降つては消ゆ

 夜も深まるシンドリア。濃き闇が静かな存在感を放つ、満天の星空が煌めく夜更けであるが、しかし王宮に眠りはない。いつだって、誰かしらが王宮内を彼方此方へ走り回っている。
 ――どんがらがっしゃん、ばっさばさり。そんな古典的な擬音が似つかわしく思える位、「彼女」の登場はいつだって派手なものである。
 またか。きっちりと官服を着こなし、緑のクーフィーヤを被った青年は、慣れた様子でそれまで手にしていた書類を起き、あまり気乗りのしない顔で振り返った。ランプによって作り出される陰影は日中よりも明らかな輪郭をなぞっている。
 その視線の先には予想通り、書類やら何やらの山に突っ込んだらしい女。彼女は青年の見ている目の前でひょこりとその山から顔をのぞかせていた。これもいつものことだが、青年はこれ見よがしに大きく息を吐き出す。それに相対する女は、苦笑いを浮かべた。

「こんばんは、ジャーファルさん。えーっとお久しぶり」

 雀斑の残る顔でぴんと眉を吊り上げる、ジャーファルと呼ばれた青年。彼は凡そ人を見る目ではないそれで女を見下ろす。その視線は最初さえ恐ろしくて仕方なかったものの、今ではそこまで気にならなくなったものだ。慣れとは恐ろしいものである、と女は頭の片隅で思った。まあ、それは何度も彼女が此処に来る内にジャーファルが疑うことを半ば諦めたことに起因してもいるのたが。

「また君ですか。いい加減散らかすのはやめなさい」
「好きで散らかしてる訳では……あああごめんなさいごめんなさい!」

 小さく反論しようとした女だったが書類片手に近付いてきたジャーファルに即刻謝罪の意を述べ、頭を覆う。その際周囲の文献や何やらが些か崩れ落ちた。そんな女に渾身の溜め息を吐くと、叩く訳ないでしょうと言いながら屈み込み、散らばったそれらを拾い上げてゆく。

「君は何でいつも図ったように一段落しかけた時に来るんですか」
「はあ、すみません」
「感情がこもってません。やり直し。ついでにさっさと手伝いなさい」
「はい、すみません」

 それまでふにゃふにゃしていた表情を律したつもりなのだろうか。ジャーファルは彼女を横目に眉を顰める。口元のにやけを直せばまだ真面目そうに見えるものを。しかしそれに対して追い討ちをかける様なことを言わないのは、ジャーファルなりの優しさだ。

 彼女が始めに現れたのはいつだったろうか。あれはそう、ここシンドリアの宮殿に白羊塔が完成した、その辺りであったように思う。彼女は矢張り今日のように、何の前触れもなく、凄まじい音を立てながらジャーファルの背後に落下したのだ。
 シンドリア建国当時はまだ国が若く、外敵も非常に多かったため王を守る者達も皆ピリピリしていた。そんな中で突然彼女が落ちてきたものだから、当時は結構酷なことをした、と後になってジャーファルは若干反省したものである。しかしジャーファルにしてみれば唐突に降ってきた彼女にも非があると思うのだ。しかも自分のような暗殺者の真後ろだ。自分ではなく、もっと別の場所に降ってくればまだ、あれほど酷いことには……例えば縛り上げて脅すとか、傷付けることなどしなくて済んだかもしれないのだ。
 その件について彼女に言ってみたところ、どうやら彼女は着地点を選べないらしい。こっちに来ようと思って来ることは出来ても、その着地点は不思議といつだってジャーファルの後ろなのだという。
 そして同時に、彼女がこの場所から消えるのも、ジャーファルの後ろだ。彼女がいつ消えるのかは、彼女にも分からないらしい。

 一通り片付け終わった後に女を立たせたジャーファルは、そのままその辺りの椅子に座るよう指示すると、自身は侍女へとお茶を持ってくるように伝える。
 随分と待遇も良くなったなあ、と女は椅子に腰掛けつつしみじみと思った。本当に酷かったのだ、最初は。本気で殺されると感じ死を覚悟したのはあれが初めてだった。それが今はどうだろう。渋々ながらも彼はこうして、唐突に現れる女の相手をしてくれる。勿論こうなるまでには女の必死な努力やら何やらがあった訳だが、今となっては遠い昔の出来事だった。
 そんな事を考えている内に侍女が二人分のお茶を手にして戻ってきた。ジャーファルは彼女にありがとう、と労いつつ笑みを浮かべると、それを受け取り女の前へと戻ってくる。

