やがて消え得ぬ痕となれ




 柔らかな午後の日差しの中、ガタゴト、と音がして顔を上げた。そのまま音のした方へと顔を向ける──最近は遠くのものも近くのものも直ぐには見えなくて困る──と、空色の頭が蔦に覆われた門扉を何とか開こうとしているところが目に入った。

「あら? ネロ、今日も来たの?」
「……来ちゃ悪い?」

 伸びるのに任された蔦を鬱陶しそうに剥ぎ取りながら、ネロと呼ばれた男は悪態を吐く。ただでさえ老朽化が激しく立て付けが悪い上に蔦まで絡んでいるから、庭に足を踏み入れるにも一苦労という様子だった。

「やだ、冗談。今日も来てくれて嬉しい」

 弾むように彼女が笑うと、男は僅かに口を結んだ。ともすれば不機嫌そうにも見えるその行動が彼の照れ隠しによるものだと、彼女は随分前から知っていた。

「……。あんたが楽しみにしているのは俺の料理だろ、食い意地張ってんだからよ」

 そう言いつつ、やっと開いた門を前にネロは屈む。立ち上がって庭へと足を踏み入れる時、その手には何やら紙袋を抱えていた。収まりきらずにはみ出しているものから、その中に食材が入っているのことが分かる。

「もう、そんな風に言って。それは勿論、貴方のご飯はいつだって楽しみだけど」
「ほらな」
「聞いてる? 貴方が来るのも楽しみって言ったんですけど?」

 はいはい、と流しつつ男はぷいと顔を背けた。そして勝手知ったる我が家とばかりに家の扉を開き、さっさと中へと入ってゆく。彼女も別段、それを咎めることはない。
 それから間もなく部屋の中から聞こえ出したゴソゴソという音を耳にしながら、彼女は手元に目を落とした。午後の陽の光にさらされた掌。ネロが来るまで彼女の手の中で成形されつつあった空色の猫のあみぐるみは、今日中にも完成しそうだった。



「なあ、あの門直していいか?」

 今日も今日とて彼女の元を訪れたネロは、ダイニングテーブルに向かい合ってドリアを食べている彼女に尋ねた。そんなネロの視線の先には、リビングにある窓から見える、あの蔦だらけの門扉がある。もくもくと楽しそうに食事をしていた彼女は、その問いに少しだけ眉をひそめた。

「ええ? 悪いわよ。そうそうここに人なんて来ないんだし」

 何でそんな事を言い出すのか分からない、といった表情の彼女に、今度はネロが眉をひそめる番だった。

「何か勘違いしてねえ? 俺が、いい加減出入りが面倒くさいったらないんだよ」

 実質「はい」しか求められていないのだと悟った彼女は、これ見よがしに溜息をついた。

「昔から変な所で頑固ねえ、ネロって」
「うるさいよほんと」
「なあに、怒った? ……ありがとう」

 そう言って笑った彼女をちらと横目で見て、ネロは少しだけ眉尻を下げた。

「それで? 午後は何するんだ?」
「そうね、今日は刺繍にしようかしら。絵柄はどうしよう……」

 ドリアを食べ進めながら考え込んでいた彼女だったが、ふと自らが使用しているスプーンへと目を落とす。

「うん、カトラリーにするわ。きっと可愛い」



「店主さん? 今日のご飯は何かしら」

 夕飯時。家主を差し置いて完全にキッチンの主となったネロの後姿を眺めながら、彼女は穏やかに声を掛ける。本当は手伝いたいのだが、以前そうと申し出たときに不要だと突っぱねられてしまっていた。なので今はテーブルの上で大人しく作業をしている。

「……懐かしいなその呼び方」
「キッチンに立ってる姿を見てると、どうしても思い出しちゃって」

 ふふ、と笑みを零しながら動かしている彼女の手元には、今日は彼女の胴の幅程の箱があった。麦藁色の布を全面に貼り付け終え、今は飾りつけをしているらしい。
 ご機嫌な彼女に暫く考え込んでいたネロだったが、不意にその瞳に悪戯っぽい色が宿る。

