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 バーボンが取り逃がしたのが珍しかったから、そのターゲットの事は気になっていた。
 「」は、裏社会では都市伝説的に囁かれる人物のことである。その人物については様々な情報が錯綜していて何を生業にしているのか見えてこないが、比較的耳にするのは「護衛を請け負うことが多い」というものだ。どうやら依頼された護衛の仕事は必ず完遂してみせることに定評があるらしい。ではそれほどの腕前を持つのがどんな姿をしているのかと探りを入れてみても、その人物の容姿に関する情報はいつも定まらない。屈強な男だと言う者も居れば、幼い子供だと言う者も居る。外国人だったと言う者も、邦人だと言う者も。……確かに会ったはずなのによく覚えていない、とうすら寒そうに語った者も居た。
 そんな情報ばかりだから、裏社会の人間の「」に対する評価もまちまちだ。上手く情報を攪乱させられる腕の良い「本物」だと賞賛するものもいれば、バーボンらが所属する組織のように半信半疑に思うものもいる。
 そしてスコッチ個人としては、「」は複数名で行動する裏社会の団体の総称なのではないかと考えていた。それぞれ得意な分野がある「」達が、その分野に合わせて依頼に応じているのではないか、と。それならば、「」を知っている人物の証言が異なっていることにも説明がつく。

 ――しかし、バーボンは少し違うことを考えているようだった。彼は「」を取り逃がしたとスコッチに話した日、奇妙なことを語っていた。

「じゃあ、『』はハーフっぽい女だったってことか?」
「ええ。今説明したように金髪碧眼、細身の女性でした。ただ、どうにも記憶が曖昧なところがあって」

 組織への報告を終えた後、スコッチのセーフハウスに戻ってきたバーボンは眉間を揉みながらスコッチに話した。少し視線を下げながら話す様は、朧げな記憶の糸を手繰っているようにも見える。古くから記憶力の良かった彼を知るスコッチにとって、そういった姿を見るのは非常に珍しいことだった。

「そういえばバーボンが意識を失うなんて珍しいな」
「意識を失った、と言うよりは……何か、強引に忘れさせられた気がするんです」
「強引に? 暗示か?」
「その可能性は否定できませんね」

 冗談半分で言ったつもりが、思いがけず肯定の言葉が帰ってきて面食らう。バーボンが黙って暗示なんぞにかかるとはとても考えられないが、そう思うだけの何かがあったのだろうか。
 ちら、とバーボンはシャワールームの方を見やった。シャワーを浴びに行ったライのことを気にしているのだろう。未だ水音が絶えないのを確認して、しかし先程までより声を潜めて続けた。

「以前、スコッチには僕が時折見る夢の話をしましたね」
「ああ、同じ人間が出てくるって夢のことか」
「はい。『』は、その夢の中の人物とそっくりだったんです」
「……気の所為じゃないか。色が似てたから重ねてしまったとか」
「そうなら、良いんですけどね」

 どこか諦めを滲ませた声音のバーボンに、スコッチは困惑する。と、そこでシャワールームの方からライが出てくる音がした。バーボンは直ぐに顔を引き締めるとそちらへ目を走らせる。

