I'm waiting.
I'm waiting for the day when I meet the man who doesn't have that I met.
I'm waiting for the day when I meet the man who does not know whether to come or not.

--Till death do us part surely.


ある男の行方




 決して人に話したことはないが、私には前世の記憶がある。いやもしかすると私の妄想が生み出した残念な疑似記憶である可能性は否めないけど、今ここで生きる私じゃない「私」の一生分の記憶が私の中に存在する。
 何、特筆することもないがそれなりに満足していた人生だった。称えられるようなこともなく詰られるようなこともせず、まだ二十代という若さではあったけど、悔いのない一生を終えられたと思っている。
 自分が前世の記憶を持って生まれ変わったのだと気付いたのは、小学校三年生の頃だ。それまでの私と言えば、自分の知らない「私」の一生の記憶はあってもそれが当然過ぎて前世だとか思い至らなかったのだ。我ながらまったく暢気な話である。何を教わっても聞き覚えのある話だなあと思ったり、何をしてもやったことあるなあと思ったりしてたというのに、友達の「どこでそんな話聞いたの?」なんて一言で気づくなんて。
 単純に前世とは言うが、どうやら時系列的な話ではないのだというのを理解したのは、またそこから二年程経過した小学五年生の頃だ。丁度都道府県について学んだ時に、いやそんなの前世には絶対なかったと思います、というような地名が首都圏にぼこぼこ存在しているのを知った。しかしながら「東都? 米花町? なんですそれは」と言えるほどパンピではなくどちらかと言えばこの顔にピンときたら一一〇番のピンと来てしまった場合に当てはまるというか、即ち私は生を受けたらしい。前世で紙面上にしかなかった「名探偵コナン」の世界に。
 かの作品について、私は多くを知っていたわけではない、と思う。前世の両親がコナンのファンで最新刊まで揃っている家庭に生まれた私は、自ずとコナンに触れる機会が多かった。暇になれば漫画に手を伸ばすし、伸ばした先にある漫画はコナンだった。細部まで詳細にという訳にはいかないが、言われればああそんな事件もあったよね、と思い出せる程度には読んでいたライトな読者だった訳だ。

 まあ何でこんな話をしているのかというと、別に唐突に前世とかいう眉唾物の話がしたくなった訳ではないのでもう少しだけ私の話に付き合ってほしい。なんと私と安室透が結婚して今年で早十年が経つのだ。
 安室透と言えば、コナンでは結構重要人物だったと思う。流石に何度も何度も作中に登場していたから覚えている。バーテン姿の探偵、ポアロの従業員、毛利小五郎の弟子、安室透。黒ずくめの組織の一員で、ウイスキーの名を冠する探り屋、バーボン。そして公安警察の降谷零。トリプルフェイスと銘打ってかなりの人気キャラクターだったと記憶している。

 私がその安室透と出会ったのは、まだ工藤新一が高校生探偵として名を馳せる前、江戸川コナンを名乗る前のことだ。仕事でどうしても外せない案件があって東都に赴いた日の帰りの電車内で、私は彼と出会った。
 はじまりは、そう、ある女子高生が上げた大声だ。「この人痴漢です!」という良く通る声が響いて、電車内の視線は一斉に声のした方に集まる。私も例に漏れなかったというか、すぐ目の前だった。女子高生二人と男性一人。座席に座ってぼんやり外を眺めていたのが、その声で一気に現実に引き戻された。
 最初の驚きはその発言内容に。二度目の驚きは、その痴漢と言われた人物の特徴に随分と見覚えがあったことだ。
 月色の髪。褐色の肌。困ったように下がった眉に、灰がかった青の瞳。
 二度見した。痴漢がどうとかいう情報は、この瞬間完全に範疇外にあった。いや、確かにコナンの世界に生まれて、ここは東都で、そうすると作中の登場人物との邂逅もあり得ない話ではなく、というかこれ安室透ですよね、ずっと後姿しか見えてなかったからよく分からなかったけどいま女子高生に手首を掴まれてこちら側に向いたその顔、よく作中でお見掛けしました……。
 作中人物をこうして直接見るのが初めてだったためそんな風にやや茫然としていたが、彼に刺さる視線に気づいてはっと我に返った。さっきあの女子高生、安室透を捕まえて痴漢とか言ったのか。
 ――それは絶対に違う。安室透は何もしていない。確信を持って言えたのは、私が顔を上げて意識の片隅とはいえ彼らを認識していたからだ。彼は吊革に捕まって私と同様にずっと外を眺めていた。女子高生二人がその近くに居たのは知ってるが、そのどちらにも彼はアクションをしていない。ずっと彼らの行動を見ていれば分かりそうなものだが、電車内の殆どは手元に夢中で彼らの方を見ている人はいなかったのだろう。誰も彼を擁護しようとする人はいなかった。
 まもなく次の駅に到着する。このままでは彼は痴漢冤罪で引きずりおろされ、不名誉な烙印を捺されてしまうだろう。現に数名の男性が彼を逃がすまいと腰を上げかけている。
 もしかすると、彼はその立場から秘密裏に痴漢冤罪をなかったことに出来るかもしれない。でも、普段国のことを考えて戦っている彼にこれはあまりにも残酷な仕打ちなのではないか。
 女子高生が何を考えているか分からないが、全く知らない女子高生の叫んだ内容より、自分の目と安室透という人間の方が余程信頼出来る。そう思った私は、開いた扉の先に消えていく彼らを追って、停車駅でないそこで電車から飛び降りたのだった。

