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 それは始まりの記憶。
 悲しいときにきみの逃げ場になれればいいなと思った。きみが信じられる場所になれればいいなと思った。一時でもきみが安らげる場所であれればいいなと思ったの。
 きみは世界で一番美しくて、きれいだった。何者にも穢されないで、高潔で、どんな闇の中にいたってその輝きは消えたりしない。彼の光を見失わなければ、私は夜に怯えずにいられた。例え夜が明けなくても、夜明けを信じていられた。
 だからきみの願いは何だって叶えたかった。全ての悲しみからきみを守ってみせると傲慢に嘯いてみたかった。
 きみの光を抱いて、その記憶だけで歩いていけると思ったから。

 これは裏切りの軌跡。
 きみと私が大人になって、はじめて『箱庭』の外で相見えた時。きみはきっと失望しただろう。仄暗い世界に生きる、きみの信頼を裏切った私に。
 勿論この夜のことは忘れるように暗示をかけた。でもきみは私と会う毎に暗示が効きづらくなってきていた。だから『箱庭』の中で会えば、きみが私を問い詰めてくるのは分かっていた。
 きみと『箱庭』の外で会うつもりはなかったんだよ。きみを裏切るつもりはなかったんだ。せめてきみの知る『箱庭』の仲では綺麗なままでいたかった。だって私は、『箱庭』の外の私はとてもじゃないけどきみの前に立つ勇気がない。きみのようにまっすぐに生きてゆけない。いつだって後ろ暗くて、ずっと夜みたいな所で息をするしかない。だからきみがいつまでも光の中で歩いていけますようにと願っていたのに。きみの光を覚えていられるだけで良かったのに。

「こんばんは、はじめまして。僕はバーボンと言います」

 警察官になるのだと笑っていたのは誰だったの。本当は、私だってきみに聞きたかった。

 どうしてきみが、こんな薄暗い闇の中に足を踏み入れてきたのかと。

*


 もうずっと前の話だ。まだ何も知らなかったころ。まだ光の中を歩けると信じていたころ。
その日私はせんせいから課題を言い渡されていた。決して簡単な課題ではない、でも私たち、、、にとっては必要不可欠な通過点。この課題をこなすために、私は一人街の中を歩き回っていた。
 とはいえ子供の一人歩きは大人の目につきやすい。時に犯罪に巻き込まれることすらある。けれどそれは、あくまでも普通の子供であればの話。人の目を忍んで行動することは、私たちにとってなくてはならない技能だ。だからこそ行き交う人々は私に目もくれないし、私を見つけることも出来ない。誰も私を知らない。いつも通りの光景だった。すれ違う人を避けて歩いて、時に走って、時に跳んで。普段は座学が多いから、こうして外でのびのびと動き回れる日は気分が良かった。それでも下手を打った日にはこんな風に自由に外出させてもらえなくなってしまうから、いつだって気は抜けない。それに今回だって決して遊びに出てきたのではないのだ。

 ――誰か一人、自らの『箱庭』に連れてくること。それが、私への課題だった。
 『箱庭』はに伝わる能力だ。現実世界には存在しないが、起点となる人物の認識によって成立させることができる領域。力量によって出来ることは大きく変わるが、現実世界のものを持ち込むことも、招き入れた存在を傷つけることも癒すことも出来る。様は『箱庭』を介して物理的に距離があったとしても現実に介入できるということだ。そして『箱庭』では、大抵のことは叶えられる。
 ただ『箱庭』を構築している間、起点となる人物、要するに術者は酷く無防備な状態になる。『箱庭』の構築に集中力を使うため、現実世界に意識を置いておけなくなってしまうのだ。夢を見ている状態というのが一番近いかもしれない。夢との違いは先に述べたとおりだが。
 『箱庭』に人を連れてくる際には、「連れ込みやすい状態」にあることが重要となる。強いショックを受け茫然自失となっている状態もそうだが、最も『箱庭』に連れてきやすいのはその対象が「眠っている」時だ。自分という自覚を手放して現実世界との境が曖昧になる瞬間、術者は対象の意識を手繰り寄せて招き入れることが出来る。これが結構厄介で、対象が眠りにつく瞬間を釣り糸を垂らすようにじっと待っていなければならないから、忍耐力も試される。
 それでもの人間としては必要不可欠な研鑽だ、やり遂げなければならない。これまで現実世界のものを持ち込む課題は幾度もこなしてきたが、生身の人間を連れ込むというのはこれが初めてだ。そしてこの課題もただ連れ込むだけでなく、最終的に連れ込んだ人間に暗示をかけて「これは夢」だと強く意識させなければならない。
 その状況から連れ込まれた人間が現実だと思う可能性は限りなく低いと思うが、師曰く、念には念を、ということらしかった。