「俺に隠れて仲良くおしゃべりか?」
「あなたには関係のない話です。というか床が濡れるので髪乾かしてから出てきてください」

 濡れたままの長い髪を拭きながら現れたライに、バーボンは露骨に嫌そうな顔をしてそう言った。

*

「……何か用かしら」

 そう平坦な声音で此方を見上げてきた女は、なるほど、金髪碧眼ではあるものの日本人の血を感じさせる顔立ちをしていた。

 バーボンから『』を目撃したとの情報を受けたスコッチだったが、意外にもバーボンが話していた外見に一致する『』という人物はを見つけるのにそう時間はかからなかった。このパーティー会場に外国人風の女は多いが、金髪碧眼、そしてボブカットの女となるとかなり絞られる。そうやって見つけた女を見失わないようにしながら、暫く行動を監視していたスコッチだったが――どうも様子がおかしい。
 彼女はずっと、一人の若そうに見える茶髪の男に連れられて様々な人物の所に顔を覗かせていた。何を話しているのかを聞き取ることはできなかったが、妙なのは彼女を見た男たちの反応だ。
 確かに彼女は顔立ちこそ日系だが、モデルをやっていると言われても違和感のない整った顔をしている。それなのに男たちは彼女を嘲笑交じりに一瞥した後は、一切彼女に見向きもしないのだ。まるで彼女が居ることすらもう忘れたとばかりに。今回スコッチたちが暗殺する予定である資産家の男もまた類に漏れず、彼女を一瞥した後は喜々として茶髪の男との話に興じていた。
 おかしな点はそればかりではない。まず、彼女に注がれる視線の少なさだ。茶髪の男と共に挨拶に行った時には視線を集めるが、移動中や男の傍らで立っている時には誰も彼女の方を見ようともしない。あの茶髪の男が牽制でもしているのかと思ったが、彼女が男と離れて壁際へ向かっても彼女に話しかける男は存在しなかった。やっと誰か彼女に近寄って行ったかと思えば、彼女のことなど眼中にないと言った様子でその前を素通りしていく。彼女自身、それが当然であるとばかりに何も気にした様子はなく、ただ置物のようにじっとパーティーの様子を眺めているだけだ。
 彼女の周囲には見えない壁があって、そこだけが違う世界にあるのではないか。そんな想像が浮かんでしまう程度に、彼女だけその場から浮いているように思えた。その違和感を確かめるためではないが、何の感情も浮かべず息を潜めるように佇む女へ、気が付けばスコッチは声をかけていた。

「つれないレディだ。美しい花を愛でたいと思うのは悪いことじゃないだろう? そんなに警戒しないでくれ」

 スコッチの顔を見て、女はあからさまに眉を顰めた。遠くから見つめていた時はずっと無表情だったため、それを少し意外に思う。或いは、軽薄な男は好みではないのかもしれない。その割には此方に向けた視線を逸らさないのだから、何か思惑があるのか。
 それに最初話しかけた時、スコッチの存在に気付いていない風だったことも気にかかる。いや、存在自体は気付いていたのかもしれないが、「自分が話しかけられているとは思ってもみなかった」とでも言うかの如く、此方を確認するように恐る恐る見上げてきたのだ。それが話に聞く「」とは到底結びつかなくて、少々面食らったのは事実である。
 その仕草はまるで、本当にただその辺りにいる一般人のようで。

「なぁ、以前会った事ないか?」
「気のせいじゃないかしら。少なくとも私は覚えがないわ」

 しかし使い古された口説き文句は一瞬で切り捨てられる。やや嫌悪すら滲んだ返答に、スコッチは苦笑した。

「手厳しいな。けど俺は君に運命を感じてるんだ」
「そう、それは随分と安っぽい運命なのね」

 嘆息と共に逸らされた視線に、スコッチは僅か、目を細める。彼女の視線が一瞬、暗殺予定の男を捉えたことも見逃さない。――彼女が、この暗殺について何かしらの情報を掴んでいる線は濃厚になった。口調さえ気位の高さを感じるものの、振る舞いは一般人に思えたため本当に「」なのかも疑わしいが、少なくとも本来の意味の「一般人」ではないのだろう。裏社会の人間が蔓延るこのパーティに参加している時点で分かっていたことではあるが。
 それに、今彼女が立っている位置は丁度暗殺対象とライを結ぶ一直線上に位置する。このままではライの任務遂行に支障が出る。どうにかして彼女をこの位置から動かす必要があった。

「ここで美しい花を独り占めするのも悪くないが、まだ食事も手を付けてないんじゃないか? 勿体ない。どうだろう、俺と一緒に食べに回らないか」
「まるで私が此処にいると不都合があるとでも言いたげな物言いね」

