"おかえり"と


 降るたびに寒さの増す秋雨の頃。今日も例に漏れず、しとしと雨がアスファルトを濡らす。
 ――プロデューサーになってから何度目かの秋の夜を、は傘をさしながら歩いていた。左手にはコンビニで調達した食料がレジ袋に詰まっている。肌寒さにふう、と息を吐いてみたが、白くなるにはまだ遠いようだ。

 あれ、と思ったのは、がアパートの自分の部屋がある階に到着した時のことだ。廊下が妙に明るいと思ったら、それもそのはず、廊下側にある台所の窓から明かりが漏れている。そしてそれはの部屋の窓からだ。思わず立ち止まって考えてしまう。はて、電気、消し忘れたっけ?
 1DKの我が家は玄関から入ればすぐにダイニングキッチンに迎えられる。朝出かける時も当然ここを通って出かけるし、朝起きればダイニングの電気は点ける。だからここを消し忘れて仕事に出てしまった可能性は否定できない。
 しかし、だ。問題はそこなじゃくて、廊下側に漏れている明かりの色。オレンジがかった照明、あれは間違いなく台所の手元を照らす照明の色だ。それが点いているのが不審でしかない。
 だっては、自慢することではないが、朝食で自炊はしない。つまり朝起きて台所の照明を点けるのはありえない。前日の夜点けていたにしろ寝る前に気づくだろうし、万が一そこで気づかなかったとしても朝起きれば夜点けっぱなしだったことに気付いて消すだろう。
 などと色々推理してみるが、実際のところ確かめてみなければ先には進めない。加えて今日のは疲労が蓄積していた。近頃はアイドルたちにも安定して仕事が舞い込んでくるようになったのは大変嬉しいが、どうしても事務所に人が足りない。アイドル達にセルフマネジメントしてもらうにも限界がある。今度また社長に人を増やしてもらえるよう直談判すべきだろう、とそこまで脱線して首を振った。いやいや、今考えるべきはそこではない。話を戻すと、疲れているのでさくっと確かめて明日に備えたいのだ。

 いつでも通報できる状態にしたスマホを左手に準備、まだ雨粒の残る傘を右手に装備。オーケー、突撃準備は完了だ。まず足音を立てずに部屋の前まで進み、扉の前に立つ。……なんてことだ、換気扇の回ってる音までしている。これはもしかすると、もしかして、本当に不法侵入某なのではないか。
 ごくりと生唾を飲み込み、恐る恐る鍵を取り出す。一度傘を脇に挟んで、右手で鍵穴に鍵を差し込む。ガチャリ、回った。鍵はかかっていたらしい。その事実に冷や汗が出てくる。いいやでも度胸! 女は度胸! と心を奮い立たせてドアノブを握ったその瞬間、が力をかけた以上の勢いでレバーが下がり、の側へとドアが開いた。咄嗟にドアから離れて傘の切っ先を扉へと向ける、が。

「おかえり」
「は?」

 人間、あまりにも想定外の事が起こると思考が停止してしまうというのは、あながち嘘じゃないのかもしれない。威圧するような声だけが出て、後は構えた傘もそのままに眼前の人物をまじまじと見つめてしまう。
 彼もそんなの様子が意外だったのか目を見開いて瞬きを二つほどしたが、何か納得したように一人頷くと、にっこりと微笑みながら先の言葉を繰り返した。

「おかえり」
「た、ただいま……」

 今度は思わず条件反射で返事をしてしまった。
 そう、今目の前に立っている人物は不審者ではないが、の家にいるのもおかしい人物。即ち――降谷零、或いは安室透、或いはバーボンだか何とか。要するにの実の弟だった。
 意味が分からない。彼とはここ一年また音信不通だったし、ニアミスすらしていなかった。働いていた喫茶ポアロも辞めたのだと風のうわさで聞いてもいた。しかし眼前に立っている金髪褐色の男は間違いなくの弟だ。
 混乱しながらも傘をおろす。いや何故急に此処に?

