ポーカーフェイスの夕刻




 外が刻一刻と色を変えはじめ、そろそろ夜の訪れを予感させる時間帯。未だ明るくはあっても徐々に橙色に染めた空を横目で見ながら、注文を確認する。――ハムサンド。ここ最近特に注文が多くなった、ここポアロの人気メニューだ。この注文なら、私じゃなくて安室さんが作った方が良いだろう。
 そう思って、彼女、榎本梓は奥の方で作業をしている彼を手招いた。幸いすぐ梓に気付いた安室透は、どうしました? と人好きのする笑みを浮かべて梓に近寄る。
 事情を聞いた安室は、ああ、良いですよ、とハムサンド作りを快諾した。この注文をしてきたのは先程から熱視線を此方に送ってきている女子高生だろう。尚更、私ではなく、安室さんが作った方がいい。そう思った梓はハムサンドの注文を任せ、自分はドリンクを用意しようとグラスを取り出した、その時。

カラン、と入口の扉に付けられた鈴が鳴った。

条件反射ですぐに「いらっしゃいませ!」と声を上げる。梓の声に合わせて、安室もまたいらっしゃいませ!と言うのを耳にしながら、新たな客の待つ方へと向かう。何名様ですか、とお決まりの台詞を口にすれば、黒いスーツを来た女性が、三名です、とその通り三本指を立てていた。梓は笑みを浮かべながら、お好きなお席へどうぞ、と店内に誘導する。
 彼らがボックス席に座るのを見ながら、おしぼりとお冷やの準備に取りかかった。その間にちら、と安室の方を見やれば、先程の三人をじっと見つめる彼の姿。しかし、どうかしたのかと声をかけるより先に、彼は視線を外してしまった。気のせいだろうか、と思いつつ、用意したおしぼりとお冷やをトレーに乗せ、その三人の元に運ぶ。

「ありがとうございます」

 やはり笑顔で此方に会釈をしたのはその女性だった。お決まりになりましたらお呼びください、とこれまた定型文を伝えて、メニューを開く彼らの元を去る。
 不思議な、三人組だと思った。先程から梓とコミュニケーションを取っているのはスーツの女性だが、彼女の連れている二人は、どう見ても学生だった。何せ学ランを身に付けているのだ。それも一人は赤い髪を逆立てていて、梓を見る表情もメンチを切るように恐ろしい。もう一人はメガネをかけて理知的な印象を受けるクールな青年だったが、身に纏う学ラン、あれは短ランと言うのだったか。
 兎も角、通常の制服でないのは確かだった。そう――不良と呼ぶのが相応しい位に。
 ついにこのポアロにも不良が入り浸るようになるのか、と内心戦々恐々としていた梓だったが、意外にも彼らは店内で過剰に騒ぎ立てる事もなく、楽しそうにメニューから選んでいるだけだ。
 赤い髪の青年も、先程メンチ切ってきたのはなんだったのかと思う位、楽しげにメニューを捲ってはスーツの女性に話しかけている。
一体どういう関係なのだろう。こういう時ほど探偵の力で当てて見せて欲しいと思うのだが、毛利さんもコナンくんも今日はポアロに顔を出していない。
 となると、この場に居る探偵はあと一人、安室になるのだが――彼に問いかけるよりも先に、件の女子高生達の囁き声を耳にする。

「ねぇ、あの二人って神速……」
「Jupiterと同じ事務所の……」

 ははあ、と合点がいった。彼らは芸能人らしい。
 女子高生達の挙げたアイドルユニットには聞き覚えがあった。ここ数年になって名前を聞くようになった芸能事務所のアイドル。特に国民的アイドルユニットの移籍で一躍有名となっていた。
 となると、彼らと一緒にいるあの女性は、マネージャーか何かだろうか。黒髪を首元でゆるく結んだ、青い瞳の女性。その瞳の色にどこか既視感を覚えながら、先の注文にあったドリンクの用意を終える。それを座席に運んでいると、すみません、と女性の声が聞こえた。すると梓が応えるよりも先に、安室が素早くキッチンを離れ、その女性のもとに赴く。何となく、珍しいと感じた。
 そんなに急がなくても怒るような女性には見えなかったし、梓もこのドリンクを運び終わったら直ぐに注文を取れた。
 まるで、安室が梓に注文を取らせたくなかったと、そんな風に思える程度には彼の行動は迅速だった。
 まあいいか、と梓は思考を切り替え、カウンター内のキッチンへ戻った。