 とまあそんな経緯で、私は連れてくる相手を探していた。大人は駄目、と言われている。何でも子供に無体を働く不埒な輩が居るかららしい。だから連れ込むなら子供だと言われていた。
 私は大人と関わる機会が多かったためか、同世代の子供と関わるのは得意ではなかった。学校には通っていたし、私を友達と呼ぶ子たちも少なくはない。ただ、私にとって彼らは未知のもので、突然突拍子もないことを始めるから、行動が読めなくて不安だった。だから子供を連れていけと言われてもそちらのほうが私には恐ろしかったのだ。
 出来れば、大人しそうな子を選ぼう。その時はそんな風に思っていたのだ、私も。


 その男の子を見つけたのはきっと偶然だった。
 世界の全てが橙色に染まる頃。いい加減目ぼしい子供を見つけないと課題が出来なくなってしまう。そんな焦りを抱えながら、子供が居そうな場所を駆け巡って。でも夕暮れ時で家に帰り始めたのか、学校にも目ぼしい子供はいない。同世代の子供の遊ぶ場所なんてよく知らないから、公園にでも見に行ってみようか、とそこを覗いてみた。でもそこにも遊んでいる子供はいなくて――遊んでいる子供はいなかったけど、代わりに遊具の中で蹲っている男の子はいた。
 自分のことは棚に上げるが、外で一人で遊んでいる子供というのが珍しくて、気づけばその子に近づいていた。遠くからでは暗さもあって気づかなかったが、真正面に立てばその子が嗚咽をもらしているのが分かる。
 驚いた。そんな場所で同じ年頃の男の子が泣いていたから、それもある。でもそんなことじゃなくて。
 象牙色の髪。琥珀み似た色の肌。その隙間で潤んで光を帯びた空の色。それらの色を捉えた瞬間、彼に私は見えていないと分かっていながらも、思わず息を止めていた。

 なんて、きれいなおとこのこ。

 見えていないのを良いことに、私は腰を落として彼の顔を覗き込んでいた。何度も何度も服の袖で顔をぬぐう彼の、その瞳の色が見たくて。世界の色を奪ってゆく夕暮れの中であっても、彼の色は失われず確かにそこにあったから。
 一体彼に何があったのか、何がそんなに彼を悲しませているのか。分からなくて、でもどうにかしてあげたいと、そんな気持ちが頭を擡げた。どうしたのと声をかけたくて、口を噤んだ。
 
「ゼロー! どこだー!」

 目の前のこの子じゃない他の誰かがそう呼ぶ声が聞こえて、咄嗟に立ち上がる。きょろきょろと周囲を見回してみれば、公園の入り口の方から黒髪でつり目がちな瞳の男の子が近づいてくるのが見えた。

「……ヒロ」

 つり目がちな男の子の方に気を取られていたから、すぐ隣で聞こえたその声に文字通り飛び上がってしまった。私より少し背の低い空色の瞳の男の子は、つり目の男の子が来るやいなやぐしゃぐしゃだった顔を何とか拭き取って膨れ面で迎えた。そんな彼を見て、つり目の男の子はうげぇ、と心なし嫌そうな顔をする。

「お前、またケンカかよ」
「うるさい。あいつらが悪い」

 さっきまであんなにも涙で溢れていたのに、それを登場だけで止めてみせたこのヒロという男の子に尊敬の念を抱く。もし、私が彼に見えていたらどうしただろう。きっとおろおろしてしまう。怒らせてしまうかもしれない。どうしたらいいか分からなくて棒立ちになってしまうかも。現に私は今何もせずに見ていただけだ。
 でもどうしてだろう? そうなると分かっているのに、この綺麗な男の子と話をしてみたいと思うのは。

