雨の叩く音がしていたんだ

 昔、その男は。昔といってもそう前の話ではなく、私とその男どちらもが「したっぱ」であった頃のことだが、彼は一言でいえば私の「悪友」だった。
 きっかけは食堂で隣同士になったことだったと思う。あいつは入団当初からしたっぱの間で噂されていた。というのも、幹部候補らしいということについての妬み僻みや、高飛車であることへの嫌みとか、女子の間では目の保養だとかそんなもの。私はそれを聞いて面白そうな奴だと思っていた。
 あの日、奴は案の定孤立したまま食堂のテーブルにつき、呼ばれるのを待っていた。両脇は恐らく意図的に誰も座らない。私はトレイに乗ったうどんを持ちながらふむと考える。そして奴が呼ばれ席を立つのを見計らって、その隣にトレイを置いた。奴が戻ってきた時に少しだけ目を見開いたのを横目に、私はマイブームであるうどんを啜る。奴は暫く何か逡巡していたようだが、諦めたのかどうでもよくなったのか、私の隣に腰を下ろした。その時にちらと見えたのは私と同じうどんだった。

「ここのうどん美味いよな」

 切り出したのは私だったと思う。ちゅるんと麺を啜りながら言えば、隣は一瞬固まり、それからもの凄く小さな声でそうですね、と返してきた。正直高飛車だと聞いていたから、奴がこんなに、言ってしまえば陰湿な感じだとは思っていなかった。

「サカキ様かっこいいよな」
「はい」
「お前幹部候補って聞いたけど本当?」
「……なんですかそれ」
「バトル強いのか?」
「それなりには」

 おっここで謙遜しつつも強気な発言! と内心爆笑しながら、そっかーと相槌を打つ。すると今度は隣から質問が飛んできた。質問というか確認だったが。

「あなたは確か、ですね」
「何で知ってんだランスくんよ」

 そこで初めて、お互いに顔を見合わせた。成る程確かに、こいつは女受けしそうな顔立ちをしている。すっとした輪郭に筋の通った鼻、切れ長の瞳。そして形のよい唇が動くのを見て、私は何故だか笑えてきた。
 
「よく、他のしたっぱがあなたのことを話しているのを耳にしますから」
「はあ。何だいい話? 悪い話?」
「どちらも」

 世辞でもいい話だけって言っとけよ、といいつつ、こいつの変に正直な所は好感を持った。

「決めたわ。私お前のバックアップしてやる」
「何も頼んでませんし必要ありません」
「幹部になるなら人脈って大切なんだぜ、分かるだろ」

 そう言って笑ってやれば、そいつは少し渋い顔をしてから、勝手にしてくださいとそっぽを向いた。まずはこの陰気な雰囲気をなんとかしなければならない。私はずずっと汁を啜ると、食べ終わったそれをカウンターへと戻しに行った。
 それからだ。あいつと何かと連むようになったのは。あいつと話すのは他愛のないことばかり。その上話しかけるのは大抵私だ。それでもあいつの反応は楽しかったし、あいつも少し笑うようになってきたからあまり気にしていなかった。



 という団員は、あの頃の私にとって唯一と言っても良い友人だった。いや、友人などとは決して私は思っては居なかったが、まあ、敢えて分類するなら彼女はそういう立ち位置にいただろう。
 彼女のことは前々からそれこそ入団当初から、団員達が噂をしていたので知っていた。曰わく、彼女はサカキ様に厚い信頼を置かれ、したっぱでありながら人事に関与している、と。表立って言われることはなかったし、彼女も口にしたことはなかったが、私をバックアップすると言い、後に私が幹部へと昇進し、彼女が常々口にしていた助言によって問題なく部下を掌握出来たことからも、強ち間違いでも無いのだろうと思う。
 しかし最大の謎は、何故彼女がサカキ様に信頼を置かれていながらしたっぱの身分に甘んじているのか、ということだった。

は、サカキ様の何に惹かれたのですか」
「全部」

 以前、一度だけ私は気になっていたことを尋ねたことがあった。普段質問など口にしない私だったから、彼女は初め驚いていたが、それでいながらそう、条件反射のように答えた。そしてそれでは足りないと思い直したのか、あー、と少しだけ考えた後に。

「その思考も、声も、姿も、バトルも、あの方を構成する……全て」

 その時の彼女の表情を何と表現したらよいのか、私は未だに的確な言葉を当てはめることはできない。憧憬のようでいて、苦渋にも満ちていたように思う。
 彼女がサカキ様の全てに惹かれていると答えた時、私も何とも言えない気持ちになった。今ならばそれが何であったか分かるが、当時はその感情は不愉快であったし、何より彼女に対して抱いているということを認めたくなかったのだ。



