New crescent lady

 暗い、黒い血溜まりの出来た部屋の中で、その女は笑っていた。彼女の口元と同じ形をした三日月は、三日月の癖に、穴のあいた天井を通ってやけにその場を鮮明に照らす。ふふふ、あはははと女が笑う度に、彼女の足元の血溜まりが波紋を立てた。どこからか風の入る些か黴臭い室内に、キイキイと耳障りな扉の音が反響する。
 何だ、この女は。それがその小さな暗殺者の、率直な感想だった。彼は今、この女に襲われかけたところを自身の暗器によって返り討ちにしようとしていたのだが、奇妙なことに普段なら躊躇うことなく動かせる筈のその腕が、動かなかったのだ。何かこの女の魔法かとも思ったが、彼女が呪文を唱えた素振りは無かった。

「やあ、お坊ちゃん。そんなに脅えないでよ、私は怖くない」

 と、女は突然少年に声をかけた。心底この状況を楽しんでいる様子の女に、少年は、本能で感じた。この女は普通ではない。危険だ。早く殺してしまわねば此方が食われてしまう。
 しかしそうは思っても、彼の手は震えるだけで、一向にその頸動脈へと暗器を突き刺すことが出来ない。怖いなどという感情、とうに捨て去った筈なのに、その女の顔を見たら彼は確かに恐怖を覚えずにはいられなかった。

「誰、だ? 貴様は、何なんだ?」
「私? 私はそうだなあ」

 美醜、なんてそういう問題ではない。どちらかと言えばこの女は美しい部類に入るだろう。しかし問題はそこではないのだ。

「たまたまお坊ちゃんを見初めてしまった、誘拐犯といった所ね。……尤も、未遂に終わってしまったようだけど」

 この状況下における女の表情が、常軌を逸していたと、そういうことなのだ。
 そう、この女は殺されかけていながらも、その顔を本当に楽しげに、いや恍惚に歪ませていたのである。



「ねえジャーファル、そんなこともあったよ。覚えてるかな?」
「そんな無駄話をする位ならさっさと手を動かせ――おばさん」
「ふふっ、おばさん! 確かにそうだ、あのお坊ちゃんがこんなに大きくなったんだもの、私も年をとる訳よ」

 シンドリアの宮殿の一角、白羊塔。それが、今現在彼らが仕事に追われている場所だ。政務官として国をまわす責を担っている彼、ジャーファルは、かつて自身を誘拐しようとしたあの女を嫌そうな顔で急かした。この面倒な女は、放っておくといつまでもジャーファルに構ってくるし、それでいて他の人間に対しては常識人らしく振る舞うから質が悪い。ジャーファルがこの女に辛く当たろうものなら、事情を知らない輩などとてつもなく怪訝な目を向けてくるのだ、ジャーファルに。
 また奇妙なことに、この女はあの当時から殆ど見た目が変わらない。実際の年齢を聞いたことはないが、十数年見た目にほぼ変化が無いのはおかしな話だ。まさに年齢不詳の言葉通り。若くも見えないが、そう年を食っているようにも見えない。

「そう心配しなくとも、お肌は曲がり角に差し掛かっているんだよ。ふふ、それでも私はジャーファルの為に、老いを感じさせぬよう毎日あの手この手で丹念に手入れをしているんだけど」
「気持ち悪い」

 まるでジャーファルの疑問を読み取ったようにそう口にした女だが、先程注意されたことを守りきびきび手を動かしていたため、ジャーファルもそれ以上は口にしなかった。

 ジャーファルがこの女に誘拐されかけた、その後。膠着していた状況は、心配してジャーファルを探しに来たシンドバッドが現れたことによって、やっと動き出した。床には血溜まり、その中で女を殺そうとして手を止めているジャーファル。と、シンドバッドは最初事の成りゆきが把握出来ず、取り敢えずジャーファルに武器を仕舞うように命じ女と引き離したのだが、何があったのかを聞き終わった瞬間心底面白そうに笑い出した。

