1 視界に入らない人の

柳生比呂士が彼女の名前を認識したのは、あれは忘れもしない、彼が立海大付属中学校に入学して初めての定期考査での事だった。彼は自らの頭の良さを自負していたし、かと言ってそれを表立って自慢することもないが、内心ではそれなりに誇りに思っていた。学ぶことで知識を増やし、そしてそれを日常生活の中で応用できるようにすることは、自他共に認める紳士である彼にとって何よりのステータスになると考えていたのだ。それこそ学年一位を取るために、最初のテストだからとはいえ妥協などすることはなかった。だからこそ、彼は張り出された成績上位者を見て思わず目を見開いたものだ。何故ならば一位には柳蓮二、そして柳生比呂士と同位に、、と件の女子の名前があったからだ。今回彼の成績は自分でも上々であり、多少のミスを悔やむことはあったものの、平均点から考えてもこの点数ならば一位も疑うべくもないだろう。そう思っていた折の、この結果だった。
 しかし彼はこの結果に寧ろ安心してもいた。未だ自分の上にはこんなにも素晴らしい人間がこうもいるのだと歓喜すらしていた。一位でなかったことに落ち込むべき所だったのかもしれないが、それよりも彼は、この柳とという生徒に俄然興味が湧いた。それからである。柳生比呂士という人間が、「」という人間を認識するようになったのは。まず柳に関していえば、彼は傑出した頭脳によって収集したデータを生かした戦術を繰り広げるテニスプレーヤーだということは、彼を見ていてすぐに分かった。後に柳生も彼と同じテニス部として過ごすようになって分かったことだが、彼のデータ蓄積量は尋常ではない。彼が学年主席であることは十分に納得のいくものだった。

 そしてという人間は。
 そもそも彼女のことを、柳生はその名前を認識するよりも先に知っていたのである。と言うのも、彼女は入学早々この立海大付属中学校において広く知られている存在となっていたのだ。もし一般から外れた行動を「奇行」と呼ぶのであれば、その奇行で彼女を知らない者はいない、とそういった具合である。良い意味でも悪い意味でも――この場合は悪目立ちしていると言った方が良いだろうか、兎に角彼女を知らない者はいなかったのだ。その当時彼女の名前は定着する前だったために柳生もの顔と名前が一致していなかったのだが、噂の渦中の人間が自分と同じ順位であったと気付いた時には失礼だと思いながらも目眩がしたものだ。
さて、ここで彼女を語る上で欠かせないキーパーソンが存在する。それが幸村精市という男子生徒だ。

「幸村君! おはよう! 今日も一日頑張ってね!」

 何故なら。風のように現れ、燦然と輝くばかりの太陽の如き笑みと良く通る声で「挨拶」をし、そして返事も聞かずにまた颯爽と去って行くその挨拶の対象が、幸村精市その人であるからである。幸村は女子と見紛うばかりの可愛らしく綺麗な面立ちに、柔らかな物腰で入学当初から噂になっており、また彼が「神の子」と称されるようなテニスプレーヤーであり、名門であるこの立海大付属中学のテニス部で一年でありながら早々にレギュラーの座を獲得してからは一層注目される存在となった。レギュラーの座を獲得したのは何も幸村だけではなく、先の柳や、そして真田という男子生徒の併せて三人であり、彼らは「三強」と呼ばれテニス部の中でも別格の存在だった。そんな肩書きをも持つ幸村だったため、柳生の目から見ても、彼は異性から非常にもてはやされていたと思う。
 さて彼女の「奇行」が始まったのは、入学してから3週間ほどが経ってからだった。正直柳生にしてみればそれは奇行と言うほどのものではないと思ってはいたが、それでも目を引くのは確かだった。入学して3週間と言えば、ようやっと交友関係が固まってくる頃合いだろう。場合によってはどのクラスにどんな人間がいるのかという情報も流れてくるかもしれない。しかしその中で例え気になる人間がいたとしても、遠巻きに眺めて様子を見る――というのが一般的なのではないか。ここに彼女の行動が「奇行」と揶揄される所以がある。彼女はそう、他の誰もが様子見に徹している中、クラスも違い接点も何もなかった幸村に、ある日突然声をかけたのだ。柳生はその時偶然にも、恐らく初対面であっただろう彼らの会話を目にしていた。

「あの、私はと言うのですが、幸村精市君、ですよね。テニス部でレギュラーを取ったっていう」
「……ああ、そうだけど。俺に何か用事かな」

 少し話しておきたいことがあって、ああすぐ終わるから。そう彼女が話し掛けたのは、テニス部の朝練が終わった後、下駄箱でのことだった。登校途中の生徒達も多く見られる中で、幸村が来るのを彼の下駄箱付近で邪魔にならないよう待っていたらしい彼女は、幸村の姿を目に入れると実に嬉しそうに笑った。見方によっては告白とも取れる、そして恐らく幸村自身もそれに類するものだと感じさせる状況だった。入学早々これなのだから、きっと彼はこの先の人生も多くの人間に思いを寄せられるのだろうと柳生は早計にも思ったものだ。しかし続いて彼女の言い放った言葉は、その予想からは外れるものであり、些か理解に苦しむ物であった。