 サカキ様がレッドというトレーナーに負けたと聞いた時、私は私の世界が終わってしまったと感じた。そうして実際、ロケット団は解散し、団員は散り散りになった。
 シルフカンパニーでの一連の出来事は、正直あまり良くは覚えていない。私もそのレッドとやらと支給されたポケモンでバトルした覚えはあるが、私が負けてもサカキ様が負ける筈はないと、私を負かしてくれたサカキ様が負ける筈が無いのだと思っていたから、その彼が敗北したと聞いて頭が真っ白になった。
 ただ、茫然と立ち尽くす私を、ランスやアテナが強引にゴルバットで降りしきる雨の中を飛ばせたのは何となく覚えている。
 けれど今は、悲しい位、私は一人きりだった。

「この先どうしような」

 気づけばトキワの森の中にいた。この森は散々迷った覚えがあるから、どの方角に向かえばなんとかなるかは分かっている。私はゴルバットをボールにしまうと、ずっと胸元に下げておいたあるものを取り出す。

「昔お金だけは稼いだからなあ、馬鹿みたいに」

 今の全財産を記録してある、トレーナーカード。ロケット団に入ってからは使えなかったそれを、久方ぶりに両手で弄ぶ。
 本当はこの先どうなっても良かった。私が初めて認めた人は私の目の前から居なくなってしまったから。それでも、私は自棄にはならなかった。辛くともまだ、やるべきことがあった。

「まずはこの制服をどうにかしようか」

 そうして、行ってみようと思った。私とあの方が最初に出会った、トキワジムへと。



 ロケット団を復活させると言ったのはアポロだった。私とアテナ、ラムダ、そしてアポロはそれぞれと何らかの形で関わりを持っていた所謂「幹部候補」若しくは「幹部」である。
 私達はサカキ様の居なくなったロケット団を再興し、行方不明になった再びサカキ様が再びロケット団に戻れるように奔走した。悔やまれたのは、そこにが居ない事だった。彼女が人事に関係していたのは本当らしく、彼女は専らめぼしい人物を教育し、後に幹部となる手腕を身に着けさせる役目を負っていたのだという。その役割を果たす人間が居ない中で、部下を指導するのは大変な骨だった。
 ロケット団の力でもって彼女を見つけた時には、シルフでの一件から実に3年の年月が経っていた。彼女が見つからなかったのは、偏に彼女の入団前に関するデータが無かったことが理由として挙げられる。ロケット団に在籍していた時の記録は明細であるのに、以前の経歴は全く無い。話によると故意に消された形跡があるという、それもシルフの件以後に。それが何を意味するのか――私は予想できない訳ではなかったが、矢張り認めようとはしなかった。



「こんな形で再会したくありませんでしたよ、私は」
「私も、もう二度と会うことはないだろうと思っていたなあ」

 ラジオ塔に侵入するのは、然程難しい事ではなかった。懐かしいロケット団の制服を拝借したら、あっさりできた。ロケット団のセキュリティどうなってんだ、と今となっては関係ない組織に若干呆れつつ、あの子達とは違うルートで上階へと進んでゆく。あの子達の方に加勢が行くと困るのだ。
 そう思いつつ上っていった先に出会った、あの男。前よりも神経質そうな顔つきに、無性に泣きたくなった。今更何を、と頭の片隅で考えつつ、私は笑みを浮かべた。こいつが此処にいるってことは、ここは要である筈で、ここを突破しなければロケット団の今の元締めを倒すことはできない。それが無傷で立っているのだ、……まだ手こずっているのだろうか、あの子達は。
 面倒なことになったなあとため息を吐いていると、目の前にゴルバットが現れる。かなり育てられているようだ。だがまだ、威嚇だけで攻撃の意志は見て取れない。

「何故、あれ程までにサカキ様を思っていた貴女がこんなことをしているのです」
「私の憧れたあの人はもう居ないから、さ」

 トキワには新しいジムリーダーが就任した。中々の腕前だったが、あの人には及ばない。私は何年か越しにグリーンバッジを手に入れた。しかし嬉しさは、ない。

 あるのは底なしの虚しさだけで。

「……今からでも、遅くはないです」

 此方に戻ってきませんか、と問うその男を、私はとても悲しいと思った。同時に、自分が酷く醜く思えた。何だか申し訳なかったけれど、私はなんとか笑った。ボールを手に取り、それを放る。中から現れたのは、クロバット。ロケット団で支給され唯一、そのまま手持ちにしたポケモンだ。

「……そうだなあ、ランスが私に勝ったら」

 考えるよ。



 我々ロケット団復活を告げるために占拠したラジオ塔。そこに侵入してきたトレーナーと聞いて、思い出すのは三年前の悪夢だった。次々に耳に入る敗北の報告に、自然と眉間に皺が寄る。ここ最近、我々の活動を妨害してきた子供がいたが、まさかとは思っていた。
 しかし実際私の前に現れたのはあの子供ではなく、オーリだった。久方ぶりに目にした彼女は、懐かしいロケットのしたっぱの格好をしていた。しかしその表情はいたく、堅い。

