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 或いは何が夢で、何が現実であったのか。
 彼――バーボンは、気が付けば一人屋上で立ち尽くしていた。一瞬何が起こったのか分からず、全身に緊張が走る。油断ない目つきで周囲に視線を走らせるも人の気配はなく、ただ、白み始めた空に有明の月が浮かんでいるだけ。
 何故だ。どういうことだ。自分は確かに、彼女に銃口を向けていた筈だし、必要以上に注意を向けていたのに。気が付けば両腕はだらりと下がっており、バーボンが愛用する銃はホルスターに仕舞われている。混乱のあまりバーボンとしての余裕が崩れかけたが、自分を失ってはいけないと拳を握りしめた。手のひらから伝わる痛みが、徐々にバーボンの思考を落ち着かせる。
 あれからどれほどの時間が経ったのだろう。かなり長い間外気に晒されていた筈だが、不思議と体は冷えていない。身体や所持品に異常がないことを確認すると、バーボンは地上へと繋がる階段へと向かう。
 カツン、カツン、と一歩段を降りるごとに音を立てながら思考する。まずは自分がどこまで覚えているかだ。確か、自らバーボンだと名乗り、彼女の名前を暴いた。それが本当に彼女の名前だったのかどうか、彼女の反応からでは判断がつかなかったが。
 その後更に公安から得ていた彼女の情報を浴びせて、その反応を見ようと思ったところまでは覚えている。
 しかし――その後のことが、どうあっても思い出せない。辿り着こうとするとすうっと薄くなってしまって、実態をつかめない。いっそのこと、思い出さなくてもいい気さえしてきてしまう。それは彼の常日頃の思考としてはあり得ないことだった。日常に潜む微かな違和感を自覚していなければ、彼の仕事は成り立たない。それは、バーボンであっても、安室透であっても、降谷零であっても変わらないのに。

 愛車であるRX-7まで戻ると、再び素早く辺りに目を走らせてから運転席に乗り込む。そこまで来てやっと、溜息が出た。
 不可解なことが多すぎる。彼女はどうやってバーボンの目を欺いたのか? どうやってここから立ち去ったのか? 何故自分は長時間立ちすくんでいた筈が誰にも見止められず、また全身の違和感もなかったのか? 何故思い出せない記憶があるのか。
 エンジンをかけ、緩やかに発進する。自慢ではないが、あの瞬間自分に落ち度があったとは思えない。薬を盛られるような下手は打ってないし、体調も悪くはなかった。第三者の存在も考えたが、あの場にはバーボンと彼女以外の気配はなかったし、仮に何か物理的に落とされたのだとしても、意識を取り戻した時に何の外傷も痛みもなかったのは不自然だ。
 戒めのようにゆるやかに思考を奪う何かに、彼は舌打ちする。……あまり信じたくはないが、彼女に暗示か何かでもかけられたと考えたほうがしっくりくる。

 は、バーボンが属する組織と敵対する別の組織と共によく耳にする名前である。外に出てくることは少ないようで、個人としての情報の入手も芳しくはなかったが、気になる情報は耳にしていた。
 例えば、件の組織の護衛役だとか。拷問に特化しているとか。人を誑し込むのが得意で、神出鬼没で不定形の人外であるとも。最後の一つは根の葉もない噂だと思うが、それでも「」という人物がただ者ではないと警戒するには十分だった。
 だから――だからこそ、「」とされる人物と対面したとき、驚愕した。に関する前情報から余程陰気な存在か、或いは屈強な人物だと想像していた、というのは少なからずある。しかし最たるものはやはり、があまりにも夢の中の彼女とそっくりだったことだろう。
 彼にとって、彼女こそこんな闇の世界とは最もかけ離れた存在だった。平穏の象徴と言っても良いだろう。結びつかなかったのだ。いつだって光の中にいたから。
 それに彼女は人外というよりも、まるで。

「まるで……」

 夢の中で彼女が度々起こす不思議な出来事を思い出す。何もない所から出現する紅茶や茶菓子。いつ訪れても居心地の良い空気と温度。時々で変わる植物の種類。夜の来ない温室。夢だと言ってしまえばそこまでだが、仮に彼女が「」本人だとして、何らかの方法でその不思議な出来事を起こしているのだとしたら。