「例えば、あんたが俺のフライパン焦がしたこととかか?」
「ちょっと? もっと思い出すことあるでしょう?」

 ボウルに双子鳥の卵を割り入れながらネロはくつくつと笑いを零す。

「塩と砂糖大胆に間違えたこと?」
「ネロ!」
「なんで手先は器用なのに料理はなかなか上達しなかったのかねぇ」

 ──急に静かになったリビングにおやと思ったネロは、ボウルを抱えたままそっと後ろを振り返る。視界に入った、若干口を尖らせて黙々と箱を飾り付けている彼女の姿を見て、ネロは面白そうに目を細めた。

「拗ねてんの?」
「意地の悪い男と話すことなんてないですね……」

 ちらとも視線を寄越さない彼女に、割と本気で拗ねているのを感じ取ったネロは、思わず声を上げて笑ってしまった。

「ははっ! 悪かったって。ほら、今日はあんたの好きなもの作るからさ。機嫌、直してくれねえ?」

 な? と異様に楽しそうなネロを恨めし気に見上げつつも、彼女はその魅力的な提案に流され始めていた。



「ネロ、お店は大丈夫なの?」

 朝から庭に植えたハーブの手入れをしているネロに、彼女はふと声を掛けた。手入れが行き届かなくなり荒れつつあった彼女の庭は、ネロが来てからは綺麗に管理されるようになった。以前ネロが散々苦労していた門扉も、今や新品もかくや、スムーズに開閉する。

「ん、悪い聞こえなかった」

 ネロは薄っすらと額に浮かんだ汗を拭って彼女の方を振り返った。朝日の中に透き通った彼の髪をぼんやり見つめながら、彼女は先程と同じ問いを投げかける。

「ああ、ここ数年店閉めてるんだよ」

 そうして返ってきた答えに、彼女は目を見開いた。

「どうして」
「んー、ちょっとな。店を移そうと思ってるんだが、今はその候補地選びの期間だ」

 だから、あんたはそんなこと気にしなくていいよ。再び手入れに戻ったネロの丸まった背中を見つめて、彼女は溜息一つ。そうして、青と白の顔料を手に取り、再び彼の背中を眺める。描くものは決まっていた。



 その日は珍しく、彼女の部屋にまでネロは足を踏み入れていた。これまでネロは頑なに彼女の私室には入らなかったが、彼女が新たにペンダントの材料を探すと言ったきり中々部屋から出てこなかったものだから、心配になって顔を覗かせたのである。
 特に彼女に何があった訳でもなく、欲しい材料が集まりきらない、ということだったため、ネロは目的の石やら金具やらを彼女と一緒に探している。

「しかし随分沢山あるな。此処にあるもの全部手作りか?」

 高い所は俺がやるよ、と脚立にのぼって捜索を買って出たネロだったが、どこを向いても目に入る多くの雑貨に思わず声を上げた。小さな小さな人形や、よそ行きのワンピース、自然を描いた絵画や、ランタン、ぬいぐるみ、などなど。先日彼女が完成させた空色の猫のあみぐるみを手の中で弄ぶネロに、彼女は苦笑を漏らした。

「それ、改めて聞くこと?」
「はは、そうだったな。あんたは何にでも興味持っちまうし、何でも自分で作っちまいたがるお嬢さんだったな」
「なぁに〜? 今はもうお嬢さんじゃないって?」
「いや言ってねえだろ? ったく」

 ぶつくさ言いながらもネロは捜索を再開する。口調は荒っぽいながらも彼女の作品を傷つけないように繊細に扱っているネロを見上げて、彼女はふうと息を吐いた。

「そうね、でも本当に随分増えてしまったわ」



「ばっ……何、やってんだ!」

 ──そんな風にネロが大声を上げるのは、彼女の許を訪れるようになって初めてのことだった。
 いつもなら此処に来る時に抱えている荷物は、どこかに放り投げてきたのか、彼の手にはない。折角綺麗になった門扉を蹴り飛ばす勢いで駆け込んできたネロは、彼女の庭で見た光景にこれ以上ない程に目を見開いた。
 爆ぜる熱、風と共に流れる煙。焦げたにおいと、黒く染めゆく鮮やかだったはずの物たち。ひしゃげて曲がった原型の分からない塊。そして、椅子に座って何でもない顔で眺める女。