「なにをにやにやしながら見てるんですか」
「えー、ジャーファルさん手慣れたもんですねえと思って」
「やかましい」
「ひどい、さっきの柔らかい笑顔を少しばかりでも私に分けてくれたっていいのに」

 心底馬鹿にした目で女を見下ろしたジャーファルだったが、特に何も言わずお茶を注ぐと、女に手渡した。「ありがとうございます」と言い躊躇うことなく口元へと運ぶ女を横目に、自身も注いだカップを手にする。

「本当に君には危機意識ってものがないんですね」
「何の話ですか?」
「初めの三回ほど君の飲み物に薬物を混ぜておいたんですけど」
「あ、やっぱりそうだったんですか。あの後酷かったんですよお腹下して」
「……、君は少し、人を疑うべきだ」

 このという女、会う回数を重ねる毎に分かってくることだが、どうにも一般市民以上に人を疑うということをしない。余りにも疑わないものだからどうにも心配になってしまい、こうして度々忠告をしたところで本人はふにゃふにゃと笑うだけなのだ。そこが、ジャーファルには気に食わない。

「ジャーファルさんは厳しいなあ、そんなんじゃ女の子が離れていっちゃいますよ」
「ぶっ、よ、余計なお世話です!」

 予測不能の切り返しを食らったジャーファルは思わずお茶を吹き出す。汚いですよ、とかしれっと真顔で言いながら、そっと布切れを差し出すを憎々しげに睨みつつ。ジャーファルはその布切れを受け取ると、口元を拭いつつあなたが変なこと言うからでしょう、と苛立った口調で返した。それを見てははて、と首を傾げる。

「吹くほど変でしたか?」
「はいはい、あなたには分からないでしょうし、一生分からなくていいです」
「何それ酷い。遠回しに馬鹿にしてます?」

 ちょっとムッとした表情を浮かべたの言葉は軽く流して、ジャーファルは受け取った布切れをまじまじと見下ろす。

「こんな小さな布に随分と装飾が施してありますね」
「え? まあレースひらひらしてますけど、これでも少ない方だと思いますよ。あ、拭いたら持って帰りますから戻して下さいね」
「いえ、これは洗って、また後日お返しします。流石に汚したままで返せません」

 布切れを見つめていたジャーファルだが、ふとからの返答がないと思って顔を上げた。
 その見上げた先には、目を見開いて黙り込むの姿。小さく開いた口元が間抜けのように見えて仕方がない。

「何を驚いてるんですか」
「え、や、こっちの世界にもそういう風潮あるんだなーっていう発見をして」
……君はここを何だと思ってるんですか」
「え、いやいや、怒らないで下さいって。私にしてみればこっちは何もかも不思議の塊なんですよ!」

 が言うには、彼女は「この世界」とはまた別の世界から来たのだという。紆余曲折あって、一時的に「この世界」に干渉することが出来ているのだとか。
 それは魔法なのかと問えば、分からないとの返事。魔法という絵空事としての概念はあっても、ここの様に日常的に魔法が流布しているのではないという。そういう異なった世界観、また曖昧なところが彼女への不信感を募らせる原因となっているのだが、八人将の一人で魔法に詳しいヤムライハに聞いてみても、あり得ない話ではないが確かでもないと言われたためどうしようもなかった。
 しかし断片的ながら彼女から聞く彼女の世界の話は、それなりに興味をそそられる。魔法の代わりに科学が飛躍的に発展していることや、王政ではなく、民主的な方法に則った施政。それも様々な問題と表裏一体らしいが、そういった話は聞いていて飽きることはなかった。

「私のいる世界、というか国だって、使ったものそのまま返してくる人もいますし、まあ色々なんだなあって感慨深く思っただけです。でも悪いので、やっぱりそれ返して下さい」
「そんな取り繕わなくても結構です。兎も角、またその内来るのでしょう? その時に返しますから」
「……いや、もう来られないんですって」