 まるで、魔法使いのようではないか。

「……はは、そんな馬鹿な」

 そんな馬鹿な。そんな事、あり得るはずがない。バーボンは軽く頭を振る。魔法だなんてあまりにも非現実的だ。夢の中の彼女と「」が偶然同じ顔をしていただけに違いない。彼女は夢の中にしかいない。いや、あれは彼女だ。自分の夢の中の登場人物が現実世界にいるはずがない。「」は彼女だ。

 彼は一度大きく息を吸うと、ゆっくりと吐いた。
 あり得ないと思いながらも、断じきれない自分がいる。昇り始めた太陽に顔をしかめた。
 公安から齎された情報では、間違いなく「」という人間は存在している筈である。個人を特定できない情報が多かったため、それが複数名を可能性も視野に入れていた。すると、先程邂逅した彼女は「」の一人なのだろうか。兎も角、更なる調査の必要性を感じた。

 「」とは何者なのか。何処へ向かったのか。今回の件の報告と共に、彼女に逃げられたことを何と説明すべきかも考えなければならないな、と嘆息した。

*

 ああ、此処か。覚えのある匂いに、零は知らず上がっていた肩を下した。ゆっくりと目を開けば、植物のアーチがかかった道が奥へと続いている。来るたびに違う植物に覆われているが、今回は鬼灯らしい。最後に来たのは数年前だったが、此処は相変わらずのようだ。一応身だしなみを確認すると、今日は白のワイシャツに灰色のスラックスに革靴と、公安の仕事をしている時のような服装だった。何でこの服装なんだ、と苦笑する。ネクタイはしていないから、帰宅後の服装といった感じだ。まぁ、ここに来る時はいつもそうだが。
 ずっと立ち尽くしていても仕方ない。相変わらず歩くとじゃりじゃり音がする道を歩けば、すぐに開けたところに出た。整えられた芝生の中央に、東屋のようなテラスが見える。ああ、そうだ、こんな感じだったな、と一人ごちていると、零の双眸が白い影を捉える。

「うん……?」

 彼女は零に背中を向け、テーブルの前で何か考え込んでいるようだった。いつもはこちらが気づく前に声をかけてくるのに珍しい。思わず声を上げれば、気づいた彼女がゆるりと振り返り、スカートが翻った。今日は半袖にハイウエストのワンピースらしい。相変わらず白一色だな、と思っていると、彼女はにっこりと微笑んだ。

「久しぶりだね」
「ああ、久しぶり」

 ああ、間違いなく彼女だ、と確信する。零も目を細めて応じれば、彼女はやっぱり嬉しそうに笑みを深めた。
 今回も手招かれるままに席に着くと、正面居座った彼女が早速「紅茶と緑茶、どっちにする?」と指を汲んで尋ねてくる。どうしても紅茶を淹れたい場合は零に聞くことなく先に紅茶が出てくるが、今回は零に選ばせてくれるらしい。

「じゃあ、緑茶で」
「はーい」

 パッ、と彼女の目の前に急須と二つの湯飲み、そして二人の目の前には羊羹が現れる。布に覆われていたわけでもない。手品ではなく、これでは本当に魔法のようだ。相変わらずどういう仕組みなのか分からずに腕を組み羊羹を睨んでいると、零の分の緑茶を注ぎ終わった彼女が首を傾げた。

「何だか疲れてる?」
「……何で?」
「すごく寝不足っぽい顔してる。寝てないでしょ」

 確かに、昔に比べれば睡眠時間は減った。しかし体調管理は怠っていない。実際、此処に零が来ているということは睡眠をとっているということでもあるのだが、彼女が言いたいのはそういうことではないのだろう。

「まあ、最近は忙しいからな」

 湯飲みを受け取りつつそう返したが、どことなく言い訳っぽい響きになってしまったことに内心焦った。いつもならどんな人間をも演じ分けられるのに、どうしてか此処では直ぐに感情が出てしまう。
 彼女が自分の分を注ぎ終わるのを待って、零は湯飲みに口を付けた。

「……玉露か」
「あ、分かった?」
「ああ。ちゃんと低温の湯で淹れたみたいだな」
「前に凄く怒られたから、流石にね」

 そんなこともあったな、と記憶を辿る。折角の玉露を熱湯でいれてきた彼女に異議を唱えたことがあったから、きっとその事を言ってるのだろう。
 湯飲みを置く。羊羹を一口サイズに切り分ける彼女を見つめながら、零は徐に口を開いた。