「……何故」

 そして認めざるを得ない敗北に、零れたのは矢張りその二文字。彼女が強いというのはそれこそ、彼女がロケット団に居た頃から耳にしていたが、実際相対してみて初めて実感した。彼女はしたっぱなどという枠組みでは到底収まりきらない、そんな強さを持っていた。だから、サカキ様の居ないロケット団に意味などないというのだろうか。サカキ様が居なければ、ロケット団などどうなっても良いと言うのだろうか。
 ああ、ならば、私は今まで何のために。何のためにロケット団を復活させようと画策し、奔走したのだというのか。

「私は」

 私は、サカキ様ではなくて、ただ一人。この目の前の女の居場所を、無くしてしまいたくなかったのだ。

さん!? 何でここに!」
「ここはもう良いから、大丈夫。早く行きな」

 駆け寄ってくるあの子供。遠くで又繰り返すのかという声が聞こえる。これは悪夢だろうか。夢ならば――覚めて欲しい。
 ああ、でもこの夢でなければ、彼女とは一生会えなかったのかもしれない。そう思うと、さっきまでの感情はすっと何処かへと消えていった。

「ランスさあ」

 彼女の呼ぶ声で顔を上げる。昔のように気安く声を掛けた彼女の顔が、悲しそうに見えたのは私の都合のいい解釈だろうか。

「もう、やめろよ。全然楽しそうじゃない」
「今更、何を」
「お前が昔みたいに楽しそうにしてたら、言わないつもりだったけど。何かロケット団にいても、辛いって顔してるから」

 もう潮時だって、分かってるだろ。そう言った彼女に、私は。

「……それは、あなたが居ないからでしょう!」

 突然怒鳴り声を上げた私に、は瞠目したようだった。そしてはは、と声を上げ、目を細める。嬉しいねえ、と言う彼女がふざけているようにしか見えず、私はその胸倉を掴むと彼女の唇に噛みついた。この渦巻く感情を、何か行動にせずには居られなかった。



 アポロが宣言をして、ロケット団は再び解散した。どうすれば良いのか分からず右往左往している団員達に、私は指示を出す。こういう時に制服着ていてよかったなあとしみじみ思った。
 ずっとしたっぱとして生きてきたが、別にしたっぱ志望だった訳ではなかった。同時に、幹部志望だった訳でもなかった。……つまりは、そういうことだ。けれどサカキ様は重大な任を私に与えてくれた。私はしたっぱだったが、ただのしたっぱではなかったのだ。そのことは今でも、私の中で宝石のように輝いている。
 あの子達は無事に逃げ切れただろうか。私はこの場に来た若いトレーナー達を思った。解散宣言が出た、即ちあの子はアポロに勝ったということだ。アポロが正しくサカキ様の意志を継いでいたとしたら、きっとあの子に危害を加えたりはしないだろう。だからきっと、もたもたしていなければ逃げ切れた筈だ。

「さあ、一人残らず逃げまくれ!」

 逃げ去る団員達を見送って、そんな逃げる姿に笑いがこみ上げてきた。
 終わりとはこんなにも清々しいものだったのか。私は以前解散した時のことを思った。あの時は絶望しかなかった。しかし今はそんなもの微塵も感じない。

「ほら、ランスもいきなよ」

 頬を赤く腫らし床に腰をついていたランスに声をかける。そろそろ彼も出ないとまずいだろう。今のロケット団の幹部は、確かアポロ、アテナ、ランス、ラムダだったろうか。先程アテナとラムダが出て行くのは見た。アポロはもしかしたら責任者として最後まで残るかもしれない。
 ラジオ塔下方から警察のサイレンが聞こえてくる。私は嘆息すると、無理やりランスの腕を持ち上げた。

「何故、ロケット団でないあなたがここまでするんですか?」

 しかしランスは動こうとせず、それまでずっと黙していたのが、見上げながら問いかけてくる。
 思わず、何でそんなことを、と問い返しそうになった。そんなの、余りにも自明のことじゃないか。
 それとも、これは口にしなければならないことなのだろうか――けじめとして。それならば私は、答えなければならないのだろう。

「だって、そんな立場に引き上げてしまったことには、私も少なからず責任があるからな」

 正直ロケット団に戻るとか戻らないとか、私には本当にどうだっていいことだった。今更未練は欠片もない。ただ、後悔だけは拭えなかった。私の手で背中を押した人物を、その最後まで見守る義務があるのだから。

「ランス、生きてよ」

 絶望を何度味わっても人は何度でも前を向ける。それを私はこの身を以て教えにきた。教えにきた、なんて本当はそんな大層なことじゃないけど。
 本当は、ただ、私はほんの少しの手助けをしただけなのだ。あの子達の理想と、私のエゴの達成のために。

「そして私と一緒に逃げよう」

 このしみったれて陰気な殻の中からさ。

 ランスの手を引く。もう抵抗はなかった。私はクロバットを出した。二人では飛ぶのはきついだろうか、いやでも、この子なら成し遂げてくれる。
 だってこの子もまた、我らロケット団残党の一員なのだから。

 外は矢張り雨だった。絶望色の空は何度だって体を叩く。でも、もう辛くなんてないさ。もう、一人なんかじゃないさ。

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