Blind Blue


 上司から話を聞く以前から、風見裕也は彼女を知っていた。

 空を覆う蝉時雨に閉口した茹だるような夏の日の記憶。風見はあの日、とある人物の調査と尾行をしていた。勿論公安の仕事だ。対象はかなりの時間炎天下を歩き続けたため、途中他の捜査員と尾行を交代しながらではあったが、結果的に風見も長時間灼熱の太陽に晒され続けることとなった。
 だからこそ、それはある意味当然だった。庁舎への帰途、交差点の前。信号を確かめようと見上げた先にあった日差しに、目が眩んで――気づけば、後ろから誰かに支えられていたのだ。

「大丈夫ですか?」

 それが善意かどうかは関係なく風見の体は強張った。幾ら熱で体力が低下していたとはいえ、こうも容易く背後を取られるなどあってはならないことだ。未だ暗転した視界の中、風見は「大丈夫です」と答えながら一人で立とうとする。が、平衡感覚がおかしくなっているのか、立っているのすら覚束ない。
 明滅する視界の中で振り返れば、少しずつ風見を支える人の姿が見えてくる。ジャケットを羽織ったパンツスーツ姿の女性だ。さすがにジャケットの前は開けていたが、この酷い夏の日差しでよく、とこの状況そっちのけで呆れずにはいられなかった。
 一方、そんな風見の思考など知る由もないその女性は、心配げな顔で風見の顔を覗き込む。……あまり顔を覚えられたくない。そう思って、風見は少し顔をそむけた。

「あの、お兄さん大丈夫じゃないと思いますよ。顔真っ白です。丁度後ろの公園にベンチありますし、そこで少し休みましょう」
「いえ、私は」
「……お忙しいのかもしれませんが、今無理して動くより、少し休んだ方が良いです」

 行きましょう、と背を押されて、風見は思考する。一応善意で言っているように見えるが、何らかの目的で風見という公安の人間に接触してきたとは考えられないだろうか。纏まらない思考の中、風見は何とか理由を付けてこの場を離れようとしたのだが。

「お兄さん」

 彼女のその瞳に強く上司を想起してしまい、結局断ることも出来ないままベンチに座る運びとなった。





「立ち眩みか、熱中症か……この時期にスーツは厄介ですよね」

 木陰の下。冷えたスポーツドリンクを手渡された風見は、僅かに考えてから受け取った。一応さり気無く蓋を確認するも、未開封のもの。先程彼女が自動販売機でこのスポーツドリンクを購入していたのを確認していたが、別段不自然な動きはなかった。とはいえ、彼女の素性も知れない以上、軽率に飲むわけにもいかない。しかしせめてもの好意は受け取っておくべきだと思い、風見は感謝の意を述べてからその冷えたペットボトルを首筋に当てた。

「すみません、ご親切に」
「いえ、実はお兄さんを見ていたら何となく弟のことを思い出してしまって」

 お隣失礼しますね、と断りを入れた女性は、人一人分程の距離を置いて風見の隣に腰を下ろした。彼女の手にも風見と同じスポーツドリンクのペットボトルが握られており、すぐにパキリと音を立てて開封すると、そのまま一度に半分程飲み干す。どうやら彼女も随分喉が渇いていたらしい。
 女性が一息ついたのを見計らってから、風見は口を開いた。

「弟さん、ですか?」
「はい。もうずっと音信不通なんですけど、お兄さんみたいに頑張ってるのかなと思って。すごく優秀な弟なんですけど、一人で頑張りすぎるきらいがあって……そこが誇らしいような、心配なような」

 弟のことを嬉々として語る彼女は目に見えて元気に満ち溢れており、風見はそんな彼女を横目で捉えつつ「そうなんですか」と目を細めた。人前でも身内を褒めるくらいだ、例え連絡が来なくとも彼女は弟のことを大切に思っているというのが態度に表れていた。仮に本当に、彼女に弟が存在するのならばだが。

「弟さんが何をなさっているかはご存じなんですか?」
「えぇ、多分警察官だと思うんですけど」
「警察官……」

 取り敢えず探りを入れてみよう程度の質問だっただけに、この返しには少し瞠目した。そして先程の彼女の言葉と結びつけて、もしかすると、と一瞬考えてしまう。

「多分、というのは」
「警察学校を卒業したのは知っているんですけど、どこに配属になったとかいう連絡も来てないですし。その頃からずっと連絡出来てないですね。流石にくたばってはいないと思うんですけど」

