10 どうか許して欲しい

 新のこれまでの人生を一言で言い表すとすれば、「追い求め続ける人生」となるだろうと、彼はそう考えている。それが間違っていると思ったことは一度だってない。だって、彼が追い求めている相手は、彼の姉であるだったのだから。
 彼女は新の物心ついた頃からずっと、彼の思考や行動に多大な影響を齎している。何よりも、彼女がテニスをしている姿は今尚、憧憬と共に記憶の中で鮮やかに輝いていた。
 体を目一杯使って放つ打球、技、そしてそのセンス。不敵な笑顔と共にコートを駆ける姿。自信に満ち溢れた表情と、熱気の中でよく通る声。彼女を褒め称える声を聞く度に、あれが自分の姉なのだと胸を張って自慢したくなった。当時彼女は本当に強かった。都内の女子ジュニアの大会に出ようものなら1位を恣にしていたし、大抵の男子と試合をしても勝ちをもぎ取っていた。あの年代の女子は男子よりも成長が早いのも影響していたのかもしれないが、男子にも勝ってしまう姉は、新にとって本当に神様みたいに尊い人だった。
 しかし彼女に少しでも近付きたくてテニスを始めてからは、思い返せば思い返す程、当時の彼女がどれほど素晴らしい腕前であったかが痛い程に分かってしまう。それを痛感する度に、何故ここでコートに立っているのでは彼女ではなく、自分なのだろうと思った。彼女の影を追って、追いつきたくて、その一心でテニス部に入ったのに。姉は自分の代わりにテニス部に入ったのではないかと心配していたが、それは見当外れも甚だしい、杞憂だ。新は自分のためにテニス部にいる。それでも、ラケットを握って、ボールと打って、コートを走り回って彼女のようになりたいと必死にやっているのに、新の心は一向に満たされない。何故か。考えるまでもなかった。そこに、コートに彼女の姿がないからだ。自分は彼女を追いかけているはずなのに、目の前には、はいない。代わりに、幸村精市という男が存在していた。立海の揺るがない頂点として。

 新はそれこそ入学前から幸村を好きではなかった。幸村に何かされたという訳ではない、扱いは普通のテニス部員同様。否、新は普通よりも少しだけ、テニスが出来る方だったから、それを扱くという意味では厳しく接された様な気はする。しかし先輩である切原の様に恐ろしいテニスのセンスもなかった新は、そう興味のそそられるような存在ではなかったのだろう。部活以外で幸村に話しかけられたことはほぼ皆無と言って良かった。故に新が幸村を好きになれなかった理由には、姉の存在が一番大きかったと言えよう。
 新は、幸村精市という男の存在を、立海に入学する前から随分と聞かされていた。彼のテニスがどれ程素晴らしいかを手を変え品を変え、言葉を変え、そうやって言い聞かされていた。生き生きとそれを語るその人だが、その手にはもうテニスラケットはない。あの人をあの人たらしめていたものを、あの人は自ら手放した。家のことを私がやるから、と笑顔で母に言っていたのを、新は黙って聞いていた。テニスから身を引いた彼女は、もうテニスのことを口にしないのかもしれないと思った時期もあった。事実、彼女が幸村の話をする以前は、テニスについて一言も口にしたことはなかった。彼女がテニスを辞めてから立海で幸村を見つけるまでの間、ただ家事をこなし勉強に身を入れる姿は、以前と比べるとどうしても抜け殻の様だった。だから彼女が目を輝かせて幸村のことを口にした時は幾らか安心したのも確かなこと。それがあまりにも、彼を讃える言葉だったから、新が気に食わなかったけで。
 彼にとって姉は目標だ。ぶれることのない、唯一のものだ。だから、彼女が、彼女の他に何かを褒め称えるだなんて――意に染まない。多分新が幸村を好きになれなかったのは、それが一番大きい。幸村がある日を境に急に話しかけてくるようになった時も、顔が引き攣らない様にするのに必死だった。今更? この期に及んで? 幸村が興味を持ったに近付くために新に話しかけたということは分かりきっていた。分かっていたからこそ、腹立たしくて仕方がなかった。虫が良すぎる。同じテニス部の柳も少し前から新に話しかけるようになっていたが、彼はそれ以前からも結構話しやすいと思っていたし、何よりからは弟だと聞いた、と自己申告してくる様な人だったので、それ程嫌だとは思わなかった。幸村とは違う方面で柳の話題を聞いていたかもしれない。