*

 その男は、どこか偽りを纏った笑みを浮かべていた。
 金よりも淡い髪色。褐色の肌。明け方の空の瞳。異国情緒溢れる見た目だが、口にする言葉は紛れもなく日本語。ハーフだろうか。これで外国籍の人間だったら感嘆ものだろう。
 今日俺達のイベント出演に付き添ってくれた番長さんプロデューサーは、心なしか普段よりも楽しそうにこの店員の男と会話をしている。それを感じ取っているのか、俺の相棒、朱雀も先程からメニューを見る振りをしながらちらちらと二人に視線を送っている。知り合いなのだろうかとも思ったが、話す内容からして、そういう訳でもないらしい。
 ともあれ注文を取り終わったのなら、用意をしにいく必要があるのではないか。そう思った矢先、安室透と名乗った男は此方に小さく謝罪をしてからカウンターへと戻っていった。まるで内心を読まれたようで苦い気持ちになる。

「プロデューサーさん、ケーキ頼むなんて珍しいな」
「あの店員さんにうまく乗せられちてしまいました」

 朱雀の言葉に肩をすくめては見せたが、番長さんはどこか楽しげだ。釈然としない感情を抱きつつ、この人がそう言うなら、とひとまず言葉を続けるのはやめた。
 詳細を伏せながらも今度の仕事について三人で話を進めている内に、随分と時間が経過していたらしい。気づけば外は随分と朱く染まってきている。

「お待たせいたしました」

 温良優順――そう評するのが適切であろう。害意のない、ともすれば甘ささえ覚える声音。言わずもがな、持ってきたのは注文を取った人物と同じ、あの男性店員だった。
 朱雀の前に置かれるパンケーキと紅茶。番長さんにはアイスコーヒーとケーキ。俺には、アイスコーヒーのみ。非の打ち所のない動きで完璧は配置を見せると、店員ーー安室さんはにっこりと微笑んでみせた。
 その顔が誰かに似ているような気がしたが、次に彼が見せた申し訳なさそうな表情と声音に、その既視感は吹き飛んだ。

「その、私事で大変恐縮なんですけど、お二人にサインをいただきたいのですが」

 正直予想だにしなかった展開に、俺と朱雀は顔を見合わせた。



「あの喫茶店、うまかったな!」
「ああ。偶には寄り道もしてみるもんだ。豆にもこだわってたみたいだしな」
「そうですね、また飲みたくなる味でした」

 すっかり陽は落ち、満天の星が瞬く頃。喫茶店での団欒を終えた俺たちは、駅への道を歩きながら思い思いに所感を述べあう。
 あの後、安室さんに俺たちのサインを書いて渡すと、店内はプチサイン会場になってしまった。幸い喫茶店が小さく、客も数人といった具合だったため、番長さんも特に制止することなくプチサイン会は終了した。
 俺たちのファンにも男性はいるが、こうして街中でサインを求められるのは大抵女性ファンからだったため、新鮮な気持ちにさせられた。俺たちも有名になってきたんだなあ、とはにかみ笑う朱雀に、勿論と笑ってみせた番長さんが印象的だった。

「そういやあの店員さん、安室さんっつったっけ。なんとなく、プロデューサーさんに雰囲気が似てたよな」
「……そうでしたか?」

 朱雀の言葉に答えるまでの一瞬の間は何だったのか。それを問うより先に、ブー、ブー、と振動音が伝わってきた。音の発信源は、番長さんのカバンの中だ。

「番長さん、携帯鳴ってるぜ」
「本当だ。山村君から。はい、降谷です――」

*

 事務所での仕事を終え、1DKのアパートに帰宅する頃にはとうに零時を過ぎていた。このルーティンにも慣れたものだが、今日はやや色の違う感情が渦巻いていた。
 スーツを脱ぎ、申し訳程度の化粧を落とし、シャワーを浴びる。そうして風呂場を出れば、そこにはアイドルのプロデューサーではなく、「降谷」という人間だけが残る。
 まだ、寝る前に済ませておきたい作業がある。髪を乾かしてから仕事用の鞄を抱え、ローテーブルの脇に置いた。そして中身を取り出しているると、クリアファイルから喫茶店からの帰り際に受け取った名刺が落ちる。
 「毛利探偵事務所 助手 安室透」と書かれた名刺を拾い上げ、まじまじと見つめる。……ふはっ、と、自分でもどんな気持ちからからか分からない笑いが零れた。
 一体安室透とは何者なのだろうか。喫茶店のウェイターで、私立探偵で、有名な探偵の助手。

