何故このタイミングで会ってしまったのか。
 彼は内心、頭を抱えていた。

 弟は一体何をしているのか。
 彼女は内心、激しい混乱に陥っていた。

スティンガーはお呼びじゃない


 その日、バーボンは組織の仕事で、ある女から情報を引き出す必要があった。その女が都内某所のバーに出没するという情報を掴んだバーボンは、手筈通り女を酔わせて適当なホテルにでも連れ込む算段でいた。
 薄明り落ちるカウンターと、店内で誰かが奏でるピアノを背景に、バーボンは艶やかに微笑む。このバーのマスターは客に干渉してこないことは調査済みである。現に彼はカウンターの後ろに並ぶ数多のボトルを手に取り、或いはグラスを磨いている。それについ先程来店した新たな客の注文の準備に取り掛かるようだ。この様子なら、彼が女に度数の高い酒を勧めようが口を挟んで来ることもないだろう。
 バーボンからのカクテルを受け取り、黒いノースリーブのドレスを纏ったターゲットの女が惑うように瞳を揺らす。もう少し踏み込んでみるかと女の手の甲につぅと指を這わせた所で――女の身体越し、テーブル席に見える人影に、気付いた。それは先程来店した客の姿で、ほぼ同時に、その人影もバーボンに気付いたようだった。
 
 交錯する視線と、一瞬の沈黙。気付いたのは、きっと双方だけだったろう。

 言葉にしなくても分かる。視線の先にいる、スーツ姿の女性――「降谷」の瞳は、「おまえなにやってんの」と雄弁に語っていた。
 バーボンは激しく舌打ちしたい衝動に駆られた。なんてタイミングが悪いんだ。無論、彼は目の前のターゲットを忘れていないので、表面上には何の変化もない。傍目には相変わらず艶を帯びた笑みを浮かべる男として見えていることだろう。
 仕事柄、こういった場面に陥ることも予測してはいる。しかし彼は百の顔すら演じ分けると自負する男だ。「降谷零」「安室透」「バーボン」その内の誰かを知っている人物と、別の顔を演じている際に出会ってしまったとしても、切り抜ける自信はあった。先日「安室透」として降谷と出会った時もそうだったのだ。ましてあの人なら、故意に他者に吹聴するような真似はしないだろう。それは分かっている、だが。

「今日この場所であなたと会えたことは、決して偶然なんかじゃないと思っています。あなたは、そうは思いませんか……?」
「っ、バーボン……」

 身内に異性を口説く場面を見られるというのは、それは相当な羞恥に見舞われるわけで。端的にいうと、姉さん、早く帰ってくれ、である。
 しかし来店したばかり、かつ連れがいる様子の彼女が早々にこの店を去るとは考えにくい。彼女も好き好んで弟が異性を口説く様子を見たい訳ではないのだろう、世紀末を見たような顔はなりを潜め、同席している男達――確か彼女の事務所のアイドル三人へと顔を向けている。
 ただでさえ静かな店内だ。あちらの話し声も聞こえてくるが、それは同時に、此方の話し声も彼らに筒抜けとなりかねない。情報を引き出すのはこの場ではないため、核心に迫った話をすることもない。つまりバーボンは口説けばいいだけの話だ。バーボンにとっては簡単すぎる任務の筈が、彼が同時に降谷零でもあるが故に、とんでもない恥ずかしさと戦う羽目になってしまったのである。
 兎も角、この女をその気にさせてバーから連れ出せればほぼ任務完了と言っていい。そうと決まればそれだけに集中しよう。ただし焦りは最大のトラップだ、逸る余りに女に迫りすぎてもいけない。しかしこういう時ほど、女は軽率に落ちてくれないものである。女の心が傾き、ほぼ落ちかけているのは分かっている。しかしどうもあと一手が決まらないらしい。切なげな顔を浮かべ、するすると女の手を撫でながら思案する。表面に汗をかいたグラスの中で、丸く切られた氷がからりと音を鳴らす。
 と、女がゆるりと立ち上がった。お手洗いに、と言って歩き出すが、散々バーボンが飲ませた所為だろう、足元が覚束ない。
 これはチャンスだ。絶好の機会を見逃さないバーボンは、女を手助けするふりをして腰に手を添える。ふらついてますよ、と女の耳元で囁きかければ、飲酒によるもの以上に頬が赤くなった。バーボンは荒い息のまま視線を俯かせる女を見下ろしながら、あと一手を決意して手洗いへと誘導した。

*

 たまにはプロデューサーと飲みたい、と言い出したのは、元弁護士のアイドル、DRAMATIC STARSの天道輝だった。丁度DRAMATIC STARSの彼らとの仕事が最後で、緊急のタスクも無かったことからは彼らと飲むことを快諾した。元外科医の桜庭薫は「天道の戯言なら放っておいていい。君は休むべきだ」と主張してきたが、折角ですから桜庭さんもと誘えば、呆れた顔をされたものの仕方なさげについてきてくれた。元パイロットの柏木翼も天道と同意見のようで、この三人と飲みに行くことは比較的すんなりと決定した。
 天道が前々から行ってみたいと思っていたバーがあるようで、じゃあそこにしましょう、と店選び自体は問題なく進んだ。入店時も、品の良い音楽と木目調の派手すぎない内装にこれはアタリなのでは、と唸ったものだ。