「私、幸村君のことを応援したくなったんです! それだけ! じゃあ、今日も一日頑張ってね!」

 本当にそれだけだった。彼女は満面の笑みで幸村にそう言い残すと、後は踵を返して走り去ってしまった。勿論、言われた本人も、また一部始終を目撃していた生徒達にも、結局何だったのか分からない。要約すると、応援したくなったから応援しますね、と言うことを、本人に告げに来た、と本当にただ、ただそれだけのことだった。
 それから彼女はほぼ毎日、幸村と顔を合わせるとあの満面の笑みを浮かべて「挨拶」をすることとなったのである。このような彼女の「奇行」は、莫大な生徒数を誇る立海大付属中学校内であっても瞬く間に広まり、彼女の存在は殆どの立海生に知られることとなった。彼女の好意が幸村に向いているのは誰が見ても明らかだと思われる。しかし、彼女はそれ以上の接触を幸村に対してしてこなかった。応援の言葉と、挨拶。それが毎日毎日繰り返されるそれだけだ。最初すらからかいや陰口の標的となったそれは一ヶ月もすれば立海生の日常と化し、そうして高校三年となった今となっては寧ろ、無ければ違和感を覚えるような、そんな立海名物、或いはお馴染みの光景となったのである。
 柳生がテニス部として幸村と行動を共にすることが多くなってからはそれも頻繁に目にするようになり、初めこそ、幸村の友人でもあり三強の一人に数えられている真田辺りは彼女の行動に目を光らせていたが、彼女はその「奇行」以外は非の打ち所の無い模範的な優等生であったために、次第に彼女を容認するようになった。そう、彼女は「奇行」を除けば実に品行方正で、服装検査で引っかかることも、素行を注意されることもなく、そして成績に至っては言わずもがな。それに学級委員長までこなしてみせる、そんな絵に描いたような優等生だったのである。また柳生は女性を外見で判断するのはナンセンスだと思っているが、そんな柳生から見ても彼女は中々に可愛い顔立ちをしている。入学したての頃は短かった彼女の髪が伸びてからはツインテールでいることが多くなり、今となってはそのツインテールは彼女のトレードマークも同然となっていた。そのツインテールも恐ろしく似合っていると柳生は考えているのだが、これは完全なる余談である。

 という具合で、柳生は直接関わることは無くとも次第に彼女のことを知ってゆくこととなったのだが、彼にはずっと疑問に思っていることがあった。まずそれは、彼女が現在に至るまで、本当に幸村への態度を変えてこなかったことだ。彼女は最初からずっと変わらない。変わらないままの関係を幸村と続けている。何よりも目立つのに、今となっては誰もの日常となってしまったその非常に曖昧な関係を。だがここでもう一つ柳生が疑問を抱いているのは余りにも幸村が彼女を視界に入れないようとしていることである。あれだけあからさまな好意を向けられていて、なのに彼が彼女について語っているところを、少なくとも柳生は見たことがなかったのだ。
 そんな二人だから、もう5年以上も続いているその関係は、ともすれば最初からないのではないかと思えることが柳生にはある。関係というものは初めからある訳ではない、作り上げてゆくものだ。そのためどちらかが意識を絶ってしまえば、あっさりとなくなってしまうものに過ぎない。今でこそ彼女のベクトルは幸村に向かっているが、もしもそのベクトルがなくなってしまえば、その瞬間から関係などというものはあっさりと消え失せてしまうだろう。誰もが認知する二人の関係であるようで、彼らの関係は実は恐ろしく細い糸で繋がっているに過ぎないのだ。本来であれば5年もあのように関係が続いているのなら互いの関係が密接になっていてもおかしくはないのに、近づくことも、かといって遠ざかることもない。だからこそ、柳生はあの二人の関係は最初からないのでは、と思うのである。彼女の言動は柳生には理解に苦しむものが多い。例えばそれは彼女の「応援する」というような奇行とされる言動ではなくて、後に増えた他の立海の女子生徒がこぞって行ったような「応援」、つまり練習を見に来て声援を送るだとか、差し入れや贈り物をするとか、時間を見つけて話し掛けに来るとか、そう言った類いのことを全くしなかったことにある。朝か、偶然会ってしまった時にだけ、声をかける。それ以上の深入りはしない。プラトニックと言えば聞こえは良いかもしれないが、立海にいると後者の方が「普通の応援」に思えてくるため、ずっと挨拶と並んで行われる「応援」と言うのは何年経っても違和感の拭える物ではなかったのだ。
 だからといって彼らの関係に首を突っ込む程柳生も野暮じゃ無い。だから柳生は今日も、幸村へ「一日頑張ってね!」と笑顔を向けるを横目に、教室へと向かうのであった。

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