「何って見た通り、在庫処分? 身辺整理? ってやつよ。もう売る当てもないし、片付けておかないと」

 動揺しているネロには目もくれず。そう言いながら、傍らに山と積んである彼女の作品から一つをつかみ取ると、炎の中に投げ込む。また一つ、もう一つ。次々に投げ入れようとして──不意に、作品ごと後ろから抱き込まれた。

「……やめてくれ」

 ネロの息遣いと、背中に感じる熱と、微かな震えに、彼女は息をのむ。彼女が身じろぎしようとすれば、それすら許さないとばかりにネロは彼女を抱きしめる力を強めた。

「やめてくれ、なにも燃やさないでくれ。……頼むよ」
「……ネロ?」

 投げ込もうとしていた作品が、戸惑いと共に地面へ落ちた。ぱち、と目の前で彼女の作品が黒い塊に変わってゆく。そんな中、ともすれば、泣きそうな声で、ネロは。

「頼むから、全部」

 全部、俺に遺してくれ、

 掠れた声に、、と呼ばれた女は、そっと瞼を下ろした。



 手首に、熱が触れた気がした。酷く体が重い。目を開けるのさえ億劫に感じる。自分は今ベッドで寝ているのだろうか。最近は特に起き上がれない日が続いていたから、いよいよ、もう、その時なのかもしれない。
 ああ、明るいのか暗いのか、今が何時なのか、何もわからない。それでも、もう得られないと思っていた熱を、は覚えている。

「……ネ、ロ?いるの?」

 その熱の答えを問えば、はっと息をのむ音がした。

「目が覚めたのか。今、水を持ってくるからちょっと待ってろ」

 そうあって欲しい、とが望んだ通り、彼女の手首に触れていたのはネロだったらしい。しかし慌てたように手首から離れていく熱に、急に心許なさを覚えて、思わず声を上げた。

「待って、行か、ないで、傍にいて」

 一度離れかけた気配が、おずおずと傍らに戻ってきた。そうしてネロの気配を追いかけて彷徨っていたの手を握ると、そのまま祈るように両手で包み込んだ。
 話そうとして、ごほ、と咽せたに、ネロは僅かに逡巡する気配を見せた後──《アドノディス・オムニス》と呟く。再び離れて行った熱をが引き留めるより先に、ネロが口を開いた。

「やっぱ水、飲んだほうが良い。少しだけ口開ける?」

 言葉と共に唇に触れるひんやりとしたこれは、吸飲みだろうか。そんなもの家に置いてあっただろうかと記憶を探ろうとして、そういえば彼は「そう」だったことを思い出す。先程の不思議な響きの言葉は、きっと彼が「そう」であることの証左なのだろう。
 不思議と甘く感じる水を嚥下すれば、先程までより幾らか喉だけでなく身体も楽になった気がした。そっと目を開けば、ぼんやりとした青が視界に映って──それが、を覗き込むネロの髪の色だということに思い至る。窓から見える外はまだ陽が出ているようだ。明るく感じなかったのは、ネロの影が丁度の顔にかかっていたからか。
 そんなを不安げな表情で見つめていたネロは、彼女が自分を見ていることに気付くと、眉を下げたまま口元を笑みの形に変えた。

