little one


 姉は兎角人を「その気」にさせるのが上手い人だった。
 別段中心で目立つようなことをするでもなく、どちらかと言えば盛り上げ役というのが相応しい。みんなが仲良くすることは出来ないと分かっていて、みんなが活躍できるわけじゃないと分かっていて、それでも良いと謳いながら明るいほうへ連れて行く。そういった事が上手い人だった。
 姉が楽しいことを好んでいるのは確かだろう。学校行事は特に熱心に参加していた。しかし楽しければ良いで終わらせるような人でもなかった。何というか、姉のいるクラスは気合が違うのだ。

「いやだって、折角やるからには上を目指したいよね」

 以前それとなく聞いたときに、姉が口にした言葉だ。これでいて自分一人の努力でどうこうするような――例えば学生の本分である勉強には然程積極的ではないのだから、主張としては若干破綻しているが。それでも彼女のそういった情熱は確かに、口にしようがしまいが周囲の人を巻き込んでいった。
 とは言え学校行事は努力だけでどうにかならないことも多い。どれだけ情熱に溢れていても、1位を取れないこともあっただろう。それが実際に開催される前に察せてしまうことだってある。それでも彼女が放り投げてしまったことはただの一度だってなかった。

 だから、彼女が芸能事務所の「プロデューサー」になったと知った時、ひどく納得したものだ。アイドル激戦区と呼ばれることもある現代でトップアイドルを生み出さんとする姿は、まさに学生時代の彼女を彷彿とさせた。
 姉がプロデュースするアイドルたちのことも調べたが、なんとも多種多様で個性豊かというのが相応しい経歴の持ち主が多かった。とてもアイドルを志すようには思えない経歴の持ち主も少なくない。
 そんな彼らを一人ひとり見極めて、「その気」にさせて、アイドルとして明るい方へ連れて行く。実際に仕事をしている姿を見てきたわけではないが、その姿が容易く想像できるのだ。
 きっと姉は誰よりも、誰かの可能性を信じていたから。

 *

「降谷ー、降谷姉来てんぞ」

 高校一年の残暑が厳しい季節、零と幼馴染の景光が同じクラスだった時の話だ。二限目の休み時間に窓際の席で前後に並んだ景光と雑談に耽っていたところ、零はクラスメイトからそんな言葉を投げかけられた。
 零の姉は彼らの二つ上の学年で、小学校から高校まで進学先が同じだったこともあってか、零が入学すると「降谷姉」と呼ばれることが多かった。となると想像はつくかもしれないが、零は上の学年の生徒からは「降谷弟」と呼ばれる。まあこれも姉が卒業するまでの短い間の出来事だから特に気にしてはいないが、と零は自分を納得させていた。
 伝えてきたクラスメイトには分かったと返事をして立ち上がる。教室の出入り口の方に目をやれば、夏のセーラー服で身を包んだ姉が後ろ手に何かを隠しつつ、空いてる方の手をゆるゆると振っていた。やや恥ずかしい。「ちょっと行ってくる」と景光に断ろうと視線を落とせば、頬杖をつきながらの方を横目で眺めている。しかし直ぐに零の視線に気づいたのか、「お、行って来いよ」と言ってにっと笑った。言ってやりたいことが無い訳でもなかったが、取り敢えず姉のところに向かう。上の学年の先輩が来ているからか、何となくクラスの中が落ち着かない様子で、実際何人かはちらちらと姉の方を見ていた。

「れーい? 今日何か忘れたような気がしない?」

 数歩で姉の所まで辿り着けば、姉は機嫌よさそうにそう首を傾げた。零に対して上機嫌なのはいつものこととして、問われた言葉に腕を組む。とは言え、彼女の様子と今朝の自身の行動を思い返せば、大して考えなくとも答えは出てきた。