「取りあえず、中入ったらどうだ? 寒いだろ」
「ああ、うん、うん?」

 何で私は自宅に招かれてるんだ。そうは思いつつも、特に拒否する理由もなかったため、取り敢えずいつも通りに部屋に入り、靴を脱ぐ。その隙に彼はの手からレジ袋を奪い取ってダイニングに持っていってしまった。その後ろ姿につられて顔を上げれば、ふわりとかおるご飯のいい匂い。何だか急に元気が出てきたは傘を玄関先に吊るして彼の後を追う。

「ゼリーとバーって……どっちも栄養補助食品じゃないか。いつもこんなものばかり食べてるのか」
「食べてる時間がなかなかないから」

 勝手にレジ袋の中身を確認していた男は、そう呆れた声を上げてを振り返った。やや肩身の狭い思いをしながらもそう返せば、「体の基本は医食同源、なんだろ」と聞き覚えのある台詞が耳に入る。耳が痛い。しかし特に言い返せずにダイニングに足を踏み入れて驚愕した。
 そこにあったのは、テーブルいっぱいのほかほかご飯。非の打ち所がない美味しそうなご飯。この家のダイニングテーブルは一応二人掛けを想定したサイズなので、そこそこ大きさがある。そこに所狭しと料理が並んでいるのだ。わかめご飯、きんぴらごぼう、セロリのおかか炒め、白身魚の甘酢あんかけ、エトセトラ。これに驚かない筈がない。そもそも、此処には二人しかいないけど、この量を誰が食べると言うのだろう。もしや二人で食べきるとか言い出すんじゃあるまいな。
 次から次へと湧き出る感情を何とか抑えつつ、ジャケットを脱いで椅子の背もたれにかける。彼はもう椅子に座っていて、が席に着くのを待っていた。有無を言わさずとはこのことか。

「じゃあ、食べようか。いただきます」
「い、いただきます」

 行儀よく手を合わせた彼に倣って、もまた食前の挨拶をしてから箸を手に取る。が、やはり納得がいかなくて箸を出すにも迷ってしまう。というかよく見ればこれ、並んでいる料理ってどれも私の好物ばかりではないだろうか。これ全部彼が作ったのだろうか、いや、作ったんだろうなあ……。お惣菜って感じじゃないもんなあ。
 もりもりと元気にご飯を口に運ぶ男をぼんやり見つめていると、彼は不思議そうに顔を上げた。

「姉さんこれ好きじゃなかったっけ」
「いや、好きなんだけど、なんか現実味がなくて」
「姉さんのために作ったから、早い所感想が欲しいんだけど」

 何だよそんな風に言わないでよ食べるってば。絶妙な恥ずかしさと嬉しさの中でまずセロリのおかか炒めを口に運ぶ。

「お、おいしい……」
「だろ」

 正直男の腕を侮っていた。は震えながら口元を抑える。自信満々な様子の彼にも納得だ。の反応が期待通りだったのか、満足げに笑みを浮かべる。いつの間にこんなに料理上手になったのだろう。
 そも、理由あって口外禁止のミステリアスなカフェ店員兼探偵の安室透はもう良いのだろうか。或いは謎の色気を醸し出しながら女性を口説いていたバーボンとやらはもう良いのだろうか。……は安室透の姉でも、バーボンの姉でもない。しかし今目の前の男は間違いなくのことを「姉」と呼んでいる。ということは、今目の前でぱくぱくわかめご飯を食べている彼はつまり。

「零、なんで私の家に居るの?」

 の弟、『降谷零』で間違いないだろう。

*

 零は「まず食べ終わってから、話はそれから」と言い、お互い満腹になると残った料理を持参してきたらしいタッパーに詰め込んで冷凍庫に仕舞い、片付けをはじめ、更にその間に風呂に行くように指示を出してきた。いやその隙に帰られても困る、と行くのを渋っていると、察したらしい零は「別に料理振舞うためだけに来たわけじゃないから」と苦笑してタオルを渡してきた。此方は紛れもなくの私物のタオルである。不法侵入のほかにも思う所が増えてしまった。家探しは良くないです。
 タオルと受け取って、下着と寝間着を片手に渋々脱衣所に向かう。何とも落ち着かなかった。家に自分以外の人がいる、確かにそれもある。けれど、零が近くにいるというその事実が、――悲しいかな、違和感に思うなんて。