「ねぇ、ネロ……」

 ああ、とネロは頷いた。

「どうして、此処に来たの?」

 ネロは、先程から繰り返し撫でているの手の甲へと視線を落とした。惑う麦穂の色が、見上げる彼女にはよく見えた。

「私、誰も知らない所で、終わろうと思ってたのに」
「……だから誰にも言わずに、こんなところで一人で住んでたのか?」

 こんなところ。そう、東の国の、人も魔法使いも滅多にやってこない辺境の地を、は終の棲家にしようとしていた。
 長いこと、調子が悪いとは思っていた。足も悪くなって、それも歳の所為だと思っていたけれど、医者に診てもらえば病だという。そう遠くない内に命が尽きることを告げられて、それじゃあ、と伝手を頼りにこの家に辿り着いた。

「だって、こんな、しわくちゃで、死にかけの姿、誰にも見られたくなかったの」

 ネロが撫でている手の甲は、皮膚は薄く、血管は浮き出て、皺だらけの老いた人間のそれ。それでもネロは、慈しむように、祈るように、彼女の手を撫で続ける。

「見られたくなかったのに……それ以上に、貴方が此処に来てくれるのが、私、嬉しかった」

 ネロが顔を見せたのは、彼女がこの家に住み始めてから一月程が経った頃だった。庭先に置かれたデッキチェアで、手慰みに縫物をしていた時。ふと顔を上げれば、遠い日に焦がれた、あの日々と寸分たがわない空色が、目の前に立っていたのだった。

「驚いたよ。あんたは人間の男と一緒に幸せになるだろうって思ってたのに、ずっと一人で雑貨屋やってたって言うし」

 ネロはの手を取って、顔を隠すようにそっと彼の額に押し付ける。じわり、とネロの熱がの手に伝ってくる。

「馬鹿だな、本当に」

 自分を傷つけるような声音に途方もなく寂しくなって、はネロの額に当てられていた掌をゆっくりと動かす。ネロは指先で彼の前髪を撫でるに、笑おうとして、笑顔とも言い切れない表情を浮かべた。

「ちょっと、嘘ついた。本当は、あんたが店をやってたころから、ちょくちょく様子を見に来てたんだ」

 ぽつり。呟かれた言葉に、は僅かに目を見開く。知らなかった、と零したに、ネロは苦笑した。

「元気にしてるか、とかさ。でもあんたが結婚したら、それでもう、見に来るのはやめようと思ってた」
「なのにあんたはいつまで経っても独り身だし」
「……気付いたら、それに安心してる自分がいた」

 身勝手だろ、と続いた自嘲に、は肯定も否定もせず、ただじっと彼を見つめた。今はきっと、彼は自分の言葉を必要としていないのだと思ったから。返事をする代わりにさらさらとした前髪をそっと除ければ、何か苦しそうな瞳と目が合う。

「久々に、……元気にやってるかな、って店を見に行ったらさ、もぬけの殻で。すげー焦ったよ。いや、焦ったなんてもんじゃない」

 最後だけ軽口をたたくような口調になったネロだったが、そこから暫く口を閉ざした。何度も深く息をして、瞳を揺らして──そして、観念したように零した。

「何も残らないかもしれないと思ったら、とんでもなく怖くて」

 きゅ、とネロは少しだけの手を握る力を強めた。

「あんたが、俺の知らない所で、一人でいなくなるのが。耐えられなかった」

 彼が背にした窓から差し込む光が、その髪を照らす。陽光に透けた毛先が綺麗で、は淡い蜂蜜色になっている彼の襟足に指を絡めた。

「ふふ、まるで、プロポーズみたいね」

 言ってから、少し照れたようにがはにかむ。
彼が苦しんでいるのも、悲しんでいるのも分かっていた。その理由が自分にあることも。でもそれ以上に、ネロが自分の所為で心を揺らしているのが。こんなにも自分をしんでくれているのが、嬉しくて仕方がなかった。
 そんなを静かに見つめていたネロだったが、不意に真面目な顔をしてみせると、両腕を彼女の頭の横に置き、ぐっと顔を近づける。

