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 けたたましく主張を始めたアラームを止め、億劫さを覚えながら目をあける。
 気怠い身体を引きずるように上体を起こし、ベッドの端まで移動してスリッパを履く。そのまま窓際へ移動して、締め切ったカーテンを少しだけあけた。太陽は中天を過ぎている。
 時刻を確認して、浴室へ向かう。バスタブにお湯は張らない。下着を脱ぎ、生まれたままの姿になってシャワーのコックを捻る。初めは水だったそれも直ぐにお湯へと変わり、適温が身体に降り注いだ。
 じんわりと表面を温めるそれに、溜め息を吐く。
 近頃、朝日が昇るのを見届けるまで眠れなくなってしまった。朝日が、と言うより彼が眠っている時間帯を過ぎるまでと言った方が正しいかもしれない。

 意識しすぎだ。個人を深く考えるな。それより、彼に感づかれたことへの対応策を考えるべきだ。
 きゅ、と逆方向に蛇口をひねり、湯を止める。顔を上げて、眼前の鏡に映る金髪の女を見た。

「……酷い顔」

 ふっ、と鼻で笑う。ちぐはぐな存在。見た目も、言葉も、気持ちも。濡れた髪をかき上げる。切り替えろ。私は彼の夢ではない。
 体を清めて浴室を後にする。バスローブを着て髪の毛を乾かしていると、スマートフォンにメッセージが届いた。点滅するランプを暫し眺めてからドライヤーを止め、内容を確認する。……いつも通り、仕事だ。依頼人はあの男。前回は黒を好むあの組織との駆け引きで随分と私を窮地に陥らせてくれたというのに、厚顔無恥と言うべきか。失敗を前提にしているとしか思えないあの仕事を依頼してきたのはまだ記憶に新しい。あの宗教団体も取り入れたところで大した利益にはならないだろうに、慌てる私が見たくて彼らの護衛を頼んだようにしか思えない。
 ただ、厄介な男ではあっても、彼の機嫌を損ねるのも得策ではない。
 少なくとも、今はまだ。

*

 たった一瞬の出来事でも、バーボンはその姿を見失わなかった。歩くたびに揺れる髪も、何者も映さない青い瞳も、身体の線を明らかにする黒いドレスも。今すぐにでも追いかけたい気持ちに駆られながら、それでもバーボンは自分の役割を忘れられず寸でのところで踏みとどまった。
 ――この程度のことで心を動かされたことを悟られてはならない。特にあの男、ライには。そう思ってバーボンは貼り付けた笑みを深くする。今、誰がどう見ても彼は完璧なウェイターを演じていることだろう。

 バーボンは今組織からの命を受けてこの高層ビル内にあるパーティ会場にいる。組織にとって障害となるある資産家の男を暗殺するという任務だ。メンバーはバーボン、ライ、スコッチの三名。ウェイター役として会場の様子と対象の動きを監視するバーボン。対象の息の根を止める瞬間を近隣のビルの屋上でじっと待つ実行担当のライ。参加者に紛れ、不測の事態が起こった時やバーボンの手が回らないところの手助けを担当するスコッチ。この三人が、今回の任務を遂行すべく集められた組織の幹部達だった。
 彼は脳内でこのパーティーの情報を思い返すも、参加者の中に「」という文字は何処にもなかった。しかしバーボンは確かに彼女の姿を視界に入れていた。
 彼女が此処にいると仮定すると、彼女をエスコートしていたあの男は、バーボンたちが属する組織と敵対する組織の人間なのだろうか。彼女が関りを密にしているという、あの組織の。
 とすれば余計に彼女の動向は押さえておくべきじゃないだろうか。さりげなく周囲を見回すも、既に彼女の姿は見えなくなっていた。まだパーティーは始まったばかりだというのに何処へ行ったというのか。彼女が居ないならばと同行していた男を探そうとするが、その男の顔が思い出せない。この感覚には強い既視感があった。つい先日味わったばかりのもの、つまり彼がと初めて対面した夜の感覚とよく似ている。バーボンはこの不可思議な現象の原因も明確にする必要があると強く感じていた。
 バーボン個人の記憶が曖昧なことももちろんだが、そもそもあの組織自体も不明確なところが多い。裏社会を跳梁跋扈する組織の情報というものは、決して多く出回っている訳ではないが、然るべき場所から然るべき方法で入手できることもある。しかし、あの組織はその情報が正確でないことが多かった。得る場所によって情報が違うため、何を信じればいいのか分からないのだ。しかも、情報提供者はその情報は確かなものだと信じているのがまた不自然に思える。バーボンたちの属する組織も情報漏洩には注意を払っているようだが、こうして不確かな情報が多く出回っているという点でかの組織は警戒されていた。