 初対面の女性の口から出てきた「くたばってはいない」という表現にやや衝撃を受けながらも、彼女の弟の所属に思いを馳せる。
 例え身内であろうと明かすことが出来ない。警察内には、そういう部署も存在する。何しろ、風見自身が警視庁公安部――身内にさえ伝えることの出来ない部署に所属している。
 彼女の弟もまた、自分の似たような所属なのかもしれない。否、或いは風見が公安警察だと知っていながらカマをかけてきた可能性もある。
 職業病だと理解しつつも、疑うことはやめられない。休んで幾分回復したらもう去ろうと思っていたが、このままもう少し彼女について探ってみることにした。

「この暑い日にジャケットを着ているというのは、営業職ですか?」
「ええと……実は駆け出しのアイドル事務所の、プロデューサーをしてまして」
「プロデューサー、ですか」

 プロデューサーというと何となく華やかな人間のイメージがあるが、彼女は華やか、というよりは清楚な外見をしているように思える。黒のスーツだから華やかさに欠けるというのは確かにあるかもしれないが、世のプロデューサーとはこういうものなのだろうか。
 やや首をかしげていると、やや熱が入ってきたのだろうか、彼女は大きく頷いた。

「はい。でも肝心のアイドルがまだ居ないので、今はスカウトに徹している所です。でも必ずトップアイドルを輩出する事務所になるので手は抜けないですね」
「そう、なんですね。因みになんという事務所なんですか?」
「315プロダクション、と言います」

 その時聞いた名称は確かに、当時は聞いたことのない芸能事務所のものだった。ただ、無名であろうと事務所の名を告げた時の彼女の表情があまりにも楽し気で、風見は疑心を抱くことに少しだけ罪悪感を覚える。そんな気持ちを紛らわすように、風見は更に質問を重ねた。

「何故、プロデューサーになろうと思ったんですか?」

 少し踏み込み過ぎただろうか、と思ったのは口にしてしまった後である。しかし彼女は気分を害した様子はなく、照れたようにはにかみ、首の後ろをかいた。

「まだ、私の中でも明確にこれという理由があるわけではないのですが……人が輝くところを見ていたい、といいますか。その人が光の中に立っているところを見てみたい、今はそんな風に考えています。それに……」

 彼女は不意に顔を上げる。その視線の先には、全力で駆け回る子供たちや、それを見守りながら談笑する親たち、外回りだろうサラリーマン、ギターをかき鳴らす青年など、多種多様な人たちがいた。

「私のプロデュースした人たちの光が、誰かを照らして、寄り添って、笑顔にすることが出来たら、それってすっごく素敵なことだなって思うんです」

 決意の滲んだその瞳が上司に似ていると思ったのが決して錯覚でないと分かったのは、随分後になってからの話だ。

*

 あれから1年程が経過した。国民的アイドルが移籍したことが話題を呼び、風見も度々「315プロダクション」という芸能事務所の名前を耳にするようになった。そこで初めて、風見はあの女性が言っていたことは本当だったのかと納得したものだ。

 そして風見裕也は今、難しい顔でハンドルを握る上司の隣で、何故か件の事務所に所属するアイドルの歌を聴いている。明るく前向きな曲が多く、なるほど確かに彼女がプロデュースしているのだろうと思わされた。
 数曲連続で流れ、そろそろ霞ヶ関に入るという頃になって上司が音楽を止めた。途端、沈黙と共に重苦しい空気が車内に広がる。それは決して、低く広がっている冬の雲だけの所為ではないだろう。

「……今のが、降谷がプロデュースするアイドルの曲だ」
「はい」

 降谷。上司と同じ姓を持つその人物は、写真も見せてもらったがどうもあの日風見が出会った女性に相違ないようだった。そして秘密の多い彼が身内のことを話したのは、単に姉自慢である筈もなく、きちんとした理由がある。
 近頃安室透の周辺に探りを入れている人間がいるのだ。安室透と降谷は積極的に会う仲ではないが、それでも度々顔を合わせてしまっている。彼の潜入する組織への掃討作戦が決行される日が近いこともある、彼女の身辺警護を頼みたい。杞憂かもしれないが、念には念を入れておきたい、というのが上司の言だった。風見はそんな上司を少しだけ意外に思う。何となく、彼が自分に身内のことを頼むような人じゃないと思い込んでいたからかもしれない。

「風見」

 赤信号で止まった瞬間上司はそう声をかけてきた。はい、と頷けば、上司はちらと風見を横目で見やり、それからまた視線は前へ。

「……あの人を頼む」

 そこに滲んだ声音が「命令」でなく「懇願」に寄っていたからこそ、風見は必ず守り抜いてみせようと心に誓った。本来なら、掃討作戦が決行される前だからこそ上司とのやり取りは綿密なものである必要があるのかもしれない。しかし、上司はそうせずに姉を守る任を言い渡した。それに思わない所がないと言えば嘘になる。
 だが、滅多なことではプライバシーに踏み入れさせない彼が見せた信頼に、応えることが出来なくて何が部下か。決意を込めて頷いた風見に、上司はそれ以上何も言わなかった。