「君は一昨日の夜、何をしてたんだ」
「夜?」

 一昨日とは即ち――彼が「」と邂逅した、あの夜の事である。
 彼女は不思議そうに目を丸くすると、再び首を傾げた。

「ここに夜は来ないよ?」

 その言葉に、今度は零が目を丸くする番だった。確かに、ここが夜だったことはない。いつだって穏やかな光に包まれていて、居心地が良くて。休息のためだけにあるかのような空間だ。納得しかけるが、それでも確認しておかなければならない。これは今後の公安の仕事としても、組織の仕事としても重要なことだ。

「夜は来ないかもしれないが、君はさっき僕を見て『久しぶり』と言っただろう。それはつまり、ここにも時間の概念があるということの筈だ。……一昨日、何をしていたんだ」

 彼女は少し困ったような顔でひっそりと笑った。その表情はまるで駄々をこねる子供を仕方ないと見つめる大人のようで、零は僅かに眉を顰める。

「ここはきみの夢だよ」

 しかし彼女の口から零れ落ちた言葉は、零の思考を一瞬でも止めるのに十分だった。

「きみの夢だから、きみの思うだけ時が過ぎる。もしきみが一昨日ここに来ていたら、一昨日の私が此処にいたかもしれない。でも、きみと私は一昨日ここで出会わなかった。だからね、一昨日の私はいないんだよ」

 哲学めいた言葉だ。じわじわと侵食してくる言葉は呪いのようで、零は少しだけ閉口する。確かに、此処は零の夢なのだろう。彼女がこれまでそれを明言してきたことはなかったが、ここが夢だということは零にも十分に分かっている。だから、そんな事実を伝えられたことに驚いた訳じゃない。
 これは、拒絶だ。彼女から零への線引き。これまで彼女は零の言葉を拒絶したことはただの一度もなかった。だからこそ零は少なからず動揺したし――同時に、この言葉を自分にも、零にも言い聞かせていると感じた。
 何故今回に限って、彼女は拒絶したのか。最早答えは出ているようなものだったが、彼はどうあってもはっきりさせなければならなかった。
 もしこのまま零が追及を諦めれば、この関係は変わらず、この場所も零にとっての安息地帯であり続けることだろう。どうせ夢だ。夢くらい、幸せな夢を見たい。子供の零がそう言って泣きじゃくる。零はその子供を黙らせると、渇いた唇を一舐めし、口を開いた。

「だが、今君はここにいる」
「そうだね」
「なら、君のことを聞かせてくれ」
「それは随分と急、だね?」
「そんなことない。ずっと知りたいと思ってた」

 彼女の瞳が僅かに揺れた。うーん、と考え込むように両手を膝に置いて俯いた彼女だったが、ややあって考えがまとまったのか、顔を上げた。

「きみの思う私の姿が、それが私だよ。それ以上も、それ以下もないなあ」
「じゃあ、名前はなんて?」
「ないよ? 名前がなくて不便なら、きみが付けてくれればいい」

 話している内に落ち着きを取り戻したのか、彼女は再び腕をテーブルの上に伸ばすと、湯飲みを手に取って口元へ運ぶ。

「じゃあ、
「……
「君の名前。付けていいって言ったろ」

 彼女は、は何かを言いかけたが、それもすぐに苦笑に変わった。そして瞼をおろすと、そう、と頷く。

「でも、どうしてそういう名前にしたの?」
「一昨日会った人が、君にそっくりだったんだ。その人の名前が、って言うらしくてね」
「へえ、どんな人?」

 あくまでも会話に不自然さを滲ませないためか、挙動にやや不審なところは見えるが、意外にもは話に乗ってきた。零は何と答えるべきか思案する。
 そうして答えようとしたところで――例は世界が急速に遠のいていくのに気が付いた。目覚めの予兆だ。必死に手を伸ばして彼女の手を掴もうとする。離れてゆく。まだ来たばかりなのにどうして。待ってくれ、まだ、まだ確かめられてない。まだ、彼女を、を――困らせたままなのに。

 世界が、白く染まる。

*

 都内某所。ホテルの最上階を根城とする彼女は、気怠げな様子で広いベッドから起き上がる。カーテンの隙間からうっすらと差し込む朝日を鬱陶し気に眺めると、片腕でその金糸のような髪をかき回した。

「きみの見ている私が、私のすべてであればどんなに良かったかと思うよ」

 彼女の呟きは、誰にも聞かれることはなかった。

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