 この表現が適切かどうか分からないが、結局安室透は痴漢冤罪未遂で済んだ。平たく言うと警察を呼ばれることもなく女子高生に非を認めさせたというか、割と早々に解決した。
 電車から飛び降りた私は、まず真っ先に女子高生達のもとに走って安室透を掴むその腕を掴んだ。そのまま「その人、痴漢してないよね。私そっちの方見てたけど」と尋ねると、ずっと強気だった女子高生の瞳が動揺に揺れた。そのまま色々確認してゆくと、彼女たちは白状した。どうも時折電車内で見かける安室透に女子高生の片割れが一目惚れをしたらしく、でも関りがない、声をかける勇気もない……そんな話を聞いていた彼女の友人が、それじゃあ安室透が彼女から離れられないような責任を負わせようと考えたそうだ。それを実行したのが件の友人、つまり今回安室透の腕を掴んで痴漢だと声を上げた女子高生である。
 それを聞くと、女子高生らと共に安室透を連行しようとしていた男性たちはどこかへと去っていった。恋する女の子の行動力はすごいと言ってしまえば聞こえはいいが、やっていることは人を貶める犯罪行為だ。それを再三彼女たちに言い含めていると、ぽんと肩に手を置かれた。手を置いたのは、苦笑を浮かべる安室透だ。

「ありがとうございます。でももうその辺りで。……君たちも、今回はこの人が止めてくれたからよかったものを、自分がしたことが悪いことだと分かっているだろう。もう二度とこんなことはしてはいけないよ」

 すみませんでした、と頭を下げてばたばたと去ってゆく二人を見送ると、駅のホームには私と安室透の二人だけが残った。思えば彼の冤罪を晴らすためだけに途中下車しただけだ。安室透に一言告げてさっさと次の電車を探して帰ろうと彼の方を向くと、それとほぼ同時に「あの」と声を掛けられた。

「ありがとうございました、わざわざ途中で下りてまで庇っていただいて」
「いえ……本当は電車内で言えれば良かったんですけど」

 そう、本当は電車内でそう切り出せれば良かったのだ。そうすれば彼はあんな風に嫌悪や軽蔑の目に晒されることはなかったのに、私はに勇気がなくてそれを実行に移せなかった。
 それにもし全くの赤の他人だとして、同じことができたという自信はない。私がその時彼に声をかけたのはたまたま、一方的に私が彼を知っていたからだし、彼を作中の登場人物として憎からず思っていたからに過ぎない。
 しかし、安室透は首を振った。

「そんなことありません。こうやって声を上げてくださっただけで本当に助かりましたし、……嬉しかったです。何かお礼をさせてくれませんか」
「は? いえ、大丈夫です」
「そう言わず。こうして親切な方に出会えたのも何かの縁、どうかお礼をさせてください」

 その後異様に押しの強い安室透に根負けし二人で食事に行った。ここまでが彼と私が初めて会った時の話だ。
 正直安室透と会うのは今回だけだと信じて疑わなかったのに、彼との関係はこれだけでは終わらなかった。なんと、その後も度々私に声をかけてくるようになったのだ。
 彼は多忙な人だ。確かにあの頃はまだ原作は始まっておらず、ポアロの店員ではなかったからその分の余裕はあったのかもしれない。それにしたって、偶々出会った特筆すべきことのない女に関わっていられるほど暇ではない筈だろう。
 最初、色々と勘ぐってしまった。もしかしたら私の言動に何か怪しいところがあったんじゃないかとか、私の勤めている会社が実は知らないだけでやばい組織と繋がってるんじゃないかとか。しかし私は会社の話なんぞ彼にしたことはないし(職業の話は最初にしたけど)、彼も私の会社について踏み入ってきたことはない。何故彼が私に関わってくるのか、皆目見当がつかなかった。