 もし、かの組織の情報を掴めれば、バーボンは更に上層部に食い込めるかもしれない。「探り屋」として組織に籍を置いている以上、あの組織の情報を掴めればバーボンへの信頼も高くなるだろう。
 それに――と、バーボンはドリンクの乗ったトレイの淵を握りしめながら思考する。先日「」を取り逃がし、その足取りすら追えなかったことはバーボンのプライドをいたく傷つけた。報告を受けたジンは気持ちが悪い位にその件に関しては気にしておらず、寧ろ逃亡を決めたあの宗教団体をどうするかを考える方が重要だったらしい。だがそれに対して助かったと喜べるほどバーボンも能天気ではない。先日の件がいつバーボンに牙をむくのが分からないのだ。

(どうした、バーボン)

 思考の渦に片足を飲まれつつあったその時、耳のインカムからスコッチの声が聞こえてきた。バーボンはドリンクの補給をするふりをしながらパーティー会場の外へ出ると、人気のないほうへと歩を進める。人気がないのを確認してから、バーボンは小声でスコッチに応答する。

(例のあの、という人物を見かけました。近くにいたのはあの組織の関係者かもしれません。それとなく探ってもらえますか)
(分かった、探してみる)

 事前にバーボンから「」の情報を聞いていたスコッチの理解は早かった。直ぐに了承の返事を返し、スコッチからの連絡は途絶える。
 ――頼んだぞ、スコッチ。あまり自由に行動できない自分に歯噛みしながらも、今は信頼のおける相棒に託すしかなかった。

*

 豪奢を極めたシャンデリア。上品に纏められた重厚なカーテンに、敷き詰められた絨毯。見回せば色とりどりな人々と、高級食材が使われたビュッフェ。その目に入るあまりの情報量に圧倒されないのは、視野の狭い子供か或いは場数を踏んだ上流階級の者たちや成り上がった者か、果たして。
 煌びやかなパーティー会場に足を踏み入れるのは何も初めての事じゃない。眼鏡をかけた栗色の髪の優男に会うことも。
 彼を含めた会場の参加者は誰も私に見向きもしない。人目を避ける術を纏っているのだから、当然と言えば当然なのだが、常に不安はある。過去、完璧に術を行使できていると思っていて、その実あっさりと見破った少年のことを覚えているから。
 
「やあ、よく来たね、僕の魔法使いさん。待っていたよ」

 ゆるやかに術を解いて男に近寄れば、男は直ぐに此方に気づいた。気配に敏感な男だから、私が来たことは分かっていたのだろう。軽口には沈黙をもって返せば、男は微笑んで手を差し出す。

「これから友人たちの挨拶回りをするところでね。ついてきてくれるだろう? 君はいつも通り、僕と友人を守ってくれればいい」

 くだらない。挨拶なんぞ私が居なくとも出来るだろうに。要するにこの男のトロフィーになれと言われているのだ。このやり取りも一度や二度の事ではないため、溜息と共にその手を取った。
 男の名は、アルフレド・神崎。とある裏組織を束ねる、私の仕事の依頼人。フランス人と日本人のハーフだと言っていたが、この男が簡単に人に名を教えるような人間とも思えないため、偽名の可能性もあり得る。だが、他に呼ぶ名もないため、彼のことはアルフレドと呼ぶことにしている。
 ――アルフレドは単に「」という異能者の存在が手中にあることを周囲に知らしめたいのだろう。「」という噂が独り歩きしている異能者を護衛として連れ歩くことで、彼は更に他者から一目置かれるようになる。そうなれば彼に力を貸す「友人」は増え、組織も力を増す。それほどまでに「」という存在は影響力があるらしい。噂の全貌については私自身把握しきれていないが、大半はアルフレドによる誇大広告だろう。流石に不定形の人外にはなれない。
 ただ、単にトロフィー役として連れまわされていると言い切れないのが厄介な所だ。アルフレドと彼の「友人」の護衛を仕事として与えられることが多いため、私自身誰がアルフレドの「友人」なのかを把握していた方が動きやすくなるのだ。アルフレドもそれを見越して連れまわしていると思うと、複雑な気持ちだった。