「……みたいじゃなくて、してるって言ったら?」

 思いのほか真剣な声音に、は二、三回目を瞬いた。金色の瞳の中にぽかんと目を見開いた自身の顔が映っているのに気付いて、苦笑を浮かべる。

「いいの? 私もう、こんな、しわくちゃの、お婆ちゃんになっちゃったのに」
「馬鹿だな」

 吐息まじりの男の声は震えていた。

「あんたはどんな姿だって俺のお嬢さんだし」

 そう言って鼻先が触れる。

「……愛した女じゃなかったら、こんなところまで追ってこないよ」

 最早自身の表情なんて映らないまでに近くて。相手の瞳しか見えない状況で、はネロのそれに切実さを見た。

「同情じゃ、なくて?」
「あのなぁ。俺は同情でプロポーズなんてしねぇって」

 同情でも、冗談でもない。暗にそう言われて、は放っておかれた手を動かしてネロの頬に触れた。そうして、むっとしたような顔を浮かべる。

「私がもっと若かったら、あなたは私のことを置いて行ったくせに今更、って詰ってたでしょうね」
「いいよ、いくらでも詰ってくれて。あんたにはその権利がある」
「分かってて言ってるの?」
「分かってる。……分かった上で、あんたが結婚しなかった理由に自惚れてんだよ」

 じっとりと睨めつけるに、ネロは少しだけ顎を引いた。その後もネロの真意を確かめるようにじっとその瞳を見つめ続けていただったが、ふっとその目元を和らげる。

「そういう所、ずるいと思うわ」

 そうして、少女のようにくすくすと笑った。
 ずるくて、勝手で、私のことを置いていった酷いひと。そのくせ臆病で、繊細で、私を忘れてくれなかったひと。
 彼は知らない。私がどんな気持ちで毎日空を見つめていたか。一日の始まりと終わりにあなたの瞳を見て、晴れた空にあなたの髪を見ていた。
 彼は知らない。あなたが残したレシピから私がどんな気持ちで料理を作っていたか。素材を慈しむ指先と同じになぞり、戸惑いながらも最後は笑ってくれた声を聞いていた。
 あなたは、そんなことは知らないでしょうけど。

「でも、好きよネロ」

 内緒話でもするようにそっと囁く。
 文句なんて沢山あるけれど、一生分の文句は伝えきれないから、省いたって良いでしょう。さいごくらい。さいごまで。あなたを愛した私でありたい。
 こつり、とネロの額がの額に当たる。吐息を唇に感じて、は少しくすぐったげに身動ぎし、目を泳がせた。それを許さないとばかりに、ネロは彼女の両頬を掌で包み込む。
 視線が交わって、ネロはゆっくりと口を開いた。

「あんたにとっての唯一を、俺にくれないか」
 
 代わりに、俺の一生分を、あんただけに捧げる。

 ああ呪いのようだ、と思う。呪いのような契約だ。分かっているのに応えてしまうのが愛でなければ何なのか。

「ネロ」
「……あげる。全部、私のあげられるもの。私の遺せるもの、全部よ」

 くしゃりと顔を歪めて、ネロは唇を震わせた。徐々に水を湛えた瞳を隠すように近付いてきたそれに、はそっと瞼を下ろす。唇に感じるかさついた温もりは、下唇を柔らかく食む。形を覚えるように動いたそれは、一度離れると、今度は鼻に、瞼に、頬に、おでこに。そうしてまた、唇へと戻ってくる。
 目尻に落ちてきた雫には、気付かないふりをした。

「約束する。、俺は」



 柔らかな日差しの中、ガタゴト、と音がする。そこは料理屋。開店直前に、店主が椅子の配置を整えている。一通り動かし終わった後、店内を見回して満足げに頷いた店主は、最後に窓際に近付いて、そこに置かれているものの頭をそっと撫でた。
 店の扉にかけてあるプレートをひっくり返して暫く経つと、本日初めての客が来店する。ネロは足を踏み入れてきた客に、笑みを浮かべながら口を開いた。

「──いらっしゃい。好きな席に座ってよ」

そんな彼らを、店主の髪と同じ色の猫のあみぐるみは、今日も優しく見守っていた。

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