 ところで警護をする上で本当に曲を聴く必要があったのかどうかは聞かないでおくことにした。

*

 吐く息は白く。彼女の纏うカーキ色のコートは、この季節にはそろそろ寒さを感じるだろうやや薄手の布地だ。出会ったあの時はスーツ姿だけで暑くはないのか訝しんでいたのに、季節が違うだけでこうも心配になってしまうものなのか。実際寒くはあるのだろう、今日一日だけでも何度か手をすり合わせて息を吹きかけている所を目撃している。
 普段はアイドルについてまわっており、それ以外は事務所で作業をしていることが多いようだが、今日は午前中はアイドルの仕事についていったものの午後は外を歩き回って偶に道行く人に声をかけていた。
 そんな彼女の周辺に目を光らせつつ警護を行っていたが、急に激しく雹が降り出した。ばらばらと音を立てて降り注ぐ雹に彼女が慌てて近場のドラッグストアに駆け込むのを見て、風見もその近くのコンビニの屋根の下で天気が落ち着くのを待つことにする。それにしても雹の予報なんてなかったのに、一体いつ止むのだろうか。

「雹、やみませんね」

 飛び上がるかと思った。
 ぎょっとして隣を見れば、先程ドラッグストアに消えていったはずの彼女、降谷の姿がある。いや、何故彼女が此処にいる。風見は確かにドラッグストアに入っていく姿を見ていたし、その後も彼女が店から出てきた様子はなかった筈なのだが。上司が神出鬼没なのは知っていたが、その姉まで神出鬼没とは聞いていない。降谷の姓を持つ人間は特殊な技能を身に着けているとでも言うのだろうか。
 何も言えずにいる風見を見上げた彼女は、にっこりと微笑んだ。

「お兄さん確か、以前お会いしましたよね。あの時は夏でしたっけ」
「はい。……あなたは今日も、スカウトですか」
「ええ。お兄さんもお仕事ですか」

 はいと肯定しつつ、彼女のどこか確信めいた言葉に上司の話を思い出す。
 上司は、姉にはどこに所属しているかは伝えていないと言っていた。だが、察しのいい人だから凡その検討位はついてしまっているだろうとも。そしてもし姉が風見の存在に気付いてしまったとしたら――ともすれば、彼女は風見の身の上すら見抜くかもしれない、と。

「お兄さんは、弟と同じ職業の方ですよね」
「……はい」
「うーん、なるほど。やっぱりあの時、弟に近いものを感じると思った私はなかなか鋭い勘だったということですかね」

 そしてそれは現実のものとなった。普段であれば否定したかもしれないが、彼女があまりにも確信に満ちた口調であったこと、そして激しい雹の音で周囲に声がかき消されることを考えて、風見は渋々肯定する。ややおどけたような口調で顎を撫でるに、風見は気を引き締めた。
 恐らく、彼女は風見が警護のために尾行していたことに気付いていたのだろう。だからこそ警察官であることを確かめたし、それが「仕事」かどうかも確認した。これでもし風見が警察官でなかったら危険極まりないのだが、そうだったらどうするつもりだったのか。

「私は私の目を信じてますから」

 一瞬声に出てただろうかと目を見開いたが、は苦笑しながら「お兄さんは何も言ってないですよ」と首を振った。そうは言うが、結局のところ考えていることを見透かされたということには変わりないだろう。これでよく公安が務まるな。上司の言葉が脳内で反響する。
 は風見の様子をじっと見つめていたが、暫くすると目を逸らして未だ振り続ける雹を見やり、「これは独り言なのですが」と白い息とともに口を開いた。

「お兄さんが此処にいるということは、きっと弟の身に何か起こっているんでしょうね。或いは、これから起こるか」

 風見は答えられなかった。口を開けば、彼女は些細なことからでも直ぐに正解を導きだしそうな雰囲気がある。事実、今彼女が口にしていることは詳細ではないとは言え正解そのものであるのだ。
 正直、彼女が上司の身内だと知った時には失礼ながら似ていないと思ったが――それは撤回すべきなのかもしれない。

「お兄さん」

 返事をするべきか迷う。しかし呼びかけに応えないのも失礼かと思い、何でしょうか、と返す。これでもし鋭い所を突かれても、風見は黙秘を貫き通すか、あまり得意ではないが彼女に嘘をつく必要がある。

「あの子の事、よろしくお願いします」

 内心憂いていたが、の口から出たのは風見の想像とは全く異なるものだった。はっとして彼女の方を見るも、は相変わらず外を眺めているだけだった。

 やがて雹の勢いはおさまり、空には雲の切れ間が見え始めていた。

 

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