「……弁当か」
「ご明察。見事正解を言い当てた降谷零くんには景品としてお弁当を進呈です! おめでとう! はい」
「ん」

 案の定背中に隠されていた弁当の包みを差し出され、零は頷きながら受け取った。それを確認した姉は教室の中をちらと覗き込むと、「次は漢文なんだ」と首を傾げる。高く結ばれた黒髪がさらりと揺れた。
 と、そこに背中から「降谷先輩」という声が投げかけられた。自分のことではないと分かっていてもその呼称が何だかむず痒くて、零は唇を引き結ぶ。声の主は振り向かなくとも分かる、先程零を見送ったはずの景光のものだ。
 景光は零の幼馴染だが、同時に姉もまた彼の幼馴染である。姉が中学校に上がる前までは、三人一緒によくあちこちを駆け回っていた。流石に学校が別になってしまううようになってからは三人で遊ぶ機会も減少し、気づけば景光の姉の呼び方も変わってしまっていた。景光なりの姉への線引きなのかと最初は思っていたが、それだけではないのだと気付いたのは意外にも最近の事である。だからこそ、窓際で姉弟が仲睦まじく話しているのを見てつまらなく思ったのだろうか、それとも。

「今日って漢和辞典持ってますか」
「持ってますよ。忘れたなら貸そうか? 持ってくるよ」

 零の内心などいざ知らず。何食わぬ顔でやってきた景光がそう尋ねれば、はにっこりと微笑んでやや胸を張った。いや特に威張ることでもないぞ、とは思っても口には出さない。零は空気を読むという選択肢を選んだ。

「いえ、取りに行きます。ついてっていいですか」
「勿論いいよ? 零も来る?」
「いや、俺は教室にいるから。行くなら早く行って来いよ」
「悪いなゼロ。少し行ってくる」

 並んで教室から出て行った二人を見送りつつ、零はフンと鼻で息を吐いた。
 そう、降谷零は空気を読むという選択肢を選んだのである。

*

 幼馴染にこういう形で気を遣われるのがこんなにも恥ずかしいとは思わなかった。表面上はいつも通り――すましてると言われることもある顔で歩いてはいるが、意識は常に隣を歩くもう一人の幼馴染に向けられている。そのもう一人の幼馴染と言えば、別段景光のことを意識した様子もなく穏やかに微笑んでいた。
 折角ゼロが気を利かせたのに俺が気の利いた話の一つも出来なくてどうする、と脳をフル回転させて話題を探すが、口を開くよりも先にが景光の方を見上げた。

「景光くん、中学入ってから徹底して私の事先輩呼びするよね。しかも敬語だし」
「それはまあ、学校ですし」

 嘘だ。俺は学校じゃなくてもこの人の名前を呼ぶのを躊躇ってしまう。以前は容易く出来ていたことなのに、過去のほんの些細な意地で彼女を「先輩」と呼ぶようになってから、どんな風にその名前を呼べばいいのかを忘れてしまった。我ながら馬鹿のことをしていると思う。

「まぁね、確かに二人とも私と一緒に居ると何となく恥ずかしいのかもしれないけど。知ってる? 零なんか最近私の事「ちゃん」じゃなくて「姉さん」って呼ぶようになったんだよ」
「あー、そうですね」
「景光くんも昔は「ねえ」って呼んでくれてたのにね? なんか寂しいなあ」
「……ははは」

 これまで彼女がそこに言及してきたことはなかったからてっきり何も気にしていないのかと思っていたが、そんなことはなかったのだろうか。けれど今更「ねえ」なんて、もう呼べないのだ。きっとこの人は「そんなこと気にしなくていいのに」と笑うのだろうけど。
 「」と呼ぶには躊躇があり、「姉」と親しむには感情が行き過ぎてしまったから。
 
 彼女の教室にはすぐに辿り着いてしまって、教室の出入り口に下級生がいるという奇異の目で見られながらも、景光はロッカーから漢和辞典を探す彼女の姿から目を逸らさなかった。けれど無情にもすぐに漢和辞典は見つかってしまうし、彼女も見つかってほっとしたように此方に小走りで近寄ってくる。

「はい、漢和辞典ね。今日私これ使う授業ないし、返す時に私教室に居なかったら適当にクラスの子に渡しちゃっていいから」

 そういって笑顔で手渡された漢和辞典が、その分厚さに反してやけに軽く感じたのはきっと錯覚だったのだろう。景光は自分でも分かるくらいふわふわした心地で自分の教室まで戻ったのだった。

* 

 漢文の授業も終わり、昼休みになってのところに漢和辞典を持って行った景光だったが、先に言っていた通り教室に彼女の姿はなかった。がっかりした気持ちを隠せないまま彼女のクラスの女子生徒に漢和辞典を預け、とぼとぼと屋上への階段をのぼる。ローテンションのまま踊り場に辿り着き、屋上へと続く扉のノブに手をかけた。