「姉失格、かなー……」

 湯船の中ではぁ、と溜息が零れる。大学に入るまではあんなに一緒にだったのに、大人になるとはこういうことか。
 元気そうな弟の姿が見られたことに関しては、嬉しいと思う。音信不通になってから、音信不通になる前も、心配してなかった訳じゃない。便りのないのはよい便りだと信じて、信じ込ませてた。もう一人ずっと音信不通のままな幼馴染にしてもそうだ。それでもきっとどこかで元気にやってるだろう、どこかで315プロダクションのアイドルたちの歌を耳にしてくれているかもしれない。そんな風に自分に言い聞かせて今日まで生きてきた。多分、これからもきっとそう。
 だから、突然こうして「降谷零」として近くに居られるとびっくりしてしまう。以前、零とポアロで再会した時にはあんなにも沢山言ってやりたいこともしてあげたいことも湧き出てきたのに、いざ対面してみればどうだ。零に、一体何を言えばいいのか。
 彼に関する疑問なら沢山ある。バーボンって何? ところで、零ってああやって女の子口説くの? 手法を否定するわけじゃないけど、あんまり強引なのは嫌がられることもあるから気を付けなね。そういえば、何度か緑色の背広の男性に会ったけど、彼は零の知り合いなの? 警察官って言ってたけど。安室透って名前はいったいどこから来てるの? 零の事「安室さん」って呼ぶたびにむずむずして仕方なかったけど、零も慣れないなーって顔してたから、もうちょっと演技には気を付けた方が良いかも。あ、そうだ、今度私の事務所のアイドルが新しいスマートフォンのCMに。

 ざば、と湯船からあがる。考えていても埒が明かない。折角本人がいるこの機会、顔を合わせる時間を大事にしなくて何とする。何を話せばいいとかそんなことは顔を合わせた時に考えればよろしい。仕事じゃあるまいし。
 さっさと身支度をして脱衣所を出ると、椅子に腰かけてぼんやりと部屋を見つめる零の横顔に出会う。テーブルの上には二つ湯飲みが置いてあって、どうも彼はが出てくる時間さえも予測していたらしい。

「これは?」
「梅昆布茶」

 湯飲みの中を覗き込みながら零の正面に座れば、間髪入れずにそう答えが返ってきた。ちゃんと意識はあったらしい。うちに昆布茶はないから、これも彼が持参してきたのだろう。用意周到だ。折角いれてくれたんだしと風呂上がりの一杯をいただいていると、その間に零はごそごそと足元の黒いリュックから何かを取り出した。
 黒い、トランシーバーのようにも見えるそれを、零はテーブルの中央に置く。

「これ渡しとくから」
「何これ?」
「盗聴器を探す機械」
「盗聴器を探す機械」

 非日常的な単語に思わず鸚鵡返ししてしまう。零はそんなの様子も気にすることなく、頷きながら続ける。

「来た時に調べておいたけど姉さんの家には無さそうで安心した。けど今後もそうとは限らないから定期的に調べてくれ」
「それなんだけど……零、どうやって家に入ったの」
「まぁ人の家に入る方法は色々ある」
「零」
「……工具を使って鍵を開けた」

 ぷい、と顔をそむける零には片眉を上げながら腕を組む。

「私が帰ってくるまで待てなかった? 或いは連絡を入れるとか」
「連絡は……出来なかった。それに姉さんの家に行くにしても、先に確認しておかなければならないことがあって」
「盗聴器とか?」
「まあ、そう」

 顔を背けているところを見ると、後ろめたいとは思っているのだろう。だってこんなことを言いたかった訳じゃないのに、流石に言わない訳にもいかなくて、ふーっと息を吐きだした。

「最初は」
「うん?」
「最初は、料理だけ作って帰ろうかと思っていた。けど確実に通報されるし料理は食べてもらえないだろうと思ってやめた」

 零の発言から想像してみて、まぁそうだろうなと頷く。帰ってきたら誰もいないのに料理が並べられているのはサプライズではなくホラーだ。確実に警察に連絡するだろう。料理も残念ながら廃棄だ。

