぶ。

「新君ももう高校なんだし、が家に残って家事をやらなくてもそろそろ自分で出来るんじゃないかな。大阪の四天宝寺に千歳っていうのが居るけど、彼は確か中学の時から寮暮らしだったよ」
「もー周助は何なの、そんなに私にテニスがさせたいの」
「というか、がテニスしたそうだから」

 味噌汁へと落としていた視線を周助に向ければ、周助もまた私を見ていた。しかもきっちり開眼のオプション付きで。私何か変なことをいっただろうかと思ったけど、特に言った覚えもない。だから周助は怒っている訳ではない、と思う。いつ私がテニスをしたいだなんて言ったよ、と口にするよりも先に、周助はそれを遮るかの様にじっと此方を見つめたまま、言った。

「ずっと何か死にそうな顔してるよ、

 「はっきり気付いたのは、3年前から。でも思えばその前から死にそうな顔はしてたかな」「ねえ、あの日、中学の全国大会の決勝、見てたよね」「あの決勝、何がそんなに辛かった?」続け様にそう言われるも、何を答えたら良いのか、何から答えれば良いのか分からなかった。答えない、というより、答えられなかった。死にそうな顔をしていると言われたことも、それが3年前から気付かれたということも、決勝に来ていたということも、そしてその決勝が「辛かった」と言い表されたこと、その全てに理解が追いついてくれなくて。せめてもと思って言えたのは「死にそうって何」とその程度だった。



「――そっか、手塚君は男子の方で優勝してたんだ」
「ああ」
「それにしても、よく覚えてたね」

 ずっと振り返ることなどなかったけれど、今こうして当時を振り返ってみて、昔は如何に物を覚えようという意識に欠けていたかというのをひしひしと感じる。手塚君は私のことを覚えていたと言うが、私は手塚君を見たことがあったのだろうか。都のジュニア大会で優勝するほどだし、多分私自身彼のことを見たことがあった筈なのだけれど、記憶にない。その旨隠さず手塚君に伝えると、手塚君は大して気にした素振りもなく、「俺も、の髪型が変わっていたら気付かなかったかもしれないからな」と首を振った。謙虚な人なんだなと思う。

の話を纏めると、の弟がに試合を申し込むのは最終日だろう。だがもうずっとテニスをやっていないのなら」
「鈍ってるよね、まあ」

 避けてきた訳だから。断片的にだがこれまでのことを、テニスを避けてきたことやその契機については手塚君に話した。幸村君のことについては意図的に話さなかったし、その所為で所々辻褄が合わない部分も出てきた。けれど話さなかったことは寧ろテニスそのものとは何だったのかについて考えるきっかけにはなったのではないかと思う。
 私にとって幸村君とは、ではなく、そもそも私にとってのテニスとは何だったのか。一体どうしてテニスを諦めるためだけにとこんなに頑張ってきたの? 何を頑張ろうと思ったの? 何を頑張れば良かったの? どうして頑張ろうと思ったの? 何を後生大事に抱えてきたの。考えなければいけないのが一番、苦しい。考えたくなかった。意図的に考えないようにしてきた。幸村君のことがあってからのこの一週間を、考えなくていいように別のことを考えたり、勉強に打ち込んでみたり。
それでもどうしたって周囲は私にテニスを考えないことを許してはくれないらしい。

「今、時間はあるか」
「えっ? うん、見たとおり話したとおり、準備の時間までにはまだ結構あるかな」
「では」

 手塚君は再びドリンクをベンチに置き、すっと立ち上がった。何だろうかと見つめていると、鋭くもどこか穏やかに見える瞳が私を見下ろす。

「少し、俺と打っていかないか」

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