星を見る人 - 春



 痛いくらいだった風も和らぎ、外を眺めながらついうたた寝などしてしまう時節。終わってしまった桜の花を惜しみつつ、雨彦は事務所への道を歩いていた。

 彼が目指す事務所は、勿論315プロダクションである。冬に受けたオーディションに見事合格した雨彦は、時を同じくして合格した元海洋学者である古論クリス、そして元雑貨屋の北村想楽と共に「Legenders」というユニットを結成することになった。
 それから数カ月が経過し、アイドルとしての立ち居振る舞いにもやや慣れてきた頃。今日はレッスンのため、事務所に赴いている次第である。信号を渡って見上げた先――やや古めかしい煉瓦風の外装の「齋藤ビルディング」というビルに入っているのが315プロの事務所である。雨彦は上から下までビルを眺めていたが、ややあって満足げに頷くとビルの中へ入り階段を上っていった。

 事務所の扉をくぐれば、正面に薄型テレビと、その手前両脇に鎮座するソファに迎えられる。其処には大抵、誰かしら所属アイドルが好きに居座っているものだが――今日は高校生バンドユニットのHigh×Jokerハイジョーカーが何かノートを片手に盛り上がっていた。新曲の相談でもしているのだろうか。
 雨彦の登場に気が付いたHigh×Jokerのムードメーカー、伊勢谷四季はばっと顔を上げると、「雨彦っち! お疲れ様っす!」と元気よく手を振る。それにつられて顔を上げた他のメンバーも「お疲れ様です」とにこやかに声を上げた。
 
 ――随分と心を許されたもんだ。

 「お疲れさん」と声を掛けながら左手にあるロッカーを開けつつ、横目で再度High×Jokerの方を見やる。そしてそこには矢張り、高校生に混じるには些か年を重ねすぎている黒髪つり目無精髭の男の姿。
 真っ先に雨彦が来たことに気付き、それまでHigh×Jokerに混じってノートを覗き込んでいた男が「お疲れ」朗らかに笑いかけてくるのが、雨彦には見えていた。
 初対面の頃からすれば随分な変わり様だ。雨彦以外には見えていないらしいその男は、バンドに思い入れでもあるのか比較的High×Jokerの面子、特にベース担当の榊夏来のことを気にかけていた。夏来がベースの練習を始めた時などは特に、傍らで楽しそうに様子を見守っているのをよく見かける。
 今も彼は興味深げにノートを覗き込んでは、時折呆れたように、時折困ったように、そして時折嬉しそうに笑顔を浮かべていた。

 ロッカーに荷物を仕舞い終えた雨彦は、彼らに背を向けると事務所の更に奥へと歩を進める。
 窓際に置かれた二つの事務用デスク、背後にアイドルたちのスケジュールが書かれたホワイトボードのある方がプロデューサーの机なのだが、どうやら今は席を外しているらしくその姿が見えない。何処へ行ったのかと少し顔を巡らせると、給湯室からひょっこりと顔を覗かせたプロデューサーと目が合った。

「葛之葉さん! お疲れ様です。今からお茶入れるんですけど、葛之葉さんも飲みますか?」
「ん、お願いできるかい?」

 言いながら給湯室へと足を踏み入れれば、プロデューサーは自身のものと雨彦のマグカップを横に並べ、そこに急須からお茶を注ぎ入れる所だった。給湯室にはティーバッグも用意してあるため態々茶葉を出して準備する必要もないのだが、今日はそういう気分だったのだろうか。

 晴れて雨彦が315プロのアイドルになると決まった日、彼女は改めて自身の名が「降谷」だということを名乗った。好きなように呼んで構わないと言っていたが、大多数のアイドルに倣って彼女のことは「プロデューサー」と呼ぶに至っている。別に、その名以外で呼ぼうものなら彼女の後ろの男による審議が入りそうだとか、そういう理由ではない。

「早いですね、レッスン開始までまだ三十分以上ありますよ」
「何、事務所がちゃんと片付いているか心配になってな」
「か、片付いてます、よね?」
「そう身構えなさんな……今日の所は及第点ってところか?」

 口端を引きつらせながら差し出されたマグカップを受け取りつつ、雨彦は悪い顔で笑う。あからさまにほっとした表情のプロデューサーは揶揄わないでくださいよ、と息を吐きながら給湯室を出ていく。雨彦もその後に続いた。

「そういえば、お前さんに聞こうと思ってたことがあるんだが」
「はい、何でしょう?」
「お前さんの知り合いに、黒髪でつり目、無精髭を生やした知り合いはいるかい?」

 雨彦は誰かの視線が此方に向いたのを感じつつ、デスクの近くで立ち止まったプロデューサーに問いかける。プロデューサーは初めきょとんと眼を丸くした後、マグカップ片手に上の方へと視線を向け「うーん」と唸る。

「つり目、黒髪の知り合いは何人かいますが……髭はちょっと分からないですね」

 そう言って首を傾げた彼女に、雨彦は「そうか」と頷いた。


 別室でのレッスンを終えて事務所に戻ってくると既に日没の頃合いとなっており、事務所内のブラインドは全て下ろされていた。既にHigh×Jokerのメンバーの姿は事務所にないことから、彼らはもう帰宅したのだろう。
 白い照明が照らす事務所内では、プロデューサーが手帳を片手にホワイトボードに書かれた予定と睨めっこしている。集中しているのか、彼女はまだ此方に気づいた様子はない。
 男は、今度はプロデューサーの手帳を覗き込んで「こっちの方が良いんじゃないか?」と口を出しているようだ。それに対してまるで聞こえてるかの如く「うん」と反応した彼女だったが――男の意図とは異なっていたのか、ホワイトボードに書き込まれた内容を見て男は一瞬驚いた表情を見せる。そして次の瞬間には仕方なさそうに笑った。何処までも穏やかな顔で。
 そこには何一つ、彼女を害するような意思も、行動を制限しようという思惑も感じられなかったから。雨彦は、今暫くは様子を見てみるか、と思いつつ「レッスン、終わったぜ」と二人に声を掛けるのだった。

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