限りなく透明な色



「あれ、こんな所で、お一人ですか?」
 
 どんな喧噪の中でも、彼の声ははっきりと聞こえた。声につられるまま振り向くと、五歩ばかり離れたところに"最近知り合った"喫茶店の店員、安室透が立っていた。どこか心配げな表情を浮かべる彼は、目が合うとそのまま此方の方へ歩いてくる。白いTシャツにやや短めのジーンズ、スニーカーに、そして黒いキャップ。彼の外見と相まって、ともすればスケボーを乗り回す若いお兄ちゃんといった雰囲気である。しかし、彼はそういう人間ではないし、そろそろそういう年齢でもないことを、は重々承知していた。
 何故、彼がここにいるのだろう。何故、彼は話しかけてきたのだろう。茹だるような暑さの中、思考は靄がかかったように霞む。彼は前回、口外禁止だと言って実質に対して壁を作ったのではなかったのか。それとも、口にするのは駄目だというだけで、接触するのは構わないということなのだろうか。彼が何を考えているのか分からず、少しだけ眉間に皺が寄った。
 立ち止まっていると行き交う人の邪魔になる、とアーケード街の端に寄ると、彼もまたについてきた。背中を汗が伝ったが、これは単に気温の所為という訳ではなく――この常ならぬ混雑も原因の一つだろう。
 八月初旬。今日は夏祭りの日だ。
 大通りでは神輿を担ぐ人や太鼓囃子の音が響き、一本外れたアーケード街は出店で賑わう。先程が歩いていたのは、人の波と共にしか身動きができない、そんなアーケード街の入り口だった。
 
「職場の人達と一緒に来たのですが、はぐれてしまって」
「いけませんね、女性を一人にするなんて」

 随分と芝居がかった口調の彼に苦笑する。弟に女性扱いされるのは、なんとも擽ったかった。

「安室さんこそ、誰かとご一緒なのでは?」

 ここは祭りを楽しまんとする人々が押し寄せる場所だ。祭りという目的なく此処に居るというのは、逆に疑問を呼んでしまうのではないか。
 一人で祭りを楽しむというのが、どうしても弟と結びつかない。それとも、安室透という男は「そういう」男なのだろうか。
 頭の片隅ではそんな風に考えつつ。擽ったさを堪えてそう返せば、彼は味のしない肉を噛んだような顔をしてから緩く首を振った。

「いえ、実は仕事中でして。僕が探偵だというのはお話ししましたっけ」
「そういえば前回、お会計の時にそんなことを言ってましたね」

 手渡された名刺の情報を思い返しながら言うと、その返答に満足したのか「良かった」とまで言って彼は深く頷いた。忘れているとでも思ったのだろうか。だとしたら非常に失礼な話だが。
 彼の言う「探偵の」仕事中だというのなら、猶更ここで悠長に話をしている場合ではないだろう。そう思ってはスマホを確認する。しかし連絡が来た様子はないし、此方からの連絡もつかない。顎に手を当てこれからどうするか思案していると、「もし、良ければですが」と隣の彼が口を開く。

「お連れの方が見つかるまで僕に付き合ってもらえませんか? 矢張り男一人で夏祭りは目立ってしまって」
「……っふ、ふは、構いませんけど」

 確かに彼の外見で一人で歩いていたのでは相当目立つだろうし、声もかけられやすいだろう。身内贔屓を差し引いても十分に整った見た目をしている彼なら尚のことだ。何らかの目的でこの夏祭りを歩く必要があるのだとすれば、と一緒に居たほうがまだやりやすいのかもしれない。
 そうは言っても到底身内に対する誘い文句ではないため面白さが勝る。思わず笑い交じりで返すと、彼もまたにっこりと笑みを深めた。
 外見上の感情表現が記憶と異なっていようが分かる。これはややむかついている時の顔だぞ。

 あくまでも「安室透」という人間を貫き通す彼は、一緒に歩いていても昔のように拗ねた顔をすることも文句を言うこともなく、のやや斜め前を進んでいた。この混雑具合から想像出来ていたことだが、人が多すぎて中々身動きが取れない。人に押されることもしばしばだ。それでも彼とはぐれずに済んでいるのは、彼がうまい具合に道を作ってくれているからだろう。その優しさは、決して「安室透」という男の外面だけではない筈で。は彼の後頭部を眺めながら、この男をどう扱うべきなのか考えあぐねていた。