「なんだジャーファル、こんな綺麗なお姉さんを引っ掛けてきたのか! お前も隅に置けないな!」
「なあっ……!? 俺はあんたとは違う!」

 結果から言えば、あの時シンドバッドが間に入ってくれたことは双方にとってありがたいことだと言えた。ジャーファルにとって言えば、不覚にも見入ってしまったあの状況を打開する契機に。そして、その女にしてみれば、後にジャーファルと共に居られるようになるきっかけとなったのだ。そんな経緯もある為か、女はシンドバッドにとても感謝しているようで、建国以来シンドリアに貢献する文官の一人として籍を置いている。因みに建国時に彼女に声をかけたのはシンドバッドであって、断じてジャーファルではない。ジャーファルは一言も彼女のことを口にしていないのに、その当時某所の酒場で働いていた彼女をシンドバッドは勝手に「ジャーファルが喜ぶだろうから」と文官に任用したのだ。

 自分から襲いかかってきた癖に大した力もない、ただ外見だけでいうなら、本当に何処にでも居るような非力な女。しかしその中身はとんだ曲者だ。何故そんな人間を文官にしたのか絶対シンドリアの汚点にしかならない、とその当時は侃々諤々意見を主張したものの、最終的にはジャーファルが折れる形で収束した。とは言えその後も何かにつけて彼女を追い出そうと粗を探すジャーファルだったが、彼女は予想外に飲み込みが早く、今となっては中心となって働く重要な文官としての地位を築き上げてしまった。

「それはまあ、当然だね。だってこれ以外にジャーファルと一緒にいる道がないのだから、頑張ってしまうのも当然でしょう」
「うわあ」

 何でこんな地位にまで登りつめてしまったのか、なんてぼやいた私が馬鹿でした、と顔を歪めたジャーファルに、女は楽しそうな声を上げて笑った。
 これはジャーファルも渋々認めていることだが――激務でピリピリしている白羊塔を少しでも明るい空間に出来るのは、紛れもなく彼女の存在があってこそなのである。



 ジャーファルが彼女を「おばさん」と呼ぶことに異を唱えたのは、同じ八人将の一人である、ピスティだった。ピスティはそれまで物陰から彼女とジャーファルが言い合い、というか彼女が一方的に出してくるちょっかいをジャーファルが邪険に扱っているのを見ていたが、その彼女が視界から消えると一直線にジャーファルの元へと向かったのである。

「ジャーファルさん、またさんに辛くあたってるんですか?」

 女の人にあの態度はないですよ、と難しい顔で詰め寄ってきたピスティに、ジャーファルは辟易とした表情を見せて首を振った。

「ピスティ……それは彼女がどんな変人か知らないからそう言えるだけの話ですよ」

 そんなジャーファルの返答が気に入らないのか、ピスティはぐっと眉根を寄せると、突然拳を握って力説し始める。

「分かってないなージャーファルさん! 恋をすると女の子はみんな好きな人の前では挙動不審になっちゃうものだよ?」
「いや、あのおばさんに限ってそれは」
「もージャーファルさん! だからさんをおばさんとか言わないの!」

 良いですね、と念を押すピスティに、分かりましたから外に行って遊んできなさい、と投げやりに返す。ピスティは満足した様子ではなかったものの、かの女、が戻ってくるのを横目で確認するなり大人しく立ち去っていった。
 帰ってきたはといえば、ピスティの後ろ姿を見て首を傾げたものの、近寄りがたい雰囲気のジャーファルを一瞥するだけで特に何も言わない。そのまま他の文官と真面目な顔で再び仕事の話を始めたを、それと悟られないよう細心の注意を払って見つめていたジャーファルだったが、やがてはっと何かに気付いたように目を見開くと、振り払うように頭を振り書面へと視線を戻した。


 それから数日経った、ある夜のことだ。三徹の激戦を経て漸く仕事に一段落ついた頃には、すっかり日は落ち夜は更けてしまった。いい機会だから寝てきてください、と同じく三徹していたと共に半ば追い出されたのだが。どうも近頃を見てると妙な気分になってくるジャーファルは、先にに戻るよう言付けて、自身はの姿が見えなくなった後から向かうことにしたのだ。それもこれも、ピスティが恋だの何だのと言うからいけない。
 しかし、そんなジャーファルの目論見は、どうやら外れてしまったらしい。は廊下の途中、その柱に手を添えながら、じっと中空に浮かぶ星々を眺めていた。は立ち止まったジャーファルの気配に気がつくと、いつも彼に見せるとても嬉しそうな笑みを浮かべて口を開く。