 兎角、彼は今、こうして立海のテニス部員として合宿先に訪れている。かねてからの願いと、幾許かの罪悪感を胸に。
 一日目の夜、夕食後3年達がミーティング室へ出払ってしまい、新含め1年とレギュラーである赤也以外の2年はそれぞれ束の間の自由時間を過ごしていた。ジャージ姿のに話があると言われて肩を掴まれたのは、そんな自由時間の最中である。風呂上がりで部屋に戻る途中だったけれど、どうもは新がやってくるのを、風呂場までの道のりにある食堂で待っていたらしい。食堂には他に青学のテニス部員がちらほら見え、立海の生徒である自分に話しかけているを訝しげに見ていたが、大して興味もないのかすぐに雑談に戻っていた。周助含む青学のレギュラー達の姿も見受けられることから、もしかするとさっきまでここでミーティングをしていたのかもしれない、と新は頭の片隅で思った。立海は態々ミーティングルームを予約していたけれど。むんずと掴まれた腕が引かれるままに、食堂でも人気がない隅の方へと連行される。此処に黙ってを連れてきた以上、早々にこうなることは予想していた。にしてみれば、ある日突然幼馴染みに事情を説明されないまま連れてこられて、はいマネージャーとしてテニス部の手伝いをしてくださいと言われて、しかもそれが立海と合同の合宿で。訳が分からないの極みだと詰られてもおかしくない。目の前に座る様に促されて、他には誰も座っていない長机の端に二人して腰を据える。

「髪はちゃんと乾かしてきた?」
「きたよ。そっちはお風呂は」
「さっき入ってきた」

 風呂上がりなのを気にしてのことだろう。じっと新の方を見つめていたの第一声は、それだった。きっと彼女は湯冷めを心配して、そんなに長く話をするつもりもない。けれど新を捕まえるにはこのタイミングを逃すと難しい。そんな彼女の思考は手に取る様に分かった。自分も大概姉のこと思っている自信があるが、それは姉も然りだ。別に互いのことが好きだとか、そんなことを口に出して言い合っている訳ではないけれど、それは態度で分かる。両親が離婚してからそれも顕著になった様に思う。より、互いと接している時間が増えたから。

「それで、新は周助に一体何を言われて、今日のことを黙っていたの?」

 は一度きょろりと周囲を見回して、特に誰も居ないことを確認してから小声でそう尋ねてきた。この合宿のことだって、一ヶ月前にはもう決まっていたって聞いたけど。そう続けるの目は、怪訝に揺れている。一体何から話すべきか。新は少し悩んだ。けれど隠した所で直ぐに穴をついてくるだろうと思い直して、脱力した。食堂の丸椅子には背もたれがないため、脱力した先に前傾姿勢となり、そのまま頬杖をつく。

「まず周兄は何も悪くない。俺が手伝って欲しいって頼んだだけだから、周兄は責めないで」
「周助に頼んだって……じゃあこの件は新が考えたこと? 私を、この合宿に連れてくるってことは」
「そう」
「何で?」

 じっと、真っ直ぐに見つめてくる姉にじりじりと罪悪感がせり上がってくる。今更ながらに、こんな我が儘のために姉を利用すべきではなかったのでは、という思いが溢れてくるのだ。けれどもう随分前から考えていたことだし、今ここで行動を起こさなければ、他にタイミングもなさそうだったのだ。何度も刷り込ませた言い訳を此処でも自分に言い含めて、新は少し、から目を逸らした。

ちゃんと、テニスがしたかったから」

 彼女の目は見ていなかったけれど、その言葉に一瞬目を見開いて、それから息を止めた所まで分かった。テニスがしたかったからとこの言葉だけで新の考えの全貌が読める訳ではないだろうが、それでも幾分か彼女にも察しはついたのではないかと思う。しかしがその後考えるように黙り込んでしまったため、新はたどたどしくはありながらも、これまで考えていたことを話し始めた。
 最初からに追いつきたくて、とテニスがしたくて立海のテニス部に入部したこと。そのためにテニス部で頑張ってきたけれど、はテニスをやろうともしないし、自分がするという点においては何よりも避けていること。