 扉を開けば、カッと目を刺す光に一瞬目が眩んだ。

「やっと戻ってきたか」
「……悪いなゼロ。待たせた」

 目が慣れるよりも先に横から零の声が聞こえたため反射的にそう返す。細めた目を声のした方へと向ければ、フェンスに寄りかかって座る零がジト目で此方を見ていた。胡坐をかいた足の間にあるのは、午前中から受け取った弁当だろう。
 丁度昼の時間帯は日陰になるここは、零と景光の集会所になっている。
 景光も零の隣に腰をおろすと、持参してきた購買の袋からパンを取り出した。それを見て零も弁当の包みを解きはじめる。

「あと少しで先に食べ始めてたぞ」
「別にそれでも良かったんだけどな。それともちゃんと先輩の私物を返してきたのか心配で食べられなかったとか?」

 以前も景光は何度かから物を借りているのだが、一度どうしても彼女に手渡しで返したかったがあまり二、三日返せなかったことがあった。それを知った零が「いいから早く返してこい! 姉さんが迷惑するだろ!」と景光に食ってかかったことを受けての発言だったのだが、言われた当の零は涼しい顔で白米を口に運んだ。

「お前は漢和辞典学校に置いていってるから忘れるとかあり得ないって姉さんの前でバラしても良かったんだが?」
「分かった、悪かった、ちょっと煽りすぎた」

 景光は直ぐに両手を上げて降参のポーズをしてみせた。
 それから暫くは黙々と食事に集中していた二人だったが、先に食べ終わった景光がごろりと屋上に横たわった。そんなところで寝ると汚れるぞと言おうと思ったが、タイミング悪く零の口内にはおかずが詰め込まれている。早い所飲み込んでしまおうと咀嚼していると、仰向けで空を眺めていた景光が心ここにあらずといった様子でぼやいた。

「あーあ。降谷先輩卒業しちゃうのか」
「……実際学年二つ違うから俺達が同じ学校に居られる時間なんてそんな長くない。代わりに放課後は俺の家で顔合わせることもあるだろ」

 嚥下してからそう返せば、景光は分かってないとでも言いたげな顔で溜息をついた。お前のぼやきにも無視せず反応してる幼馴染に対してなんだその態度は。

「ゼロお前なあ、だからこそだよ。多分降谷先輩と同じ大学には行けないだろうし」

 確かに、警察官になることを目指す零たちとそうでないとでは、進学先は異なってしまうだろう。もし大学は他県へということになれば、猶更彼女と接する機会は激減してしまう。理屈としては分かっていても、普段から家に帰ればいる彼女の姿が日常から消えるという光景を零は中々想像出来ずにいた。あまり考えないようにしていたというのもあるかもしれないが。
 とそこで景光の発言の中に気になるものがあった零は、未だ辛気臭い顔をしている景光に顔を向ける。

「ヒロって姉さんの進路聞いてるのか?」
「聞いてない。聞いたら卒業が現実味を帯びる」
「おい」
「そういうゼロは聞いてるんだろ? 先輩の進路」

 そこで奇妙な沈黙が落ちた。景光はゆっくりと目を見開くと、信じられないものを見たとでも言うかの様な表情で零を見つめる。やめろ。態々上体を起こすな。
 
「えっ知らないのか、自分の姉の事なのに」
「自分の姉だからって姉のことを何でも知ってるとは限らないだろ!」

 何だか自分で言ってて切なくなってきた。そんな零の心情を察したのか、景光は「あー」だの「そういうこともある」だの慰めてるのか何なのかよく分からないことをもごもごと口にしてから、この件について触れるのをやめようと決心したのか「そういえば」と話を変えてきた。

「先輩がさ。俺が降谷先輩って呼ぶようになったの気にしてた」
「それはそうだろ。お前が最初に先輩呼びした日、姉さんお前に嫌われたかなってめちゃくちゃ落ち込んでたし」
「は? 聞いてない」
「言ってないからな」