 苦々しげに口にされた言葉が理解できず、一瞬ジャーファルの思考が停止する。その間にもはばつが悪そうに、半分程残ったお茶へと視線を落とす。

「それは、どういうことですか」

 我ながらみっともない位動揺している、と自覚しながらも、ジャーファルは静かに問いかけた。嫌な汗が噴き出してくるのを感じる。

「いつ言おうかな、とか、言わない方が良いのかな、とか、色々考えたんですけどね」
「そういうことを聞いているんじゃない!」

 思わず声を荒らげて、その肩を掴んでしまう。見たことのないデザインの服装、いやに細い肩。脅えたように此方を見る瞳。もどかしげに開き、閉じる口元。普段なら何とも思わない筈の彼女の全てに、ジャーファルは苛立ちを覚えて仕方がなかった。

「魔法に何か問題がある? ならシンドリアには優秀な魔導士がいます。それにシンもいる。何とかなるかもしれません」
「ジャーファルさん」
「善は急げです、今すぐに」
「ジャーファルさんっ!」

 次々にまくし立てるジャーファルだったが、の叫びに近いその声でハッと我に帰った。しかしジャーファルの中で暴れ狂う焦燥や不安は止まらない。
 そうじゃない、と首を振ったは、慎重に言葉を選びながらじっとジャーファルを見つめた。

「こっちの世界に来るためには、私はある建物に行かなきゃいけなかったんです。とはいっても、そこ廃墟で。心霊スポットって言うんですかね。それで、そこは明日取り壊されてしまうみたいなんです。そうしたら多分、もうこっちに来られなくなる」
「だったら他に方法を」
「それに、これ以上私こっちに来たらいけないんです」

 何を根拠に。そう反論しようとしたが、今にも泣き出しそうなを見てジャーファルは言葉を飲み込んだ。あれだけ酷いことをされても決して涙だけは見せなかった彼女が、何をそんなに。
 しかし本当はジャーファルにも分かっていたのだ。彼女がそう思う理由を。儚い時間しかこちらに居られない苦悩を。
 何故なら。

「嫌です」
「え、ええ?」
「そんなの駄目だ。大丈夫です何とかなります、させますから」

 だから。そう言いながらの手を引っ張る。強引だったか、彼女の手からカップが滑り落ちた。床に広がる液体。しかしジャーファルは気にも留めない。
 腕を引いて、急いで部屋を出ようとして。「ジャーファルさん」と名を呼ぶ声を耳にしながら、ジャーファルは彼女に背を向けた。

 手の中の感触が、消えた。

……?」

 真っ先に状況を判断したジャーファルだったが、彼は直ぐには振り返らなかった。認めたくない、と。心臓が早鐘を打つ音がやけに大きく聞こえる。しかし、ジャーファルの呼びかけに、返事は帰ってこない。
 ゆっくりと振り返った先には、矢張り、誰も居なかった。
 先程まで掴んでいたの体温の名残は、夜間は思いの外冷えるシンドリアの空気に浚われてゆく。ジャーファルは何度か呼吸を整えた後に、はっ、と息を吐いた。

 暫く立ち竦んでいたが、やがて落ちたカップを拾い上げ、自身が飲んでいたそれの隣に並べる。それを見ていたら、どうしても虚しさだけが溢れてきた。
 本当に少しの時間しか過ごせなかった彼女。唐突に現れたのならば、きっと消えるのは唐突なのだろうと、それは分かり切っていた。事実、いつも彼女がジャーファルの前から姿を消すのが、そうであったから。
 だからこそ分かっていた。こんな日々を続けてゆくことは、彼女にとっても、またジャーファルにとっても辛いことになるだけだと。所詮、彼女とジャーファルは別の世界に生きる人間なのだから。
 恋だとか、愛だとか。世間一般でいうそれにこの感情が当てはまるのか、ジャーファルには分からない。彼女にそれを言ったことはないし、また彼女も言わなかった。恐らくお互いに、言ってはならないのだと直感していた。
 けれど、せめて自分の目の前に落ちてきたなら、その体を受け止めることだってできただろうに。

「なんて、馬鹿みたいですね」

 そんな風に別のことを考えて、終わったことを気にしないなんて。彼にとっては当然なことだ。そうしなければ政務に支障をきたす。
 しかし、それでも。忘れたいと思うと同時に、忘れてしまいたくないと願うのだから。きっとこの後悔は、一生自分につき纏うのだろうと、ジャーファルは頭の片隅で思った。

「……本当に、なんて、馬鹿馬鹿しい……」

 ずっと握り締め、残された布切れをこめかみにあて、ずるずると壁を背にしゃがみ込む。

 ――夜が明けるまで、彼がその場を動くことはなかった。

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