「おや、ミスター神崎。あなたが直々にお出ましになるとは珍しい」
「臆病者ですから、いつもは恐ろしくて出てこられなくて。ですが今日は、このように心強い護衛が居ますから」
「そちらの彼女が? 随分と可憐なお嬢さんのようだが」
「ええ、そうでしょうとも。しかし彼女こそが――」

 アルフレドの「友人」が私を見る目は大体似たようなものだ。落胆、慢侮、不審といったマイナスな感情が殆ど。それもそうだろう、正体不明の「」が争いごとに慣れてなさそうな女だと知れば当然侮る気持ちも出てくる。
 けれど、彼らは直ぐに忘れるだろう。「」が女だったことも、「」を侮ったことも。私を認識した瞬間からその認識は歪められる。
 後から認識の上書をするのなら、何もパーティー会場に着飾ってくる必要はないのではないか、と以前問いかけたこともあったが、アルフレドに「世を忍ぶ魔法使いさんはドレスコードをご存じでない?」と笑われたため、仕方なしに毎度ドレスを調達している。まぁ、ドレスを用意しても余りある報酬を彼からは受け取っているのだが。
 そうやって何人かの「友人」に挨拶を済ませ、アルフレドは私に合図を送る。どうやら挨拶回りは済んだらしい。そっと彼の傍を離れて、壁際へと歩を進める。

 今回の任務は、アルフレドと先程紹介された「友人」の内一人、アルフレドが「セオドア」と呼ぶ資産家の護衛だ。セオドアは金髪のやや小太りな男で、上等なワインレッドのタキシードに身を包んでいる。汗っかきなのか、しきりにハンカチで汗を拭う姿が印象的だった。時折きょろきょろと周囲を気にするような仕草をしていたことから、脅迫状を受け取っているか、既に何度か危険な目に遭ってきたのかもしれない。
 そこまで推察して、後は深く考えないことに決めた。深入りは身を滅ぼす。それを忘れてはいけない。私はただ仕事をすればいい。
 壁際を移動して、一つ、二つと窓の数を数える。部屋の奥から四つ目の窓の前で足を止めた。外には目を向けず、夜景を映す窓へと背を向ける。
 ここは「友人」を常に視界に入れておける場所であり、かつ彼を虎視眈々と狙う狙撃手の動向も把握しやすい場所だ。誰がセオドアを狙っているかの情報が絞れなかった以上、護衛する場所がパーティー会場と知って周囲に探りを入れたが、ビンゴ。放った使い魔はこの会場を狙う黒い長髪の男の姿を捉えていた。ひとまずそこにマーキングを施して、狙撃手の動きを感知できる状態にしてある。
 私にできることなど、あとは壁の花になる位なものだ。そもそも用心深いアルフレドが雇った護衛が私だけの筈がなく、確実に数人、私以外の護衛が紛れ込んでいるだろう。大して必要ともしていない癖に私を引っ張り出そうと決めたのは、どうせ周囲を取り巻くのが男ばかりでは味気ないとでも思ったのだろう。つくづく、くだらない。信用がないなら引っ張り出さなければ良いのに、あの男は本当に私の嫌うことを。

「驚いたな。こんなにも美しい花を見つけるとは」

 最初は、それが私にかけられている言葉だとは思わなかった。何故って、私は確かに人除けの術を使っていた筈だからだ。傍らに立った男がそう言ったきり動かないのが分かって、ゆっくりと顔を上げる。黒い襟のついた灰色のタキシード。白いシャツ。顎髭から目元へと視線を動かして。

「……何か用かしら」
「つれないレディだ。美しい花を愛でたいと思うのは悪いことじゃないだろう? そんなに警戒しないでくれ」

 つり目がちなその瞳に見覚えがありすぎて、無視すればよかったものを気づけば言葉を返してしまっていた。気障ったらしく笑う顔は記憶の中の少年とは違い随分と成人男性としての色気を孕んでいたし、声も随分と低くなっている。
 けれど、このつり目がちな男は間違いなく――彼が「ヒロ」と呼んだ、あの少年に相違なかった。

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