 誤算は、選んだ店に弟がいたことである。
 
 各々飲み物を注文し、軽い雑談を始めた頃だった。何やら聞き覚えのある声がしたような気がして、ゆるりと視線を向けた先に、いた。
 別にバーに居るのが悪いという訳ではない。弟だってもう立派に大人だ。女性と居るのもまぁ、弟も立派な大人だし、別におかしなことではない。清く正しくお付き合いしてる分には、寧ろ応援すらしたくなる。しかしながら、だ。その甘ったるい声と言葉は何なのか。その妙に色っぽい表情は何なのか。というか、そのどう考えても一般人らしからぬ服装は何なのか。いや似合っていない訳じゃない。ただ、白いワイシャツに黒のベスト、胸元の青い宝石が付いたループタイ、ベージュのズボン。似合いすぎて逆に引く。似合ってはいるが、降谷零にしろ、「安室透」にしろ、こういう雰囲気を醸し出す人柄ではなかったように思う。こういう雰囲気というのは例えば、危険なにおいのする男、と言ったところだろうか。要は堅気に見えないのだ。「安室透」は探偵だと言っていたが、探偵とはこんなにも怪しげな空気を醸し出すものなのだろうか。
 そも、バーボンって誰さ。聞かない方が良いのだろうと思いつつ、彼らの会話は否が応でも耳に入ってきてしまう。話の流れからして彼が「バーボン」と呼ばれているようだが、彼は安室透じゃなかったのか。ここにきて第三者の登場なのか。
 彼が妖しい手つきで女性の手の甲をなぞるのを横目に、は混乱と困惑を極めていた。見てはいけないものを見てしまっている気がする。最早どんな顔をするのが正解なのかも分からない。笑うしかない。……勿論、同席している彼らには気付かれないよう、思考の暴走は内心だけに留めていたが。
 
「正直、あんなに根気強く口説いてる男って、初めて見たぜ」

 暫く彼の方を気にしないように努力していたところ、どうやら件の二人は連れ立って何処かへと去っていったらしい。二人の姿が見えなくなったことに真っ先に気が付いた天道が、からからとグラスを揺らしながら若干小声で言及する。は彼の身内だからその言動が気になるのだと思っていたが、どうやらそういう訳でもないようだ。

「凄かったですね。俺には真似出来そうにないです」
「別に柏木が真似する必要はないだろう」
「でも、もし今後ああいう役が回ってきたら、演技で参考になるかもしれませんし……」

 天道の言葉に神妙そうに頷く柏木を見て、桜庭が呆れた声を上げた。は先程の彼のように女性を口説く柏木の姿を想像する。確かに、そういう役柄は柏木の新たな一面を引き出せる気がして、悪くないのではないか。

「それに、もしかすると桜庭がああいう役をやるかもしれないだろ」
「なっ……」

 意地悪げに笑みを浮かべた天道が揶揄いまじりにそう言えば、桜庭は反論しようと口を開けて黙り込んだ。普段ならもっとバッサリ切り捨てるだろうが、お酒が入っている為か普段より手厳しさが鳴りを潜めているようだ。明日のこともある、そろそろ切り上げるべきか。そう思いつつ、は立ち上がる。

「すみません、私ちょっとお手洗いに」
「おう、足元気を付けろよー」

 先に手洗いを済ませておこう、と天道の声を背に進む。店内は明るいとは言い難く、また手洗いに続く廊下は一際暗くなっているようだった。自身も飲酒していたため、普段よりも足元がふわふわする。これは天道さんの言う通りちゃんと足元に気を付けて行った方がいいだろう、と隅に若干埃の見える廊下を進む。
 と、人の気配を感じて足元からゆっくりと顔を上げた。薄暗い廊下は相変わらず。しかし更に奥、お手洗いの扉の前に、彼らはいた。
 黒いドレスと、相対しそのドレスの上を這う褐色の掌。そのまま視線を上げれば、見覚えのありすぎる色素の薄い髪を持つ彼が、口説いていた例の女性を壁際に追い詰めていた。
 彼の手は女性の首筋から背、脇腹へと落ちてゆき、腰のあたりをゆるゆると撫で擦る。それは明確に性を感じさせる光景だった。ぬるり、と彼の舌が蠢き、女性の口内から焦らすように抜き出され、そのまま女性の下唇を軽く一舐めしてから、再び口内へと侵入してゆく。
 まるで生き物を彷彿とさせる動きに、の内心で上がったのは悲鳴でも絶叫でもなく、「うわぁ」という抑揚のない冷めた声だった。
 何が悲しくて弟のラブシーンを見せつけられなければならないのか。彼にしてみれば見せつけているつもりもないのだろうが、それにしたって店内で勤しんでいるのだから他の客に見られたとしてもおかしくない。つまり、彼はこういった状況に陥ることも承知の上で行っている筈なのだ。一体どういう理由で彼がこんな行動をしているのかはには全く分からないが。
 兎も角は決断を迫られていた。お手洗いに行きたい。しかし進行方向には他人そっちのけでラブシーンを繰り広げている男女(内男は弟)がいる。つまり、このまま何も見なかったふりをして鋼の心でお手洗いへ直行するか、何も見なかったふりをして踵を返すかという決断である。
 どのみち見なかったふりはしなければならない。弟も姉にこんな場面を見られているなんて嫌だろう。仕方がない、彼が此方に気付いていない内にここから立ち去ろうと、そうが結論付けた瞬間。

 ――彼と目が合った。

 その瞬間脳内を駆け巡った衝撃は筆舌に尽くし難い。憐憫と羞恥、憤怒、諦念といった一生で抱くありとあらゆる感情をその瞬間に抱いたかのような衝撃。立たされている状況は全く異なっている筈なのに、二人の胸中に過った感情は非常によく似ていた。
 最終的にどちらからともなく目を反らし、行為を続行する彼には背を向けた。

 この出来事が余程衝撃的だったのか。その後どう帰ったかは正直よくは思い出せないが、財布の中にタクシーの領収書が入っていたことから、恐らくはタクシーで帰宅したのだろう。
 あんな互いに死んだ目で弟と視線が合うのは、もうこれきりにして欲しい。

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