 そして、警察官になった筈の、私の弟。

 指先でぴらぴらと名刺を振っていると、ふと裏に何か書いてあることに気付く。迷い無く裏返すと、そこには弟の字で「口外禁止」と書かれている。……もっと、気の利いた言葉を添えられないのかあの子は。元気そうで良かった、とか。
 けれどこの言葉が何よりの答えなのだろう。不器用な子だ。何かしらの理由があって、あの場に立っている。口外禁止、というならば、安室透が警官であることも、私の弟であることも、きっと口にしてはならない。なんて不器用で、我が儘で、優しい子。
 会えただけで、元気そうな姿が見られただけで良かったのだ。確かにそうかもしれない。でも、人は欲深い生き物だ。一度手には入ると、もっともっとと欲しがってしまう。もっと声が聞きたい。顔が見たい。話がしたい。笑わせたい。――頭を撫でたい。
 実際そんなことをしたなら、もう子供じゃないのだと怒るであろう弟の姿が目に浮かぶ。それとも、呆れるだろうか。これと断言するにはやや遠ざかってしまった距離に嘆息する。音信不通だったとは言え、言葉を交わさない時間が長すぎた。
 それを寂しくも思うが、もうお互い良い歳なのだ。生き方に干渉するような行為は、避けなければならない。

 ひらり、と名刺を面に直し、そのまま名刺ケースに差し込んだ。折角だから別にして大事に保管しておきたいところだが、何となく憚られた。……あまり見てると、我慢できなくなってしまう。
 私には私の生き方があって、弟には弟の生き方がある。その道が交わらないことは、決しておかしなことではないのだ。

「さて、安室さんは兎も角、さくっと明日の準備をしないとね」

 夜はまだ、これからなのだから。

*

 帰宅した男は、部屋の電気も点けずにベッドの上に腰を下ろすと、そのまま勢いよく後ろへと倒れこんだ。

「安室さん、って誰だよ」

 自分か、と自嘲する。他の誰に呼ばれようと構わないのに、他ならぬ姉にそう呼ばれるのは、違和感でしかなかった。あの人は何の躊躇いもなく此方を安室さん、と呼んできたが、そう呼ぶことに違和感はなかったのだろうか。

「怒ってるだろうな」

 急に連絡が取れなくなったこと。突然の邂逅に動揺しつつも此方の振る舞いに合わせてくれたが、あの人の眼差しには不信感が滲んでいた。とどめの、あの名刺。もっと他に書くことはなかったのかと思っても後の祭りだ。あの人はきっと、何も言わない男に怒っているだろう。
いや、怒っていてもらわなければ、この罪悪感の行方をどうすれば良いのかわからない。
 どれだけ人を騙すのに慣れたとは言え、あの人を騙すのはまた違う感触だった。ざらりと砂を噛むような。
 いや、騙したところできっとあの人には見通されている。身内だからこそ男の所属に見当がつくこともある。そう思うと、あの人はこの件で怒ることはないかもしれない。だとしても、真実を語らないまま、偽りを通せと伝えるのは、後ろ暗さが伴った。息を吐きながら額の上に腕を置き、小さく口を動かす。

 姉さん。

 音にならなかった言葉。
 久々に声を聴いた。久々に笑顔を見た。他人行儀に話す自分たちが、滑稽だった。姉との仲は良かったと自負している。それが今はこんなにも遠い。原因が自分にあることは分かっていても、現状男にはどうすることもできない。関係性を見出されなどして、下手をすれば、姉を命の危険にさらすことになる。男がついているのはそういう任務なのだ。
 今後、また今日のように出会うことがあったとしても、この茶番は続くのだろう。少なくともこの潜入捜査が続く限り。男が、男の本当の名で呼ばれることはないのだから。
 

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