 何度か会っている内に、安室透から僕と付き合ってくれませんか、と告白された。こればかりは断ったのが、彼は諦めずに何度も何度もアプローチをかけてきて。最終的にまた押し負けて付き合うことになってしまった。もしかすると安室透にとっては「彼女」という存在が居たほうが何かと都合が良かったのかもしれない。そう思って、まぁカモフラージュでも良いかと自分を納得させながら、付き合ってから更に頻繁になった彼の誘いに付き合うことにした。
 ランチに行きませんかから始まり、ショッピングモールに行きませんか、動物園に行きませんか、遊園地に行きませんか、水族館に行きませんか、海に行きませんか、家に行ってもいいですか、家に来ませんか。まるで普通の恋人のデートみたいだな、と誘われる度に苦笑した。その実、きっとトリプルフェイスな彼の何かしかの「偵察」も兼ねていたのだろうとは思う。いや普通の人ならここはいかないと思うよ、という所まで二人で行くこともあったから。
 彼とのデートは、楽しかった。安室さんは話題に事欠かないし説明も上手いから、つい聞き入ってしまう。私だったら絶対行かないような場所に連れて行ってくれて、たまに料理を振舞ってくれて、温もりを確かめあう。定期的に連絡を入れてくる彼に、カモフラージュでも随分と真摯に付き合うんだなあと思うことはよくあった。私が彼の事情を知っていたということもあるかもしれないが、彼と付き合っていて連絡が取れないと言った理由で寂しさを感じたことは殆どなかった。



 何だか雲行きが怪しいぞ、と思ったのは、彼と付き合い始めて数年が経過した頃。
 大きな景気変動があり、工藤新一の名を再び耳にするようになった辺りだ。彼が大々的に活動できるようになったということは、黒ずくめの組織が瓦解したのだろう。それ即ち降谷零の潜入捜査も終了した筈。そう気づいて、そろそろ私と彼の関係も潮時なのだろうな、と覚悟を決めていた。

さん、僕と結婚してくれませんか」

 ――だから、大事な話があるからと呼ばれた先の高級レストランで、まさかプロポーズされるなんて思ってもみなくて、思わず「はぁ!?」と本気で驚いてしまったことをここに告白しておく。
 こうしてあれよあれよという内に結婚が決まり、私の両親への挨拶も終わり、私は安室透の妻になっていた。

 さて、ここで私が最初の方で「安室透」と結婚して今年で早十年が経つと言った理由に触れておきたいと思う。
 簡単な話だ。彼は私と結婚してからも出会った当初の「安室透」の物腰のまま、私と接し続けているという、そんな話。
 籍を入れる以上、彼の本名を見る機会は何度かあった。「安室透」という名と「降谷零」という名について問いかけたこともある。それに対して、彼はこんな風に説明した。

「確かに安室透は偽名……というより、芸名と言ったほうが良いですかね。探偵は何かと恨みを買いやすいものですから、こう名乗ることにしていたんです。降谷零は僕の本名ですが、探偵の安室透と名乗っていた時間が長いので、今はもう安室透と呼ばれるほうがしっくりきてしまって」
「だからって、私がこの件について透さんに聞くまで、話さないつもりだったんですか?」
「……名前の事、嘘をついていたことは心から申し訳なく思います。この件に関して、あなたが不快に思うことも分かっていて、僕は言い出せなかった。ですが、それでも、あなたへの気持ちは本当なんです。……それだけはどうか、信じてほしい」
 
 彼が話さないのは名前の事だけじゃななかった。職業も公安どころか警察とも明かさず、探偵だと通し切った。
 単に「探偵」などではないのだろうと気づいていることに、聡い彼が気づいていない筈がない。それなのに彼は一度たりとも真実を口にしようとはしなかった。私に話せないのではなく、話したくないとでも言うように。
 もしかしたら、私には「安室透」という側面しか見せないつもりなのかもしれない。いつしか私はそんな風に思うようになった。彼は私に「零」と呼ばれるのさえ嫌がっているように見えたから。おかげで今でも彼のことは「透さん」と呼ぶ羽目になっている。
 彼のしたことは、不誠実だと言えば確かにそうなのかもしれない。ここにきて彼の素性を知っていることが仇となった。私は彼の不誠実を糾弾できる立場にあるのに、知っているが故に何故かと問い詰めることもできないし、したくない。そう思って早十年が経過してしまった。子供ももう小学校に入学する。
 
 時刻は夜十一時半を回った。玄関から鍵を開ける音が聞こえてソファから立ち上がる。けれど私が玄関に顔を出すより先に、彼はリビングの扉を開けた。

「ただいま……起きていたんですね、さん。寝ていてよかったのに」
「おかえりなさい。今日帰るって連絡あったから、日付変わるまでは起きてようかなって」
「あの子はもう寝てますか」
「うん。明日学校あるから」
「もうそんなになるんですねえ」

 カーキ色の上着を受け取りながら会話を続ける。ありがとうございますとあの頃より少しだけ年を取った微笑みに、目を細めた。
 彼は結婚して十年経過しても未だに私に敬語を使う。穏やかな目で笑う。時にお茶目に冗談を良い、歯の浮くようなお世辞だって言ってのける。そこに私の記憶にある「降谷零」としての振る舞いはない。徹底して彼は、「安室透」で居続ける。「降谷零」なんて存在、はじめからいませんよとばかりに。

 一体、「降谷零」は何処へ行ったんだろうか?

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