 彼女のすっと細まった瞳にひやりとしたものを背中に感じつつ、スコッチは変わらず笑顔を浮かべた。

「そういう訳じゃないさ。ただ、君をもっと明るい場所が似合う」
「……驚いた。今日がこんなに最低な日になるなんて思わなかったわ」

 興覚めとばかりに、女は視線を落とした。吐き捨てるような物言いは今までで一番感情を帯びていて、スコッチは内心首を傾げる。そして彼が再び口を開こうとした次の瞬間――会場が暗闇に包まれた。スコッチは咄嗟に女の腰を掴むと自分の方に引き寄せる。だが、いつまで経ってもガラスの割れる音はしない。そして女も特に撃たれたような素振りはなく、身体を固くしてスコッチに身を寄せている。
 妙だ。スコッチは女の腰を引き寄せたまま周囲に目を走らせる。暗殺に成功した際にはバーボンが照明を落とし会場から脱出する手筈になっているのだが、今のはどう考えてもタイミングが早すぎる。ライが撃った気配すらない。
 突然の停電にざわついていた会場だったが、ややあって光が戻るとほっとした表情が辺りに広がる。ちらほらと再開する歓談を耳にしながらスコッチは人影の中から直ぐ様暗殺対象の男を探し当て――細く息を吐いた。
 暗殺対象の男は、まだ無傷で立っていた。

「手、離してもらえるかしら」

 はっとして視線を落とすと、女がスコッチの胸を押して離れようとしているところだった。女はスコッチの力が緩んだ隙を逃さず、するりと腕から逃れる。慌てて伸ばした手は、向けられた視線に止められた。仕方なしに手を下ろし、声だけをかける。

「君、怪我は」
「ご覧の通り、勝手に引き寄せられた以外はどこも。もういいかしら。あなたと話してると疲れるの」
「っ待ってくれ。一つだけ」

 直ぐに踵を返そうとする女を、スコッチは呼び止めた。迷惑そうにしながらも留まる女に、スコッチは唇を湿らせる。

「『』は、君か?」

 女は、最早スコッチには興味はないとばかりに、今度こそスコッチに背を向けた。

「本当に、最低な日」


*

 薄着でいるには些か時季外れだろう。だから男は黒いジャケットで身を包んでいたし、ニット帽から零れた長髪は屋上に吹く風で時折揺れる。日中ならば目を引くであろうその黒さも、深くなる夜には良く溶け込んだ。
 男の射線に障害はあった。だが、男の射撃の腕前はその程度難なく排除出来得るものであったし、排除するまでもなく対象の命を刈り取ることも可能だった。
それ以外何事もなければ、、、、、、、

「こんばんは。良い夜だね、狩人さん」

 口元に笑みを浮かべた女は、男が起き上がって構えた拳銃にも怯むことなくそう言ってのけた。ゆらゆら、ゆらゆらと重しのない風船のような動きをするその姿は、異様の一言に尽きる。雲が月を隠している今断言は出来ないが、恐らく金髪だろう明るい髪が動きに合わせてふわふわと揺れた。
 狩人――ライが銃口を向けても一切動じた素振りを見せないのは、先程音も気配もなく現れてライフルの照準を物理的にずらしてきた女である。ライから5、6歩離れたところに転がっているライフルを視界の端に捉えながら、彼は口を開いた。

「誰だ」

 しかし女は「さあ?」と愉快そうに笑うだけだった。確かに笑っている、が、ライにはその様子が人でないものが人らしさを演じているようにしか見えず、そんな馬鹿馬鹿しい違和感を覚えた自身に眉を寄せる。

「ふざけているのか」
「いいえ? こう見えて仕事熱心」

 その返答にライは引鉄にかける力を強める。ライの狙撃の邪魔したことを「仕事」だというのなら、この女は組織の敵と言えるだろう。そもそも――今にも暗殺対象を射抜かんと引鉄を引き絞った瞬間に横から二脚を蹴りとばしてくるような女は前代未聞だ。蹴とばされるまでその存在に気付けなかったライにも問題があるが、屋上からの扉には常に気を払っていたし、其処に人が出入りしたなら直ぐに分かるはずだ。しかし、ライが此処に陣取ってからというもの、人の気配は全くしていない。そしてそれは、今もそうで。
 ならこの目の前の女の形をした何かは何なのだ。

「けどもう目的は果たしたし、良いよね? あ、狩人さんの狙ってた人、悪いけど今日は殺すのやめてよね。そうじゃないと余計な手間が増えちゃうから」
「待て」

 手を振り去ろうとする女を留めるため発砲しようとしたその時、さあっと空から月光が降り注いだ。それで手元が狂うライではないが、自身が目にしたものが信じられず息を飲む。
 ライは、暫く呼吸を止めていたことに気づいて息を吐いた。そして未だ警戒はしながらも、静かに拳銃を下ろしてライフルの回収を始める。その際にもう一度屋上を見回すが、その場にはもう、女の姿はなかった。


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