「俺はずっと、ちゃんとテニスをする機会を探してた。でもちゃんは梃子でもテニスしたがらないし」

 それは、まあ、と言葉を濁すの方が今度は視線を落とす番だった。確かには幸村を応援していたけれど、お金の心配もなくなって、家事だって達を引き取ってくれた従姉の家へ行けばそれ程心配することにもならなかった筈なのに、まるで自分自身はテニスに触れることすら恐れている、禁忌としているようだった。
どうにかしてとテニスをしたい、と思っていたのは随分前だけれど、実際今しかない、と計画を固めだしたのはこの青学との合宿の話を聞いた時のことだった。この話を聞いた時に閃いたのだ。彼女をこの合宿に連れてこさせて、テニスに触れさせて、そして単身帰宅が困難な状況で、最終日に行われるとされている自由に試合をする時に、を試合に誘おうと。この先受験期に入ることになるし、そうなると彼女に試合をするよう仕向けるのも困難になる。この機会を逃す訳には行かなかった。
 だからこそ新は念入りに彼女を此処に連れてくるための計画を練ったし、周助にも相談して協力を仰いだ。周助は電話越しに新の計画を聞いて、「うん、いいんじゃないかな」と全面的に申し出を受け入れてくれた。新の計画には周助の協力が必要不可欠だったため、これには救われる気持ちだった。に気付かれず一方的に合宿に連れてこられる人間を周助以外に知らない。もしこの件でが周助を詰ることがあったら、それは自分の所為にして良いから、と言ったものの、それに対する周助の答えはいかんとも言い難いものだった。「僕も、のテニスが見たいし、もう共犯者だよ。どっちかがより責任が大きいとかじゃない」と言った周助だが、言い出したのは自分だ。全て責められるべきは自分だと考えていた。
 また立海サイドからは合宿に関する情報が漏れることのないように、時折部活の様子などを伝えているらしい柳にも事前にその話はしてある。そう多くの人にこの話をしたくはなかったが、合宿のことがに知れることによって計画が台無しになっては堪ったもんじゃない。仕方なしに子細を語ると、あまり自分からは話すことのない新が話しかけてきたことに驚いていたようだったが、彼もまた新の計画に協力的に働いてくれるらしかった。

「何でそんなにテニスしたがらないんだよ? テニスが嫌いな訳じゃないだろ」
「それは、そうだけど」
「もうちゃんがテニスを諦めなければならない理由なんて何処にもない」

 先程から彼女の視線はずっと机の上を彷徨っている。確かに最初は、母が家に居ない間母が家事の心配をすることのない様にとテニスを辞めて時間を作ったのだろう。けれど母がこの世を去って、自分たちが従姉に引き取られて。何ももう心配することはない。にも拘わらずこうまでしてテニスを避けているというのは、何か理由があるとしか思えなかった。何度かテニスをやらないのか、ということを姉が高校に入ってからそれとなく尋ねたこともあるが、いつだって答えは否とばかり。もういいのに。彼女はテニスを諦めなくたっていいのに。
 新の推測が正しければ、がテニスに関して自らに強いてるそれは強迫観念だ。自分はテニスをしてはいけないんだと暗示をかけ続けている。その辺りの本当のことは、自身でなければ正しく理解することは出来ないのかもしれないが。

「本当はテニスのことだけじゃない。大学のことだって、そうだよ」
「だっ、大学? 何でここで大学の話になんの?」
ちゃん、関西の大学に興味あるけど、それだと俺が神奈川に一人で残ることになるからって心配してる」
「何で」

 何で、には、何で知っているのと続くのだろうと、顔を上げたの目を見ながら思う。知っている、彼女がある教授の本を読んで感銘を受けたこと、そしてその方面に進みたいと密かに考えていること。そしてその教授が、関西のとある大学で講義を開いているということ。知っていて、そこで矢張り新のことを考えてしまって思いとどまっていることも。
 彼女の人生を制限しようだなんて新は思っていない。そもそも最初から、彼女に自分の首を絞めながら生きるようなことはして欲しくなかった。彼女は新に「好きなことをして欲しい」と言う割に、自分はその代わりとばかりに率先して自らを犠牲にしたがる。このままではきっといつまでも彼女は自分の首を絞めてる手に気付かずに生きてゆくことになる。そう考えたら恐ろしくなった。彼女の優しさに甘えて自由にしてきた身だが、自分の我を通してまで彼女を制限したいなんて思わない。ならばどうするべきなのか? ずっと彼女に甘えてきた今、何が出来る? 彼女の一番求めていることは何か? 分かりっこない。当人以外には分かりっこないけれど。

ちゃん、隠すの下手すぎなんだよ。色々」

 わしり、と片手で頭を掻き回しながら、は苦虫をかみ潰したような表情になった。自覚はあるが、この姉は新に対してめっぽう甘い。だからこそ、今回はそれを使わない手はない。今もきっと、新の言葉を咀嚼しながら受け入れる方向性で考えているのだろう。制限したくない等と言っておきながら、結局は彼女の優しさに甘える形になるのだから矛盾も甚だしい。自らの願望と、それから姉への懸念一体どちらがどちらなのかも分からなくなる感情を飲み込んで、新はもう一押しとばかりに言葉を紡いだ。

「俺は……俺はちゃんとテニスがしたい」

 ねえ、ちゃん。テニスしてよ。

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