 例えばリンゴ飴が食べたいと言えばなんと奢ってくれるし、射的に興味を示せば一緒にやりますか? と微笑まれる。口外禁止と釘を刺されている以上変に指摘もできず、如何ともし難い痒さに耐えなければならないが、面白いものは面白い。彼はこうやって女性を口説くのだろうかなどと邪推してしまう。因みに射的ではが小さいぬいぐるみを、彼はお菓子セットを撃ち落とした。案の定彼は私にお菓子セットを押し付けてきたため、もまた彼にぬいぐるみを押し付ける。その時の迷惑そうな顔は傑作だった。それでも笑顔は崩さないから「安室透」は器用な男なのだろうと思う。
 途中、金魚すくいを見送り――気が付けばアーケード街から少し外れたところに位置する神社に辿り着いていた。達同様、一通り祭りの雰囲気を楽しんできた人達が休憩のために腰を下ろしているのがちらほら見える。境内で座り込むのもどうなのかという話なのだが、祭りの雰囲気は人を寛容にさせるのか、注意する者は見られない。
 と安室は鳥居の脇にある生える木まで移動すると、そこに背中を預けた。腕を組んでどこかをぼんやり眺める彼を横目に、はイカ焼きにかぶりつく。
 仕事でここに来ている、とは言っていたが、こんなので本当に仕事になっているのだろうか心配になってしまう。弟は昔から抜け目がないから要らぬお節介かもしれないが。
 口内でイカを咀嚼しながら、そういえば彼はここに至るまで頑なに食べ物を口にしていないことに思い至る。

「安室さんは、食べないんですか?」
「……ええ、仕事中なので」
「そうですか。美味しいものを共有出来ないのは、少し寂しいですね」

 そうですね、と頷いた安室は、不意にのほうへと顔を向けた。じっと此方を見ているのは分かるが、兎に角今は目の前のイカ焼きに必死なは横目で真意を問う。
 そんなの様子に少しだけ目を細めた彼は、軽く首を傾げた。
 
「最近、ちゃんと寝てますか?」

 妙なことを聞く、と思った。そんなに睡眠不足に見えたのだろうか。確かに、の勤務先はまだまだ走り出したばかりの芸能事務所だ。事務員はいても山村君一人だし、正直人は足りていない。アイドルにセルフマネジメントさせる形になってしまっている。それを打開するため日々奔走しており、それが睡眠不足にも繋がってくる訳だが――それを正直に彼に伝えるのは、憚られた。

「倒れない程度に体調管理はしてますよ。それを言うなら、安室さんこそ随分大きな熊を飼ってるみたいですが」
「あはは、まいったなあ」

 言葉ほど困ったようには見えない笑みを浮かべて、彼は肩を竦めた。と、その瞬間大きな音がして、目の前に花火が上がる。思わず見上げるだったが、安室はちらりと視線を向けるだけだった。
 打ち上げられる光を見つめながら、はぽつりと零す。

「久しぶりに、花火見たなあ」
「お仕事、そんなに忙しいんですか」

 はやや沈黙すると、笑いとも呆れとも取れる息を漏らした。

「……いいえ。でも、一緒に見たのは学生以来だなあ、と」
「……ああ」

 打ち上げられる花火の音の間に、バイブレーション音が微かに聞こえた。探ってみれば、のスマホが震えている。画面を見れば、そこには「山村賢」の文字がある。慌てて電話に出ようとした瞬間、着信が切れてしまった。確認してみれば画面にはメールと着信履歴が並んでいて、はさっと青ざめた。
 どうやら思っていた以上に彼との夏祭りに夢中になっていたようだ。一番最近送られてきたメールを確認すると、どうも山村は社長とともにこの神社の近辺にいるらしい。その様子をじっと見ていた安室が口を開く。

「お迎え、来そうですか?」
「ええ、はい。この近くに居るそうです」
「では、僕はお役御免ですね」

 ふ、と顔を上げると、にこりと微笑む彼の眼差しとぶつかった。目を逸らさぬままには何事かを呟いたが、それは花火の音に容易にかき消された。しかし唇の動きから意図は伝わったのか、彼の瞳がわずかに揺れる。
 再び震え始めたスマホを見て、彼はの両肩を掴むと、ぐるりと方向転換させる。そして肩をそっと押した。

「帰り道、気をつけてくださいね」
「はい。……安室さんも」

 その時彼がどんな顔をしていたのか、には分からなかった。けれど彼の瞳に僅かでも名残惜しさが滲んでいると分かったからーーそれだけで、今回は見逃してやろう、と思ったのだ。

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