 景光は完全に沈黙し、ゆっくりと上体を横たえた。互いにそれ以上何かを話す気にはなれなかった。

*

 その日の下校時、珍しく姉の姿を見つけた。夕焼けの中三十メートル程先を歩く姉には、特に追おうとしなくても歩幅の違いから帰宅までには追い付けてしまうだろう。
 追うべきか、追わざるべきか。そんなことを迷っている内に、突然姉が歩みを止めた。何事かと思って零も立ち止まると、くるりとが振り返り、零に向かって小さく手を振る。まさかバレていたとでも言うのか。
 取り敢えず気付かれてしまったなら仕方がないと、零は周囲に知り合いがいないのを確認してからやや駆け足で姉のもとへと向かう。は零が隣に来たのを確認すると満足げに頷き、再び歩き始めた。

「後ろから来てるの俺だって分かってたのか」
「いやそんなことはないよ。何か後ろにいるような気はしてたけど」

 しかし振り向いた瞬間にはもう彼女は手を振り始めていたように見えたから、この発言は疑わしかった。実質バレていたと考えて良いだろう。

「景光が借りた漢和辞典受け取ったんだよな?」
「うん。お昼用があって教室居なかったんだけど、ちゃんと机の上に戻ってきてた」
「用っていうと文化祭の実行委員か」
「そういうこと」

 時期と普段の姉の発言から推察すれば、やはり正解だったらしい。いつもこういった催し物に実行委員として運営に関わっていることの多い彼女は、開催が近付くにつれてあちこち走り回って捕まえ難くなるのが常だった。

「そうだ、実行委員で零の話になってね。優秀な弟だってことをありったけ主張しておいたよ」
「やめてくれ……」

 時折姉はこうして零を自慢したがるから困る。思えば幼少期からずっとそうだった。徒競走で一位を取れば零より先に親に伝えに行くし(それが嫌で駄々をこねて姉に謝られた記憶もある)、模試で一位を取れば零の何倍も大喜びしていた。流石にテストのことを人に言いふらすのは良くないと姉なりに考えてはいるのかそういった事実を人に話すことはないが、それでも喜々として弟の自慢をしようとするのは昔から変わらない。
 まあ困ってはいても正直嫌な気はしないし、期待されるのも悪くないと思ってしまうし、姉もそれを分かってやっているんだろうが。

「こんなに優秀で更に正義の味方になるっていうんだから、もう国民栄誉賞を与えられるべきだよ。日本国の誇る日本男児だよ。きっと零は警察学校も首席で卒業するんだろうなあ」
「流石に言いすぎだ、それにまだ警察官になれるとは決まってないだろ」

 弟のことなのに自分について語る時の数倍浮かれている姉に、零は呆れた声を上げた。
 確かに零は以前から警察官になることを夢見ているしそれを姉に伝えてもいるが、本当になれるかどうかはその瞬間になってみるまで分からないものだと思っている。主席も、……特に考えていなかったが、そんな風に言われると取れるような気がしてしまうから恐ろしい。
 はじいっと零を見上げてきた。零と同じ色をしたそれに「何」とぶっきらぼうに返せば、その色がすっと細まる。

「零がなるって言ったのなら、零は警察官になるよ」
「なんだそれ」
「ならないの?」


*

 薄暗い倉庫の中、男は座り込んだまま壁に凭れ掛っていた。辺りは油臭さに満ちているが、男は項垂れたまま動く気配もない。しかしそれもやむを得ないだろう、とこの光景を見たものなら一瞬でも思うはずだ。
 何故なら、その男の脇腹から下半身にかけて赤黒い血で染まっており、そのまま床にまで血が広がっているのだ。出血多量なのは明らかだった。
 このままでは失血死してもおかしくないが――その時、男の指先がピクリと動いた。ふるりと長い睫毛が揺れ、やがてその向こう側から青い瞳が顔を覗かせる。暫くぼんやりと虚空を見つめていたが、自らの置かれた状況を思い出したのかある時一瞬で彼の纏う空気が張り詰めたものへと変化した。

「……ハッ」

 男の口から渇いた笑いが漏れる。
 走馬燈とでも言うつもりか。この状況下で思い出すのがまだ夢だけを見ていたころの俺と幼馴染と、姉なんて。
 ――随分懐かしい、夢だったが。

「シスコンか、俺は……」

 自嘲の滲む声音とは裏腹に、男の表情は酷く穏やかだった。

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