「誰だ?」

 気を抜いていたつもりはない。この綺麗な男の子に目を奪われていたのは確かだけど、私はちゃんと人を避ける術を纏っていた筈だ。それが気づけばヒロという男の子は間違いなく私の姿を捉えていて、疑うように目を細める。しかし見えているのは彼だけなのだろう、空色の男の子は「急に何言ってんだよ? 冗談はやめろよな」と訝し気に辺りを見回して、最終的にヒロを睨みつける。
 彼に見えていないということは、ただヒロという男の子がそういったものに耐性があったのだろう。稀にそういう人間もいるとは聞いていたが、まさか本当に出会うとは思わなくて、気づけば踵を返し走り出していた。「あ」と後ろから声が聞こえたけど、今の私にはこの場から離れるほうが急務だった。

 大丈夫。あの瞳は捉えた。私があの瞳を覚えている限り、私はあの子を連れてこられる。そう自分を納得させながら、私は元来た道を走って帰った。時に跳んで、時に飛んで。

 太陽が地平線の向こう側へ消え去ってすっかり夜の帳がおりた頃に、ようやく「紅茶専門店 」という看板が掲げられた我が家へと帰宅した。煉瓦造りの、少し蔦が伸び始めている古風な外装をしている家屋だ。CLOSEとかかった扉を素通りして、店の裏手に回り、そこにある玄関をのノブに手をかけて回す。

「ただいま、お母さんせんせい

 ふわりと鼻腔をくすぐるクリームシチューの匂いに気を取られつつ、一言報告せねばとキッチンへ向かえば、師は鍋の中をかき混ぜながら此方を振り返っていた。

「おかえり。課題はこなせそう?」
「うん。綺麗な子見つけたから、その子にする」
「綺麗な?」
「綺麗な男の子」

 何故か師は意外そうに目を丸くしていた。何か人選におかしなところがあっただろうかと眉を顰めると、それに気づいた師がいや、と首を振る。

「別に悪いことではないよ。ただ、が人をそう評価するのが珍しいと思って」
「そうだった?」

 確かに、他者を評価するのに「綺麗」という言葉はあまり使ってこなかったかもしれない。煌びやかに輝くものなら今までだって沢山見てきたけど、それらを眩しく思っても綺麗とは思わなかった。

「それよりその、聞きたいことがあって。あの、その子に紅茶を出したいんだけど、何がいいかな」
「……そうね、相手の好みも分からないし、無難な比較的普通に流通しているものがいいと思う。香りとか味が独特でないもの」
「ミックスベリーティーとかだめかあ。ミルクも使うか分からないし、ダージリン?」

 そうだね、と言いながら師がコンロの火を止めて鍋を持ち上げる。私は慌てて皿を取りに食器棚へと走り二人分の深皿とスプーンを準備した。テーブルの上にはすでにパンが用意されていて、私に先に座るよう促すと師は鍋から深皿へとクリームシチューを移した。移し終えた鍋は私がテーブルの中央に設置した鍋敷きの上に置き互いに向き合う形で席に着いてから、食前の挨拶を終えてから食べ始める。

「ダージリンには何のお菓子がいいと思う? あの子は甘いものとか大丈夫かな」
「余程その男の子のことが気に入ったんだね」

 少しだけ咎めるような響きを感じて、思わず手が止まる。恐る恐る師を見上げるも、師はもそもそとパンを口に運んでいた。

「だめ、かな」
「深入りは身を滅ぼす。何であれね。初めての客人をもてなしたいという気持ちは分からないでもないけど、程々にしておきなさい。私たちが招く相手が、いつまでも好ましく思う人間とは限らない。特に私たちは人とは違うのだから」
「……はい」

 膨らんでいた喜びの風船がしゅるしゅると萎んでゆくのが分かる。深入りするのはいけないことだと、私もの人間として少しは理解していたつもりだった。けれど態々釘を刺されたということは、師の目から見ても私は相当浮かれていたのだろう。そう思って少し反省した。

 本当はもっと真摯に受け止めて言いつけを守っておくべきだったのだろうと、今になっては思う。けれどこのころは何も知らな過ぎた。誰かを信頼しすぎることも、誰かを気にしすぎることも、いつか誰かを傷つけることになるなんて分からなかったんだ。


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