「やあジャーファル。いい夜だね。今日は星がよく見える」
「はあ……あんたまだ寝てなかったのか。いい年だって分かっているならそろそろ寝たらどうです」
「ふふ、他人行儀な口調は好きじゃないな。昔みたいに話してみない? 私を心配してくれるのは嬉しいけれど」
「別におばさんの心配なんてしてませんよ。風邪でもひいて、仕事に穴をあけられるのが嫌なだけです」

 普段ならそう言い残して、そのまま立ち去っていたかもしれない。しかし今日は不思議と、彼女の無駄話にも付き合ってやろうという気になった。それも、今日のこのいやに美しい三日月の所為かもしれない。はジャーファルから星空へと視線を動かす。

「いい夜だ。ジャーファルに会ったのも、こんな三日月の出てる夜だったよ」

 覚えている、と馬鹿正直に言うのも何だか悔しかったため、ジャーファルは何も言わずに黙り込んだ。そんな彼など気にせずに、は言葉を続ける。

「何で、君だったのだろうかと今でも思うんだ。あの日魅入られてしまってから、私のみる世界はどうにも、変わってしまったようでね。君でなかったら、私は今尚ここではない国の下町で働いていたかもしれない。君にも、迷惑をかけなかったかもしれない」

 もしかしたら、彼女自身もまた、この不思議な雰囲気に飲まれているのかもしれない。どこか退廃的なをじっと見つめながら、ジャーファルはそう思った。いつもの彼女らしく、ないのだ。普段の彼女であれば、絶対にこんなことは口にしない。断言してもいい。

「こんな綺麗な夜はいけないね。また君を攫ってしまいそうになる。それは駄目だ」

 駄目だ、と何故そう思ったのかは、ジャーファルには分からなかった。聞こうにもはぐらかされそうな気がする。昔から、はぐらかすのが得意なのは、相変わらずだ。ジャーファルはすっと双眸を眇めると、静かに別の事を問いかけた。

「攫って、どうするつもりだったんですか」
「さあ、それがよく分からないのさ。ただ言うんなら――そばに置いていたかった、って所だろうかね」

 どこか愁えを帯びた表情に、突然心臓が痛んだ気がしてジャーファルは眉を顰めた。その時、ピスティの言葉が頭を過ぎる。違う、これは変なことを言うからだ。ジャーファルは少し黙った後に、かなり迷いながら「」とその名を口にした。あくまでも、ピスティに言われたから、言われたからだ、と必死に自分に言い聞かせながら。

「おばさんでいいよ、ジャーファル」

 しかし、続けようとした言葉は、当のによって妨げられた。その言葉は楽しげでありながら、どこかジャーファルに一線を引いているような、そんなもので。
 彼女の笑みは、あの時見入ってしまった三日月ではなかったが、大層珍しいことに普段より優しげに微笑むものだから、つい目が逸らせなくなってしまう。

「私はまだ、ジャーファルにとってのおばさんでいい」

 それじゃあね、おやすみ、いい夢を見るんだよ。そう笑みを深めて去っていったを、ジャーファルはその場から動くことが出来ず、背中が見えなくなるまでずっと見続ける。
 どくり、どくりと常とは違う鼓動を続ける心臓に、ジャーファルは言葉を失ってしまった。まさかと言いたいのだ。この私が、まさかと。

「あの時、魅入られたのは……」

 やっと紡いだそれにも、二の句が継げなかった。全身で否定したい、自覚してしまったこの感情。何年もの間、地面の下で養分を吸い、十分に満たされた花は――きっかけさえあれば直ぐにでも鮮やかに咲いてしまいそうで。
 
ジャーファルは官服の下で拳を握りながら、顔を上げると三日月を睨み付けた。しかし彼女のあの時の笑みを彷彿とさせる三日月も、憎むに憎みきれない。 それでもぎっ、ともう一睨みすると、すぐに目を離して歩き出す。そしてジャーファルは堅く誓うのだった。断じて認めてなるものか、あんなおばさんに。あんな、おばさんに!と。

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