「さっきも料理振舞うためじゃないとは言ったが、実際のところそのまま帰るかどうか悩んでた。姉さんの顔は見れたし、それで良いとも思った」

 少しだけ俯いて自嘲するように言った零を、は腕を組んだまま見つめた。彼の瞳は見えず、の視界に映るのは零の頭頂部だ。
 
「姉さんのことだから、聞きたいことは沢山あるかもしれない。でも聞かれても話せないことばかりなんだ。今も……本当は話すべきなんだろうが、話せないことが沢山ある」
 
 は、少しだけ考える素振りをした。
 
「……確かに私は、沢山、聞いたいことも、聞こうと思ってたこともあったんだけど」

 ガタ、と椅子を引く音がして、零は少しだけ顔を上げた。しかしそれより先に頭上に伸びてきた手が、零の頭に乗った。かと思えば突然ぐしゃぐしゃと髪をかき乱し始める。

「なにす」
「警察学校卒業おめでとう」

 驚いてやめさせようと伸ばした手は、の言葉で止まった。

「卒業したってメールだけで、言えてなかったよね」
「配属もおめでとう」
「料理凄く上達したよね」
「色んな事も覚えたみたいだし、何か姉としては複雑な気持ちになるようなことも覚えたようだけど」
「毎日頑張ってる」
「人の事言えないけど、ちゃんと寝なきゃだめだよ」
「あと」

 かき乱す手が止まって、零はやっと恐る恐る顔を上げた。視線の先にあったのは、泣きそうなのを堪えている姉の顔と、その瞳の中で情けない顔をした自分自身の姿。

「誕生日、おめでとう。かける、もういくつになるの? まぁいいや。沢山、誕生日おめでとう」
「はは……何だそれ」

 言い方に笑えば、も同じ様に笑った。そしてはそっと視線を落とす。

「零には、聞きたいことだけじゃない。言いたいことだって、伝えたいことだって沢山あるんだよ、私は」
「……そうか。じゃあ俺も、姉さんに言いたかったこと、沢山あるな」

 えっ何、と零の頭から手を引っ込めて身構えるに、零はふっと息を漏らした。

「プロデューサー就任おめでとう」
「えっ、うわ」
「オリコン、時間がある時は確認してる」
「うそ」
「この間、渋谷の街頭でプロモーション流れてたの見た」
「本当!?」

 最初やや引き気味だったのが急激にテンションがが上昇しているのがありありと分かるを見て、零は苦笑を浮かべる。ある意味分かりやすい。

「あと、姉さんも誕生日おめでとう」
「あー、うーん、なるほどね。これ恥ずかしいね」
「姉さんが言い出したことだろ」
「確かに」

 顔を見合わせて、今度は同時に笑った。暫く余韻に浸っていられればいいのにと思ったのも束の間。零のスマートフォンが着信を告げる。

「お兄さん、携帯鳴いてますよ」
「……そろそろ行かないと」
「そっか」

 自分の分の梅昆布茶を飲み干して徐に立ち上がる零に倣い、もまた席を立つ。あくまでもこの場で連絡を取るつもりはないらしい。鳴り続けていたスマートフォンを止めたのを横目で見ながらそうは思う。
 はここで零を引き留めることは出来ない。もう少し休んでいけばいいのに、と言えたらどんなに良かったかだろう。でももしかすると、彼が今ここにいること、この時間までと話していたことこそ零にとっては大変なロスなのかもしれない。そんな中態々会いに来てくれた弟に対して、がかけられる言葉は。

 玄関先まで見送って、靴を履き終わった零がドアノブに手をかける。

「じゃあ」
「零」

 被せる様にかかったの声に、立ち止まる。しかしドアノブは下ろしてあり、あとは彼が外側に力をかければ扉は容易に開くだろう。

「いってらっしゃい」

 ああ、今自分は、最高に情けない顔をしている自信がある。
 振り向きたくなる気持ちを抑えて、零は下ろしたノブをそのまま押して、外へと足を踏み出した。





「――いってきます」





≪END≫

inserted by FC2 system